スピンオフ 最終章 同じ空の下で
スピンオフ 最終章 同じ空の下で
北の街に、初めて安定した春が来ていた。
装置が止まってから、八年。
氷室は完全な人の手の施設になり、
雪は井戸水と地熱を利用した新しい氷室で管理されていた。
朝、まだ冷たい風の中で、診療所の扉が開く。
「……今日も、忙しくなりそうだね」
そう呟いたのは、薬師リナ・シジマ。
二十二歳。
北の街に来て、もう四年になる。
かつての見習いの面影はもうほとんど残っていない。
白衣の袖は使い込まれ、指先には小さな火傷と切り傷の跡。
それでも、目にははっきりとした芯が宿っていた。
診療所の前を、氷室職人の若者たちが通り過ぎていく。
「リナ先生、今夜は井戸下の温度測りに行きます!」
「足、冷やさないで。
戻ったら、必ず温めてから寝ること」
「はーい!」
この街は、もう守られるだけの街ではない。
人が知恵を出し合い失敗し繰り返しながら――
ようやく、自分の足で立つ街になっていた。
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昼近く。
一台の馬車が、北の街の中央通りへ入ってきた。
岩塩と保存魚の混載。
首都の補助印つき。
何の変哲もない商用馬車。
だが、その手綱を引く男を見た瞬間――
リナの胸が、はっきりと跳ね上がった。
「……まさか……」
浅く焼けた肌。
無駄のない動き。
少し下がった前髪。
首都で何度も見た姿。
子どもの頃、池のそばで遠くから眺めていた姿。
ロイシュ。
公認岩塩商人。
この国の循環が人の手に戻った後を支える、数少ない商人の一人。
馬車が止まり、男は軽く周囲を見回した。
そして――
診療所の前に立つ白衣の女性と、視線が合った。
一瞬、互いに言葉を失う。
風の音だけが、北の街の通りを通り抜けた。
「……」
「……」
先に息を吐いたのは、ロイシュだった。
「……成長したな」
それは、再会の言葉としては不器用すぎたが――
だからこそ、彼らしか交わせない言葉だった。
リナは、小さく笑った。
「……ロイシュさんも。
ちゃんと生きてる顔してます」
「それは……褒め言葉か?」
「はい。
少なくとも、昔よりは」
ロイシュは、ほんのわずかだけ口角を上げた。
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夕方。
二人は、診療所の裏の小さな井戸のそばに腰を下ろしていた。
北の空は、相変わらず曇りがちだが、
今日は珍しく、夕焼けの色が雲を染めている。
「……北の街は、どうだ?」
ロイシュが問う。
「……正直に言うと、
楽じゃないです」
リナは、包帯を干しながら答えた。
「保存は不安定。
食中毒は毎年出るし、
井戸水の温度も、まだ安定しきらない」
少しだけ、声を落とす。
「……でも、
勝手に守られてた頃より、
今の方が……好きです」
ロイシュは、静かにうなずいた。
「俺も、同じだ」
彼は、手に持っていた木箱の蓋を開けた。
中には、南の岩塩、
そして――西の池で獲れた保存魚。
「……これは?」
「昔の仕事の癖でな。
北に来ると、どうしても魚も積んでしまう」
リナは、驚いたように目を見開いた。
「いまでも……?」
「ああ。
売らなくても、
あの頃の自分を、忘れないようにな」
リナの胸に、あたたかいものが広がった。
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沈黙が、心地よく続く。
やがて、リナが小さく口を開いた。
「……あの石のこと、
覚えていますか」
ロイシュの視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「ああ。
世界の調律器だった石だ」
リナは、懐から布袋を取り出しそっと開いた。
光らない石。
ただの、静かな石。
それを、二人で見つめる。
「……今は、もう何も起きません」
「それでいい」
ロイシュは、迷いなく言った。
「起きない世界を、
人が必死に保つのが、今の時代だ」
「……はい」
リナは、静かに答えた。
「この街も、
もう誰かに管理される街じゃない。
間違って、失敗して、それでも――
取り戻す街です」
ロイシュは、その言葉に、深く息を吐いた。
「……それを聞けて、よかった」
それは、彼がこの国の心臓を止めた男として、
ずっと背負ってきた問いへの――
ようやくの答えだった。
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夜。
二人は、宿の小さな食堂で向かい合っていた。
湯気の立つ魚の煮込み。
北の野菜。
そして、南の岩塩。
すべてが、
管理されない世界の材料。
「……うまいですね」
リナが言う。
「そうだな」
ロイシュも、素直にうなずいた。
数年前までなら、
この味は勝手に保証されていた。
今は違う。
誰かの努力がなければ、
この一皿は存在しない。
「……ロイシュさん」
「なんだ」
「あなたが止めた世界は、
たしかに、
不便で、厳しくて、
ときどき……人を殺します」
一瞬、空気が張り詰める。
「でも――」
リナは、はっきりと続けた。
「わたしは、
この世界の方が……生きていると思います」
ロイシュは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……それを聞くために、
俺は今日、ここへ来たのかもしれないな」
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翌朝。
ロイシュは、再び馬車に荷を積み、街道へと向かう。
いつもと同じ仕事。
いつもと同じ道。
だが、今日は違った。
診療所の前で、リナが手を振っている。
「……次、来るときは連絡してください」
「気が向いたらな」
「気が向かなくてもです」
ロイシュは、苦笑した。
「……検討しよう」
馬車が、ゆっくりと動き出す。
リナは、最後まで見送った。
そして、胸に手を当てる。
石はもう、光らない。
誰も呼ばない。
それでも――
人は人と出会い別れまた巡り合う。
それだけで、
この世界の循環は続いていく。
北の街の空の下――
二人は、それぞれの場所へ戻っていった。
同じ空の下で、
違う役割を担いながら、同じ時代を生きる人間として。
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数年後。
北の街の氷室は、
完全人力管理式保存庫として、他の街の見本になっていた。
診療所には、若い薬師たちが集い、
その中心には、リナの姿があった。
そして街道を行く馬車の一台には――
今も変わらず、岩塩と魚を積む一人の商人がいる。
世界は、もう勝手には回らない。
けれど、
人がつなぎ、人が失い、人が取り戻し――
今日も、確かに回している。
それでいい。
それが、
ロイシュとリナが生きる時代の、当たり前なのだから。
――スピンオフ 最終章・完。




