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四嶺の国  作者: ネージュ
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次世代編 第2話 止まった冷気


次世代編 第2話 止まった冷気


 北の街に、春とは思えない生温い風が流れ込んだ日だった。


 雪解け水は多く、

 井戸の水位も、記録上は安定。


 氷室管理区には、まったく異常の兆しはなかった。


 ――その時点では。


---


「通気孔、正常。

 湿度、基準内。

 水路流量……問題なし」


 ユイは朝の点検を終え、小さく息をついた。


 温度計は、氷室中央で マイナス二度を示している。


(……今日も、いつも通り)


 いつも通りという言葉が、

 この時ほど頼りなく、そして危険な言葉になった日はなかった。


---


 異変が起きたのは、昼過ぎだった。


 保存庫の最深部――

 最も温度が安定しているはずの根菜区画で、

 見回りの職人が、足を止めた。


「……なんだ、これ」


 吐く息が、白くならない。


 温度計を確認する。


 三度。


「……冗談、だろ」


 保存庫全体に、警鐘が鳴った。


 金属板を叩く音が、氷室内に反響する。


「ユイ!

 最深部が、三度を超えた!」


 その報告に、ユイの顔から血の気が引いた。


「……そんなはず、ありません!」


 走る。


 梯子を駆け下り、冷気の通路を抜け、

 最深部の扉を開けた瞬間――


 むわりと、生臭い空気が流れ出た。


 温度計は、さらに上がっている。


 五度。


「……冷気が……流れてない……」


 冷却用の地下水路が、

 流れていない。


 それは、氷室の心臓が止まったことを意味していた。


---


「水路を開ける!

 弁、最大!」


 ベテラン職人が叫ぶ。


「通気孔、全開!」


 次々と指示が飛ぶ。


 ユイも必死に走り、

 副水路の弁を回した。


 だが――

 冷えない。


 水は流れる。

 風も通る。


 それでも、冷気が戻らない。


 保存庫の温度は、刻々と上昇していく。


 七度。

 九度。

 十一度。


「……腐敗域に入る……!」


 誰かが、引きつった声を上げた。


---


 夕方。


 根菜区画の保存棚から、

 一本、また一本と、異臭が立ち始めた。


 干し肉の表面が、わずかに汗をかく。

 漬け込み壺の縁に、泡が立つ。


「……全部……ダメになる……」


 ユイの喉が、からからに乾いた。


 この区画だけで――

 北の街、三週間分の食料。


 それが、今、目の前で腐り始めている。


---


「ユイ」


 背後から、静かな声がした。


 振り返ると、白衣のリナが立っていた。


「……先生……」


 ユイの声は、震えていた。


「目の前の温度だけ見ないで。

 流れを見なさい」


 リナは、床に膝をつき、

 地下水路の石壁に、そっと手を当てた。


「……これは……

 止まったんじゃない」


「え……?」


「奪われた流れよ」


 その言葉に、ユイは息を呑んだ。


---


 リナは、低く指示を出した。


「すぐに、

 氷室から全保存物を搬出しなさい。

 手で冷やせる分だけでも、外へ」


「で、でも……!」


「迷っている時間が、

 一番多くの食料を殺す」


 その言葉は、

 かつてリナが救えなかった命を前にして

 学んだ、最も重い教訓だった。


「……はい……!」


 ユイは叫び、職人たちに伝令を走らせた。


---


 北の街は、一気に戦場になった。


 井戸から水を汲み上げ、

 雪解けの残雪を集め、

 夜になる前に、少しでも冷やし続ける。


 保存庫から運び出される食料。

 次々と街の広場へ並べられる樽。


 だが――

 すべては守れなかった。


 三割が完全腐敗。

 二割が、廃棄寸前。


 五割だけが、

 ぎりぎりのところで生き残った。


---


 深夜。


 氷室は、完全に停止したままだった。


 ユイは、保存庫の前に座り込み、

 両膝を抱えて動けずにいた。


「……わたしが……

 今朝、気づいていれば……」


 いつも通り、という思い込み。

 昨日と同じ、という油断。


(……わたしが……

 この街の食料を……)


 そこへ、リナが静かに腰を下ろした。


「……違う」


「……え……?」


「これは、あなた一人の責任じゃない」


 リナは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「この氷室は、

 人が作った最初の世代の施設。

 設計も、まだ未知だらけなの」


 ユイは、歯を食いしばる。


「それでも……

 わたしが……見ていたのに……!」


 その声は、涙に濡れていた。


 リナは、そっとユイの手を取った。


「それでもあなたは――

 見て、走って、止めようとした」


「……」


「最善を尽くした失敗と、

 何もしなかった失敗は、

 同じじゃない」


 この言葉は、

 かつてロイシュが、世界の心臓を止めた後

 背負い続けていた苦しみと、

 同じ種類の言葉だった。


---


 夜明け。


 北の街に、重い霧が下りていた。


 氷室はまだ動かない。

 だが、街は完全には止まらなかった。


 職人たちは原因調査に入る。

 農夫たちは、配給の再計算に取りかかる。

 薬師は、食中毒の予防薬を配る。


 世界が一度壊れた街は、

 壊れながらも、ちゃんと動いていた。


---


 診療所の裏。


 ユイは、洗い場で、手袋を洗っていた。


 水は冷たい。

 指先が、赤くなる。


「……氷って……

 冷たいだけじゃ、だめなんですね」


 ぽつりと、リナに言う。


「そうよ」


 リナは、すぐに答えた。


「冷たいだけじゃ、

 “守る力”にはならない」


 ユイは、濡れた手を見つめた。


「……わたし、

 氷室の長になりたいって言いました」


「ええ」


「……今は、

 なれる気が……しません」


 リナは、少しだけ笑った。


「今、そう思えるなら――

 あなたはもう半分なっているわ」


 ユイは、目を見開いた。


---


 その夜。


 氷室の地下深くで、

 水路の石壁の奥――


 誰にも見えない場所で、

 ほんの微かに、冷気とは違う脈動”が揺れた。


 人の手で作ったはずの氷室の中で、

 人のものではない動きが、再び芽を持ち始めていた。


 だが、それに気づく者は、

 まだ、誰もいなかった。



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