外伝 第2話 南の街、消える橋の前夜
外伝 第2話 南の街、消える橋の前夜
南の街は、ロイシュにとって「稼げる土地」だった。
岩塩、鉱石、岩肌。
荒くれ者も多いが、金の回りはいい。
何より――橋を渡る商人は、必ず南を経由する。
十七歳のロイシュは、すでに一人で南へ荷を運ぶ仕事を任されていた。
まだ魚売りの身分だったが、
彼の計算と段取りは、すでに見習いの域を超えていた。
「今夜は谷を越えるぞ」
隊商の先頭に立つのは、屈強な車引きのオルドだった。
「夜の谷は風が荒れる。
だが夜を逃すと、岩塩の買い付けが遅れる」
「……分かりました」
ロイシュは短く答え、馬車の綱を締め直した。
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谷は、昼と夜で姿が変わる。
昼は、ただの深い切れ込みだ。
だが夜になると、風が落ち、闇が溜まり、
まるで底なしの空洞のように見える。
隊商は、いつもの木橋へと入っていった。
この橋は、
数え切れないほどの商人と鉱石と岩塩を支えてきた命の道だ。
「……静かだな」
オルドが、ぽつりと呟いた。
風がない。
谷にしては、不自然なほど。
ロイシュは、無意識に周囲を見回した。
星は出ている。
だが――谷の向こう側だけが、なぜか暗い。
まるで、そこだけ闇が塗り潰されているように。
違和感。
それは小さかったが、確かだった。
「……オルドさん」
「なんだ」
「向こう岸……見えますか」
オルドは前を見据え、少しだけ間を置いてから答えた。
「いや……今日は、妙に暗いな」
そう言いながらも、歩みは止めなかった。
今まで何もなかった。
その記憶が、人を前に進ませる。
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橋の中ほどに差し掛かった頃だった。
ごう……
と、遠くから低い音が響いた。
地鳴りとも、風ともつかない音。
「……今の音は?」
ロイシュが言いかけた、その時。
谷の下から、
淡く光る帯状の雲が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
青白い。
細長い。
不自然に整った光。
「……なんだ、あれは」
誰かが呟いた。
光の雲は、橋と同じ長さまで横に伸び、
まるで測ったかのように、ぴたりと重なる。
ロイシュの胸が、嫌な予感で締めつけられた。
「止まってください!」
叫んだ瞬間だった。
光の雲が、重力を無視したように落ちた。
――落下ではない。
通過だ。
それは、橋を上から下へなぞるように、静かにすり抜けた。
次の瞬間。
ミシ……ッ
橋の中央に、亀裂が走った。
「退けぇぇぇ!」
オルドの絶叫。
馬が暴れる。
荷が揺れる。
次の瞬間、橋の真ん中が、ゆっくりと崩れ始めた
ロイシュは反射的に、馬車から飛び降り、手すりにしがみついた。
足元が、消える。
橋が壊れるのではない。
存在が削り取られる。
そうとしか言えない崩れ方だった。
「う、わぁぁぁっ!」
背後で、誰かが谷へ落ちていった。
叫び声は、途中で途切れた。
風の音も、消えた。
ロイシュは、木の破片にしがみついたまま、
自分が宙に浮いた感覚になっていることに気づいた。
足が、地面に触れない。
下を見たくない。
だが見てしまう。
谷底は、暗闇ではなかった。
底が見えないほど、何かが深く存在している空間だった。
その奥から――
光る何かが、こちらを見上げている気がした。
視線。
確かな、意識のある視線。
「……見られている……」
ロイシュの喉が、凍りついた。
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次に気づいたとき、彼は橋の手前側の地面に倒れていた。
体は無傷。
だが、橋は――完全に元の姿に戻っていた。
「……夢、か?」
息を切らしたオルドが、呆然と橋を見ている。
「さっき……橋が、崩れたよな?」
「ああ……俺も、そう見た」
だが、橋は無事だ。
切れた板もない。
落ちたはずの荷も、馬も――すべてなかったことになっている。
人数も、減っていない。
落ちたはずの男も、そこに立っている。
何事もなかったかのように。
「……今日は、谷の風が強いな」
オルドは、それだけ言って、隊商を進ませた。
まるで、誰も先程まであった崩れ落ちた記憶を持っていないように。
ロイシュだけが、
ただ一人、身体の奥に残る落下の感覚を抱えたままだった。
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南の街に着いた夜。
宿の薄暗い部屋で、ロイシュは眠れなかった。
目を閉じるたびに、
削り取られる橋と、
谷の底から見上げる視線が、浮かんでくる。
「……あれは、幻じゃない」
彼は、布団の中で拳を握りしめた。
あの現象は、夢でも、錯覚でもない。
何かが、世界そのものに手を伸ばした瞬間だった。
だが――
人は信じないものを存在しなかったことにする。
翌日からも
橋は無事に使われ続け、
商人たちは、いつも通り往復を続けた。
唯一変わったのは、
ロイシュだけが、二度と「世界は安全だ」と思えなくなったこと。
そしてその感覚が、
数年後――
消える橋の事件として、再び彼を飲み込むことになる。
だがこの夜、十七歳のロイシュはまだ知らなかった。
あの視線の正体が――
この国の心臓そのものだったことを。




