外伝 第3話 赤い小麦と、気づかなかった違和感
外伝 第3話 赤い小麦と、気づかなかった違和感
首都ホウランは、ロイシュにとって「好きになれない街」だった。
人が多い。
道が広い。
金の流れが早すぎて、物の重みが軽く感じられる。
十八歳になったばかりのロイシュは、
魚売りとして、初めて単独で首都へ荷を運んでいた。
西の湿地を発ち、
途中で北の農産物隊と合流し、
三日がかりで辿り着いた巨大な城下町。
「……あいかわらずでけえな」
城を中心に、円を描くように広がる街並み。
外周は、すでに小麦畑に覆われている。
ここが国の胃袋。
ロイシュは息をつき、馬車を市場へ走らせた。
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魚の売れ行きは、悪くなかった。
首都は人口が多い。
多少値が高かろうと、鮮度さえ良ければ買い手はつく。
「この鯉は、今朝締めか?」
「ええ。西から一日、氷は使ってません」
「……面白い保存だな。一本もらおう」
何人もの買い手とやり取りを交わし、昼前にはほとんど売り切った。
残ったのは、小ぶりの魚が三尾。
「……自分で食うか」
そう思ったロイシュは、市場の隅に腰を下ろした。
そのとき、甘い匂いが鼻をかすめた。
焼きたてのパンの匂い。
だが、普通の小麦の香りとは違う。
(……甘すぎる)
腹が鳴った。
気づけば、匂いのする方へ、足が向いていた。
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市場の端に、小さなパン屋台が出ていた。
いかにも間借りの出店。
釜も簡易的で、炉は浅い。
だが――
その屋台の前だけ、異様に人が集まっていた。
「……新麦の試作品です。
今だけ、少量で――」
若い職人が、少し緊張した声で呼びかけている。
木箱の中に並ぶパンは、
ほんのり赤みを帯びていた。
(……あれは、赤いパン?)
ロイシュは、好奇心に負けて列に並んだ。
並んでいる間、周囲の会話が耳に入る。
「なんだか、匂いが強いな」
「甘いけど、砂糖じゃない」
「新しい畑の麦だって聞いた」
順番が来て、硬貨を差し出し、パンを受け取る。
ずしりと、温かい重み。
割った瞬間、湯気と一緒に、濃い甘さが一気に広がった。
「……」
一口かじる。
舌に広がるのは、
砂糖でも蜂蜜でもない、
穀物そのものが溶けたような甘さ。
「……うまいな」
思わず、小さく漏れた。
ただし――
違和感も、確かにあった。
(腹に、残らない……?)
食べ進めても、満腹感が来ない。
むしろ、高まる。
もっと欲しいという感覚だけが、
胸の奥で静かに膨らむ。
だが、このときのロイシュは、
それを単なる味の勢いだと片付けた。
まだ若く、
まだ、世界は普通だと信じていた頃だった。
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その夜、宿の部屋でロイシュは、奇妙な夢を見た。
暗い場所。
水の音。
遠くで、ゴウン……ゴウン……と、何かが脈打っている。
地面の下――
それも、はるか深く。
水と光の中に、
何か巨大なものが、眠っている。
その表面に、
無数の細い管のようなものが伸び、
どこか遠くへ繋がっている。
ひとつの管が、
ほんのり赤く光った。
——その先に、赤い小麦畑が見えた。
そこで、ロイシュは、はっと目を覚ました。
「……夢、か」
背中に、うっすらと冷たい汗。
胸が、妙にざわついている。
だが、現実は何事もなく続いていた。
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翌朝。
市場の同じ場所をのぞいてみたが、
昨日の赤いパンの屋台は、もう出ていなかった。
「……あの屋台、どこへ?」
近くの露店商に尋ねると、首をかしげられた。
「赤いパン?
ああ……昨日、一瞬だけ出てたな。
粉が足りなくて、すぐ引っ込んだらしい」
「粉は、どこのものですか」
「さあ……南東の農夫だって言ってたが」
――南東。
その言葉が、ロイシュの胸に、小さく引っかかった。
だが、その時点では、
ただの珍しい麦の話でしかなかった。
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翌日、ロイシュは魚を売り切り、首都を発った。
手元に残ったのは、
少し多めの銀貨と、
半分だけ残して持ち帰った、赤いパンひとつ。
街道の途中で、それを昼食代わりにかじる。
「……やっぱり、甘いな」
それでも、この時のロイシュは、
この甘さが、数年後、首都、狂わせる入口になるなどとは、
まだ、夢にも思っていなかった。
馬車は静かに進む。
地下深くで、
まだ止まっていない心臓が、
その拍動を刻み続けていることを、
知る由もなく。
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のちにロイシュは振り返る。
あれが――
この国が甘さに触れた最初の瞬間だったのだと。
だがその時、彼はただの魚売りであり、
世界の裏側など、
見る理由も、疑う理由も持っていなかった。
だからこそ、
あの赤い小麦は、誰にも止められずに広がっていった。
――外伝 ー完。




