次世代編 第1話 氷の温度を知る少女
次世代編 第1話 氷の温度を知る少女
北の街の朝は、今でも冷たい。
装置がなくなって八年。
けれど、冬の寒さだけは、何も変わらない。
氷室管理区の鐘が、かん、と一度鳴った。
「……起きる時間だ」
薄暗い部屋で、少女はゆっくりと上体を起こした。
名は――ユイ。
十五歳。
三年前から、北の街の新しい氷室保存庫で働く最年少の職人見習いだ。
寝台の横には、厚手の仕事着。
手縫いの手袋。
そして、いつも首から下げている、小さな温度計。
(……今日の外気、マイナス三度……)
窓の外は、白い息がすぐに霧になるほど冷えている。
それでも、彼女の目には迷いがなかった。
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新しい氷室は、かつての地下に雪を詰める穴とは違う。
地熱と井戸水の流量を利用した、完全人力管理式の保存施設。
壁は分厚い石積み。
天井には通気孔。
井戸から引いた水路が、ゆっくりと庫内を巡っている。
「ユイ、通気孔の湿度確認!」
「はい!」
彼女は小走りで梯子を上り、通気口の蓋を開けた。
冷気が、ぶわっと噴き出す。
「……湿度、少し高いです!
昨日より二割上がってます!」
「分かった、下層の水路を少し絞る!」
氷室は、もう勝手に冷える場所ではない。
人が判断し人が失敗し人が調整する場所だ。
その“人の一員”に、ユイはなっていた。
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午前の仕事は、保存食の状態確認だった。
干し肉。
根菜の漬け込み壺。
乾燥果実。
一つ一つ蓋を開け匂いを確かめ温度を測る。
「……この樽、少し甘い匂いがする」
ユイは、同僚の職人に声をかけた。
「腐敗まではいってない……けど、
このままだと、三日以内に危ないです」
「……十五歳の鼻、あなどれないな」
年配の職人が、苦笑しながら言う。
「薬師殿に連絡しよう」
「はい。リナ先生に――」
その名前を口にした瞬間、
ユイの背筋は、自然と伸びた。
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昼。
氷室区の簡素な食堂で、ユイは黒パンと保存魚の昼食をとっていた。
向かいには、同年代の少年職人、カイ。
「なあユイ、
もしさ……氷室がまた全部壊れたら、どうする?」
「……どうする、って?」
「全部。
水路も、通気孔も、保存棚も。
また、あの空っぽの北に戻ったら」
ユイは、少し考えてから答えた。
「……また、作る」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない。
でも、
誰もやってくれないってことは、もう知ってるから」
カイは、言葉を失った。
それは、
装置の時代を知らない世代だからこそ、
言える言葉だった。
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午後。
診療所から、使いの子が走ってきた。
「ユイさん!
保存食で、食中毒の人が出たって……!」
ユイの胸が、ぎゅっと締まった。
「……あの、甘い匂いの樽だ」
走って診療所へ向かう。
中では、一人の農夫が苦しそうに横たわっていた。
そばに立つ白衣の女性――
薬師リナ。
「……ユイ」
その一声で、ユイの心は落ち着いた。
「はい。
あの樽、
湿度の影響で、内部発酵が進んだ可能性があります」
「……やっぱりね」
リナは、すぐに処置の指示を出す。
解毒。
水分補給。
体温の管理。
ユイは、リナの動きを一つも逃さぬように見つめていた。
(……この人が、
この街の温度を支えてる)
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夜。
仕事を終えたユイは、氷室の屋根の上で、一人空を見上げていた。
星は少ない。
雲の多い、北の空。
胸元の温度計を、そっと握る。
「……冷たい」
だが、それは恐れる冷たさではなかった。
人が測り、
人が管理し、
人が責任を持つ冷たさ。
そこへ、足音がした。
「……こんなところで何してるの?」
リナだった。
「……考えてました」
「何を」
「……この街のこと。
わたし、
いつか氷室の長になりたいです」
あまりに真っ直ぐな言葉に、リナは一瞬目を見開いた。
「……どうして?」
ユイは、空を見たまま答えた。
「この街は……
誰かが守ってくれる場所だったって、
昔の人は言います」
「……そうね」
「でも今は、
誰かが守らないと壊れる場所です」
小さな拳を、ぎゅっと握る。
「だから、
わたしは……
守る側の人になりたい」
少しの沈黙。
冷えた夜気の中で、リナは静かに微笑んだ。
「……いいわ」
「……え?」
「あなたなら、なれる。
きっと、
壊れやすいものの価値を、ちゃんと知っているから」
ユイの目が、少し潤んだ。
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北の街の夜は、今日も静かに更けていく。
勝手に回っていた時代は、もう終わった。
けれど今は――
人が回している時代が、確かにここにある。
そしてその中心に、
まだ小さな手で、
必死に冷たさを測る少女がいる。
その手が、
いつかこの街の氷の命脈を預かる日が来るとは、
まだ誰も知らない。
――だがそれは、
希望の重さを持った、確かな未来だった。




