スピンオフ 第2話 治せなかった夜
スピンオフ 第2話 治せなかった夜
東の街ハナカゲの午後は、森の匂いが一番濃くなる時間だった。
日が高くなるにつれ、薬草庫に吊るされた乾燥葉が熱を帯び、
わずかな蒸れた甘さと、鋭い苦味が空気に混じる。
リナは、薬師見習いとして迎える三十日目の昼を迎えていた。
「リナ、これをすり潰して」
先輩のミュリエが、小さな鉢に入った赤茶色の根を手渡してくる。
「南斜面で採れた止血草。
今日は処置の数が多いから、急ぎでお願い」
「はい!」
返事は、もう以前ほど震えなかった。
石臼に根を入れ、杵でゆっくりすり潰す。
繊維が解け、独特の金属のような匂いが立ちのぼる。
(……血の匂いに似てる)
そう感じながらも、手は止めない。
リナの指は、もう水の冷たさだけを知る手ではなくなっていた。
---
その日の夕方、森の狩人が担ぎ込まれてきた。
年は四十前後。
右脇腹に、深い傷。
「猪にやられた!」
「早く、処置台へ!」
ギルド内が一気に慌ただしくなる。
血の匂い。
人のうめき声。
焦る足音。
リナは、いつものように止血用の布と薬を準備しながら、
しかし胸の奥に、これまでにない重さを感じていた。
(……この人、血の流れが……おかしい)
水の感覚で人の中を見る癖が、自然と働く。
大量出血だけではない。
内側で、何かが詰まっているような嫌な流れ。
「……先生」
リナは、ギルドの年長薬師であるフォルンに声をかけた。
「この人、傷以外にも……中の流れが、変です」
フォルンは、わずかに眉をひそめる。
「……感じ取ったか。
内臓もやられている可能性が高い」
処置が始まる。
止血草。
縫合。
鎮痛の煙。
だが――
血は、完全には止まらなかった。
リナは必死に布を押さえ続ける。
赤が、白を染める。
何度交換しても、追いつかない。
(……止まらない……)
その瞬間、リナの脳裏に、あの静かな水の記憶がよぎった。
もし、あの地下の力がまだあったなら。
もし、あの石が光っていたなら――
この血の流れを、勝手に直してくれたかもしれない。
だが、今はない。
ここには、人の手だけしかない。
---
夜半。
狩人の呼吸は、次第に浅くなっていった。
「……ダメか」
フォルンの声が、重く響く。
それでも、最後まで誰も手を離さなかった。
リナも、震える手で布を押さえ続けた。
指がしびれ、力が抜けそうになっても、必死に。
「……すまねぇ……」
狩人は、かすれた声でそう言った。
「女房に……すまねぇって……」
その言葉を最後に――
呼吸が、止まった。
静寂。
松明の火だけが、小さく揺れている。
「……死亡確認」
フォルンが、静かに告げた。
リナの手から、布が落ちた。
赤く濡れた布が、床にぽとりと落ちる。
(……助けられなかった……)
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
涙が出そうになるのを、必死でこらえた。
泣いていい場ではない。
ここは、仕事の場だ。
でも――
心が、追いつかなかった。
---
その夜、リナは下宿の机に突っ伏していた。
灯りもつけず、ただ暗闇の中でじっと動かない。
頭の中で、何度も同じ光景が繰り返される。
血。
布。
止まらない流れ。
最後の言葉。
(……わたしが、未熟だから……)
胸元の布袋に、指が触れる。
あの石。
光を失った、ただの石。
(……もし、まだ光っていたら)
そんな考えが、喉までせり上がり、
リナは、歯を食いしばった。
「……違う……」
誰に向かってでもなく、小さく呟く。
「それは……楽な答えだ」
ロイシュの声を、思い出した。
――誰にも管理されない世界になった。
――あとは、人がどう生きるかだけだ。
その言葉が、今はとても重い。
けれど――
だからこそ、逃げてはいけない言葉でもあった。
---
翌朝。
リナは、腫れた目のまま、薬草庫に立っていた。
ミュリエは、何も聞かなかった。
ただ、そっと同じ作業を並んで始めた。
しばらくして、ぽつりとミュリエが言う。
「……初めての死だった?」
「……はい」
「誰もが通るよ。
そして、たいてい最初は……自分を責める」
リナは、黙って頷く。
「でもね」
ミュリエは、すり潰した薬を布に包みながら言った。
「死なない患者を当たり前だと思った瞬間、
薬師は、誰かをもっと簡単に失う」
リナは、はっとして顔を上げた。
「助からない命があったってことを、
忘れないでいる人の方が――
次の命を、必死に守ろうとする」
その言葉は、厳しくも、温かかった。
---
その日の午後、狩人の妻がギルドを訪れた。
赤く泣き腫らした目。
だが、取り乱してはいなかった。
「……治療に尽くしてくださって、ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
リナの胸が、きしんだ。
妻は、少しだけ、リナの顔を見て言った。
「夫はね……
傷を負っても戻るのが、狩人の務めだって、
いつも言ってたんです」
そして、弱く笑った。
「だから、後悔は……あの人自身も、ないと思います」
その言葉が、
リナの胸の奥に、静かに染み込んできた。
すべてを救えなかったという事実は消えない。
だが――
誰かの人生の一部を支えたという事実も、また消えない。
---
夜。
リナは、机の上に石を置いた。
光らない石。
もう、何も起きない石。
「……あなたは、もう眠ってていい」
そう言って、布袋に戻す。
そして、机の上に新しい紙を広げ、
その日の失敗と処置の手順と判断の遅れをすべて書き記した。
一文字一文字が、胸を刺す。
それでも、書くのをやめなかった。
それが――
この世界で、リナが薬師になるということだったから。
窓の外で、森の夜の音が鳴る。
呼ぶ声は、もうない。
勝手に流れを正す力も、もうない。
あるのは、
迷いながらも、人が選び続ける手だけだ。
リナは、静かに灯りを消した。
その胸には、
救えなかった命を忘れずに進むという、新しい覚悟が、
確かに芽生えていた。




