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四嶺の国  作者: ネージュ
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第2話 甘すぎるパン


第2話 甘すぎるパン


 首都ホウランの城下町は、夕暮れになると昼とは別の顔を見せる。


 仕事を終えた商人たちが通りに溢れ、酒場からは陽気な歌声が漏れ、パン屋の窓からは甘く香ばしい匂いが流れ出す。

 ロイシュはその光景の中を、どこか現実感の薄れた足取りで歩いていた。


(……夢じゃ、なかったんだ)


 南の橋での出来事は、頭の奥で何度も反芻されている。

 終わらない橋。光る雲。崩れ落ちる足場。そして、落下の瞬間に見えた“谷の底の光”。


 あれが幻覚だったのなら、なぜ――

 岩塩の木箱に、あの灰色の粉が残っていたのか。


 納品は、滞りなく終わった。

 役所の役人はいつも通り無表情で書類を受け取り、補助金の処理も問題なく進んだ。

 誰一人として「橋が崩れた」などとは言わない。そんな報告も上がっていない。


 世界は、何事もなかったかのように回っている。


(気味が悪い……)


 だが、考え込んでいても仕事は終わらない。

 ロイシュはいつものように城下町の表通りを抜け、最近評判を聞いたパン屋の前に足を止めた。


 ――ベルトの店。


 昔からある古いパン屋だが、最近になって急に客が増えたと噂になっている。

 店先には、焼きたてのパンを求める人の列ができていた。


「……ずいぶん繁盛してるな」


 ロイシュは首をかしげ、列の最後に並んだ。

 周囲の客の会話が、自然と耳に入る。


「最近ここのパン、やたらと甘くてさ……」

「砂糖も蜂蜜も使ってないらしいぞ」

「なのに、食べると妙に……また食べたくなるんだ」


 また、という言葉に、ロイシュの胸がわずかにざわついた。


 順番が来て、カウンター越しにパンを受け取る。

 見た目は、ごく普通の小麦パンだ。焦げ目も形も、昔から見慣れたものと変わらない。


 ロイシュは一つ、指で割ってみた。


 ふわり、と湯気が立ち、同時に甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「あ……」


 思わず声が漏れた。

 焼き菓子のような甘さではない。

 もっと柔らかく、舌の奥に残る“生の甘み”だ。


 一口、かじる。


 噛んだ瞬間、意外なほどの甘さが広がった。

 砂糖の直線的な甘さではなく、穀物の芯から染み出したような、深い甘み。


「……うまい」


 思わず本音がこぼれる。


 確かに、これは評判になる。


 だが同時に、ロイシュは違和感を覚えていた。


(小麦だけで、こんな甘さが出るか?)


 自分は元魚商人だ。食材の“本来の味”にはそれなりに敏感なつもりだ。

 この甘さは、どこか“行き過ぎている”。


 ロイシュはパン屋の主人――ベルトへ視線を向けた。


「この小麦、どこのものだ?」


 一瞬だけ、ベルトの手が止まった。


「ああ……南東の畑の農夫から買ったものでね。最近、ちょっと変わった麦が採れるらしくて」


 その言葉に、ロイシュの胸が小さく跳ねた。


(南東……西の水脈と、つながってるあたりか)


 だが表には出さず、ただ頷いた。


「評判がいいみたいだな」


「ああ、ありがたい話だよ。こんなに客が増えたのは久しぶりだ」


 誇らしげに笑うベルトの顔には、陰りはない。

 不安を煽る気にもなれず、ロイシュは代金を支払い、店を後にした。


 通りを歩きながら、残りのパンをゆっくりと食べる。


 甘い。

 確かに甘い。

 だが、食べ進めるうちに、奇妙な感覚が胸に広がっていく。


 ――腹は満ちているはずなのに、

 ――なぜか「まだ足りない」という感覚が残る。


(……気のせい、か)


 ロイシュは頭を振って、宿の二階へと戻った。


 夜、窓の外からは城下町の喧騒が遠くに聞こえる。

 寝台に横になっても、なかなか眠れなかった。


 閉じたまぶたの裏に、あの橋の光景が何度もよみがえる。

 落ちていく感覚。

 谷底の青白い光。

 “何か”が、こちらを見上げていたような感触。


 そして――

 口の中に、まだ残っている甘さ。


「……落ち着け。全部、ただの疲れだ」


 そう言い聞かせて、ようやく浅い眠りに落ちた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、ロイシュは城下町がいつもより騒がしいことに気づいた。


 通りではパンを抱えた人々が、やけに早足で行き交っている。

 パン屋の前には、昨日よりもさらに長い列。


 その中に、妙に青白い顔の男がいた。

 汗をかき、息が荒く、パンを胸に抱きしめるようにしている。


「おい……大丈夫か?」


 ロイシュが声をかけると、男は一瞬こちらを見たが、焦点の合わない目で首を振った。


「……また……買わなきゃ……」


 それだけ言って、列へ戻っていく。


 胸の奥が、冷たくなる。


(依存……?)


 馬鹿な、と思いながらも、ロイシュはその場を離れられなかった。

 足が、無意識にパン屋の方へ向かってしまう。


 ――ほしい。

 ――もう一つ、口にしたい。


 そんな衝動が、知らぬ間に胸の底から湧き上がってきていた。


 そのときだった。


 視界の端が、ほんの一瞬だけ――

 淡く、青白く光った。


 振り返っても、何もない。

 だがロイシュには、はっきりと“見えた”感覚が残っていた。


 南の谷で見た、あの光と、

 どこか同じ質の光。


「……繋がってる、のか?」


 無意識に口からこぼれた言葉に、ロイシュ自身が息を詰まらせた。


 橋。

 光。

 赤い小麦のパン。

 そして、人の心を縛る甘さ。


 ――これは、偶然ではない。


 理屈ではまだ何も説明できない。

 だが、現実主義者のロイシュにとって十分すぎる“証拠”が、すでに揃い始めていた。


 その夜、ロイシュは決意する。


 次の納品先――

 東の街ハナカゲの“薬師”に、この話をすることを。


 迷信を信じない自分が、

 それでも“説明のつかない現象”として、ただ一人相談できる相手。


 酒場で、いつも軽口を叩き合うあの薬師なら、

 この異常を“現実の言葉”にしてくれるかもしれない。


 ロイシュは窓の外を見上げた。


 夜空は澄みきり、雲ひとつない。

 だがその奥のさらに向こうで、何かが静かに――

 動き始めている気配が、確かにあった。


 こうしてロイシュは、知らぬ間に

 五つの街を結ぶ異変の“調査者”として、歩き出していた。


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