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四嶺の国  作者: ネージュ
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スピンオフ 第1話 東の街、はじめての朝


スピンオフ 第1話 東の街、はじめての朝


 東の街ハナカゲの朝は、静かな色から始まる。


 夜露に濡れた花々が、陽の光を受けてゆっくりと色づき、

 森の端から、小鳥の声が幾重にも重なって流れてくる。


 リナは、まだ少し硬い寝台の上でそっと目を開けた。


「……朝……」


 西の街シジマの湿った空気とはまるで違う。

 ここは、草と木と薬の匂いが混ざった、澄んだ空気の街だ。


 昨夜遅くに着いたばかりのこの部屋は、東の薬師ギルドの裏手にある見習い用の下宿。

 木造で、きしむ床と低い天井。

 決して立派ではないが、整っていて何より知らない場所だった。


(……わたし、本当にここに来たんだ)


 胸の奥が、小さく高鳴る。


 布団を抜け出し、窓を開けると通りの向こうに森が見えた。

 朝靄の中、森はまるで呼吸しているようにゆっくりと揺れている。


 口元に、自然と笑みが浮かんだ。


 ――今日から、ここが自分の世界になる。


 そう思うと、少し怖くて、少しうれしい。


---


 薬師ギルドは、街の中央にある古い石造りの建物だった。


 表通りの染物屋や布職人の工房とは違い、

 ここだけはどこか、時の流れが遅い。


「リナ・シジマ。

 西の湿地の街からの紹介だね」


 受付の女性が、柔らかく微笑む。


「……はい。よろしくお願いします」


 声が、思ったより震えた。


 背負い袋の中には、


 着替えが数枚

 父タエンの作ってくれた干し魚

 ロイシュがくれた、首都で買った小さなナイフ

 そして――今は光らない、あの石


 それだけが、リナの持つすべてだった。


「まずは薬草庫へ。

 今日は分類のお仕事からよ」


 そう言われ、リナは奥の大部屋へ案内された。


---


 薬草庫は、まるで森の匂いをそのまま閉じ込めたような場所だった。


 乾燥させた葉、粉末状の根、樹液を固めた塊、

 用途も名前も知らない素材が、壁一面に並んでいる。


「……こんなに、あるんだ……」


 思わず声が漏れる。


「東の街は、森と一緒に生きてきた街だからね」


 そう答えたのは、若い薬師見習いの女性だった。


「わたしはミュリエ。

 あなたの先輩、ってことになるのかな」


「リナです。よろしくお願いします」


 ミュリエは、くすっと笑った。


「そんなに緊張しなくていいよ。

 ここに来る子、最初はみんなそんな顔だから」


 彼女は棚から幾つかの包みを下ろした。


「今日は、これを分けるだけ。

 食用、薬用、染料用。

 匂いと手触りで分かるようになるのが、最初の一歩」


 言葉は簡単だが、実際は難しい。


 リナは、慎重に一つ一つの葉に触れ、匂いを確かめた。


 苦い。

 酸っぱい。

 甘い。

 湿った匂い。

 乾いた匂い。


(……森って、こんなに情報が詰まってるんだ)


 今までのリナは、水の感覚だけで生きてきた。

 池の温度。

 流れ。

 濁り。

 沈む音。


 だがここでは、全く違う世界の読み方が求められている。


 戸惑いながらも、楽しさが勝っていた。


---


 昼過ぎ、短い休憩時間。


 中庭の木陰で、ミュリエと一緒に干し魚をかじる。


「……西の街って、やっぱり水だらけ?」


「はい。歩くと靴がすぐ泥だらけで……」


「あはは、それは大変だ」


 南の谷の話。

 北の氷室の話。

 首都のパン屋の話。


 ミュリエは興味津々に聞いてくる。


 だがリナは、地下の心臓の話だけはしなかった。

 あれは――まだ、言葉にしていい気がしなかった。


 代わりに、そっと胸元の布袋に触れる。


 光らない石。

 だが、まだ重みは残っている。


(……わたしは、ここでちゃんと人として生きる)


 そう、心の中で繰り返した。


---


 夕方、薬草庫の整理が一段落した頃。


 ミュリエが、ふとリナの手を見つめた。


「……その指、少し冷たいね」


「え?」


「水に長く触れてきた人の手。

 外は暖かいのに、芯だけ冷える」


 リナは、少し驚いた。


「……分かるんですか?」


「うん。

 水に寄った人の手って、独特だから」


 その言葉に、リナの胸がきゅっと締まる。


(……わたし、まだ水の側なんだ)


 だが、ミュリエは続けた。


「でもね、悪いことじゃない。

 水の感覚がある人は、薬師に向いてる」


「どうして?」


「体の中の流れが、分かりやすいから」


 血の流れ。

 熱の巡り。

 痛みの移動。


 それらを、水の動きとして捉えられる人は、

 薬の効き方を“体感的に”理解できるという。


 リナの胸に、じんわりと灯りがともった。


 ――わたしは、ここでも役に立てる。


---


 夜。


 下宿の小さな部屋で、リナは机に向かっていた。


 今日教わった薬草の名前を、紙に書き写す。


 ぎこちない文字。

 だが、一文字ずつ、確かに自分の力で書いている。


 書き終えると、布袋から石を取り出して、机の上に置いた。


 もう、光らない。


 もう、呼ばれない。


 けれど、確かに――

 この石があったから、今の自分がここにいる。


「……ありがとう」


 誰にともなく、そう呟いた。


 窓の外では、東の森の夜の音が静かに鳴っている。


 虫の声。

 葉の擦れる音。

 遠くの獣の足音。


 それはもう、装置の管理する音ではない。


 偶然と、生き物と、人の営みが生み出す――

 本当の夜の音だった。


 リナは、そっと布団に潜り込む。


 胸の奥には、不安もある。

 寂しさもある。


 けれどそれ以上に、

 明日もここで生きるという確かな手応えがあった。


 こうして――

 水に守られてきた少女の人生は、

 森と人の中で、自分の足で歩く人生へと静かに切り替わった。



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