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四嶺の国  作者: ネージュ
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スピンオフ 第5話 それぞれの土地で生きる


スピンオフ 第5話 それぞれの土地で生きる


 東の街ハナカゲに、三度目の春が来ていた。


 朝靄の中、森の芽は一斉に息吹き、

 染料職人たちの工房では、今年最初の鮮やかな布が干され始めている。


 薬師ギルドの中庭に、静かな緊張が漂っていた。


 今日――

 リナが、正式な薬師として認定される日だった。


---


 中庭の中央、石敷きの円陣の中にリナは立っていた。


 もう見習いではない。

 胸元の紋章も、仮の布ではなく焼き印の入った本物だ。


 フォルンが前に出る。


「リナ・シジマ。

 あなたは三年の修行を終え、

 東の街薬師ギルドは、あなたを一人の薬師として認めます」


 ざわめきが、ほんのわずかに広がる。


 ミュリエが、端からにっこりと手を振った。


 リナの喉が、きゅっと鳴った。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げる。


 この三年。

 失敗も、迷いも、涙も、すべてが身体に刻まれている。

 それでも、ここまで来た。


 だが――

 認定は、終わりではなかった。


---


「リナ。

 あなたの初任地が、すでに決まっています」


 フォルンの声に、リナは顔を上げた。


「……どこ、でしょうか?」


「北の街、氷室地区だ」


 その地名を聞いた瞬間、

 リナの胸の奥で、かすかなざわめきが走った。


 ――北の街。

 装置停止後、急速に均衡を失った場所。

 保存が揺らぎ、食糧と水の管理が、人の手に戻った土地。


「今の北は、不安定だ。

 保存環境の変化による体調不良、

 食中毒、凍傷、慢性的な冷え――

 薬師の手が、圧倒的に足りていない」


 フォルンは、静かに続ける。


「だが、あそこは再生の最前線でもある。

 お前の流れを読む力は、必ず役に立つ」


 リナは、胸の前で手を握りしめた。


 怖くないわけがない。

 だが――

 なぜか、逃げたいとは思わなかった。


「……分かりました。

 北へ、行きます」


 その返事に、フォルンはわずかに目を細めた。


「無理をするな。

 だが、逃げるな」


「……はい」


---


 数日後。


 街道を進む馬車の上で、リナは東の街を振り返っていた。


 森。

 工房。

 薬草庫。


 すべてが、遠ざかっていく。


 隣に座るのは、派遣に同行する年若い薬師助手と、簡単な荷。


 乾燥薬。

 温薬。

 包帯。

 そして――

 布袋に入った、あの光らない石。


 それはもう、頼るものではない。

 だが、今の自分がここに来た理由として、持ってきた。


(……わたしは、北で、何を見るんだろう)


 氷室。

 地下倉庫。

 保存と、崩れゆく均衡。


 心が、自然と引き締まる。


---


 北の街は、リナの想像以上に静かだった。


 かつては、氷室を中心に人の声と荷の音が絶えなかった場所。

 今は、井戸の音と風の音だけが目立つ。


「……人が、少ない」


 助手が呟く。


 通りを歩く人々の顔色は、どこか青白い。

 痩せた者も多い。


 保存が自動で保たれていた時代が終わり、

 人は、初めて寒さと腐敗と向き合う街に戻されたのだ。


 リナの胸が、静かに痛んだ。


---


 初日から、患者は絶えなかった。


 古い保存食を食べて腹を壊した農夫。

 凍傷寸前で指の感覚を失いかけた子ども。

 慢性的な冷えで眠れなくなった老婆。


 リナは、休む間もなく動き続けた。


 水ではなく、

 血と体温の流れを読む。


 腐敗の兆しを見抜き、

 凍った循環を温で戻し、

 衰えた体に、少しずつ巡りを作り直す。


(……全部が、東とは違う)


 それでも、

 人の体は、人の体だった。


 ここでも、

 あの戻ってきた温度は、確かに存在していた。


---


 夜。


 北の街の簡素な宿の一室で、リナは机に向かっていた。


 今日一日の診療記録を書き終えると、

 深く、息を吐いた。


 布袋から、石を取り出す。


 もちろん、何も起きない。

 かつての光も、呼び声も、ない。


「……ここは、

 あなたが守っていた場所だったんだね」


 北の氷室。

 勝手に保たれた保存。

 勝手に回っていた循環。


 今、そのすべてを――

 人の手で、やり直している。


 石を、そっと机の引き出しにしまう。


 もう、頼らない場所にしまった。


---


 翌朝。


 診療所の前に、一人の少女が立っていた。


 年は、十、十一ほど。

 痩せた体。

 だが、目に強い光がある。


「……薬師さん」


「はい」


「……あたし、

 氷室の仕事、したいの。

 でも……みんな、無理だって言う」


 リナは、その目をまっすぐ見た。


 かつての自分と、少し似ている気がした。


「どうして?」


「……今のままだと、

 この街、また誰か死ぬって……思ったから」


 その言葉に、

 リナの胸の奥が、強く打たれた。


 ――この街は、もう誰かに管理される街ではない。

 だが同時に、

 誰かが責任を持たなければ壊れる街でもある。


「……いいよ」


 リナは、静かに頷いた。


「一緒に、

 この街の温度を守ろう」


 少女の目が、大きく見開かれる。


 そして、ゆっくりと笑った。


---


 その夜。


 北の街の井戸の水は、

 かすかに、湯気を帯びていた。


 極端に冷えきっていた地下水が、

 少しずつ、安定し始めている兆し。


 誰にも気づかれないほど、微かな変化。


 けれどそれは――

 確かに、再生の始まりだった。


 リナは、星のない曇った空を見上げながら、

 静かに呟く。


「……ロイシュさん。

 あなたが止めた世界は、

 ちゃんと、こうして……歩き出しています」


 答えはない。


 けれど、風が、北の街の静かな屋根を撫でていった。


 それで――充分だった。



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