スピンオフ 第3話 戻ってきた温度
スピンオフ 第3話 戻ってきた温度
東の街ハナカゲに、雨が降っていた。
細く、長く、森の葉を叩く静かな雨。
土と薬草の匂いが、いつもより濃く、重たい。
リナは、薬草庫の窓辺で、乾燥棚を気にしながら空を見ていた。
(……今日は怪我人が増える)
森の作業は、雨の日ほど事故が起きやすい。
滑り、転び、刃物を誤り、獣に出くわす。
それは、薬師見習いになって三か月で、
リナが体で覚えた規則だった。
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予感は、外れなかった。
昼過ぎ、担ぎ込まれたのは若い染料職人だった。
「転倒事故だ!
脚を強く打っている!」
左脚は、膝から下が不自然に曲がり、
皮膚の下で骨がずれているのが、はっきりと分かる。
(……骨折……)
リナの喉が、きゅっと鳴った。
だが、逃げなかった。
前回。
狩人を救えなかった夜から、
彼女は考えることをやめなくなっていた。
「……血の流れは、保たれています」
リナは、はっきりとフォルンに言った。
「致命的な内出血は、今のところ――ありません」
フォルンは、わずかに目を細めた。
「よく見ている」
処置が始まる。
骨を元の位置へ戻すための牽引。
固定用の木板。
腫れを抑える湿布薬。
痛みを鈍らせる煙。
職人は、苦痛で何度も叫んだ。
「いだぁぁっ……!
や、やめ……!」
「動かないで!」
リナは、彼の肩を押さえながら必死に言った。
「動いたら……もっと、治るのが遅くなります!」
声は、震えていた。
だが、逃げていなかった。
水の感覚で、彼の内側の流れを感じ取る。
血がどこで滞り、
どこへ向かおうとしているか。
(……ここ……今は、ここで止まってる)
前回の狩人のときは、
この止まらない濁流を前に、何もできなかった。
今は違う。
止まっているなら、
流し直せる。
「……板、もう一枚ください」
リナは言った。
「ここを、もう少し高く固定しないと……
血の巡りが戻りません」
ミュリエが、すぐに板を差し出す。
角度が、わずかに変わる。
その瞬間――
「……っ」
職人の荒かった呼吸が、ほんの少しだけ、落ち着いた。
「……戻った」
リナは、はっきりと感じた。
流れが、動き始めた。
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処置は、夕方まで続いた。
最後の包帯を巻き終えたとき、
職人は、疲れ切った声で、ぽつりと言った。
「……あの……俺の、脚……」
リナは、一瞬だけ言葉を選び、
そして正直に答えた。
「完治まで、長くかかります。
でも……歩けるようには、なります」
職人の目に、はっきりと安堵の色が浮かんだ。
「……本当、か」
「はい。
……ちゃんと、治します」
その約束が、
その場の誰よりも、リナ自身の胸に強く刻まれた。
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夜。
雨は上がり、東の街に薄い霧が立ちこめていた。
リナは、処置室の隅で静かに片付けをしている。
血に濡れた布。
薬の匂い。
疲労が、指先に残る。
そこへ、フォルンが歩み寄ってきた。
「……今日は、よくやった」
その一言に、
リナの胸の奥で、何かが崩れた。
「……まだ、全然です」
「それでいい。
自分は未熟だと思えなくなった薬師は、必ず誰かを傷つける」
フォルンは、静かに続けた。
「だが――
今日のお前は、未熟なままで、最善を尽くした」
その言葉に、
リナの目に、堪えていたものがにじんだ。
「……初めてです……」
「何がだ」
「……人の、体の中に戻ってくる……
温度を、感じたの」
血が流れ始めるときの、
あの、わずかなぬくもり。
それは、
地下の心臓の均一なぬくもりとは違う。
ばらつきがあって、
不安定で、
でも――確かに生きている温度。
フォルンは、ゆっくりと頷いた。
「それを忘れなければ、お前は――
もう、一人前への道を歩き始めた」
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数日後。
染料職人は、自力で上半身を起こせるまで回復していた。
「……あの、見習いさん」
「はい?」
「名前……聞いてなかった」
「……リナ、です」
職人は、少し照れたように笑った。
「ありがとう。
俺……もう一度あの森で色を作れそうだ」
その言葉に、
リナの胸が、静かに満たされた。
――救えなかった命もある。
――それでも、救えた命も、ここにある。
その両方を背負って、
薬師は、歩いていくのだと。
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夜。
下宿の小さな机。
リナは、今日の処置を細かく記録していた。
角度。
固定の位置。
血流が戻るまでの時間。
職人の反応。
書き終え、ふと、布袋の石を取り出す。
相変わらず、光らない。
それでも、今日は違って見えた。
(……あなたがいなくても、
わたしは、誰かの流れに触れられた)
石をそっと布袋に戻す。
もう、頼りにするものではない。
越えてきた過去になりつつあった。
窓の外で、霧がゆっくりと晴れ始めている。
月の光が、森の輪郭を静かに照らした。
リナは、胸に宿った戻ってきた温度を確かめるように、
両手をそっと握りしめた。
それは――
誰かの体を勝手に整える力ではなく、
自分の選択と判断によって、取り戻した人の体温だった。




