外伝 第1話 十三歳のロイシュと、最初の取引
外伝 第1話 十三歳のロイシュと、最初の取引
---
北風が冷たい朝だった。
氷室の入口から、白い息がゆっくりと流れ出している。
まだ人よりも荷の方が大きく見える細身の少年が、その前に立っていた。
「……これが、北の街か」
十三歳のロイシュは、肩に担いだ魚籠の重さを感じながら、初めての土地を見上げた。
西の湿地と違い、空気は乾き、冷たい。
地面は固く、踏みしめるたびに靴底に詰まる泥はなかった。
「ぼやっとするな。市場はあっちだ」
後ろから声をかけたのは、今の彼の師匠である行商人バルドだった。
無骨で、口数が少なく、だが計算だけは異様に正確な男。
「魚は腐りやすい。北じゃ鮮度=命だ。
一刻でも遅れたら、値は半分になる」
「……はい」
ロイシュは必死に頷き、市場へと走った。
---
北の市場は、想像以上に静かだった。
人の数は多くない。
だが、氷室から運び出された冷気が常に漂い、
商品はすべて冷えた世界の中で取引されている。
「おい、魚だ。西から来た」
バルドの声に、数人の農夫が振り返る。
彼らの目は厳しく、そして――値踏みする目だった。
「……小ぶりだな」
「だが、臭みはない」
「値は――」
男たちは低い声で言葉を交わす。
ロイシュは、息を詰めてその様子を見ていた。
やがて、農夫の一人が言った。
「……この籠で、銀貨三枚だ」
ロイシュの胸が、ぎゅっと詰まる。
銀貨三枚。
西では、銀貨一枚で売れる量だ。
だが、バルドは即答しなかった。
「四枚だ。
この鮮度で三枚は、さすがに安すぎる」
「北は、保存が命だ。
魚は持たない」
「それは分かっている。
だがこの魚は、今すぐ売れる」
沈黙が流れる。
冷たい空気の中、氷室の奥から、雪の擦れる音が聞こえた。
やがて農夫は、短く息を吐いた。
「……四枚。
今日だけだ」
バルドは、うなずいた。
「成立だ」
銀貨が、静かに木箱の上に置かれた。
---
その取引のあと、ロイシュは震える手で銀貨を受け取った。
「……売れた」
「ああ」
バルドは短く答える。
「だが覚えろ。
ここは守られた街だ」
「守られた……?」
「氷室、水、雪。
すべてが勝手に整う街だ。
その分、人は……油断しやすい」
ロイシュは、その言葉の意味がまだ分からなかった。
この時は――。
---
昼、氷室のそばでロイシュは一人、売れ残った小さな魚を焼いていた。
その時、氷室の裏から、子どもたちの笑い声が聞こえた。
雪を詰めた地下倉庫。
その氷を砕いて、夏でも氷菓子を作れるという。
子どもたちは笑いながら、氷を分け合っていた。
「すげえな……」
ロイシュは、思わず呟いた。
――こんなに恵まれた街が、あるのか。
だが同時に、胸の奥に、言葉にできない違和感が生まれた。
なぜ、この街はこんなにも当たり前に整っているのか。
その答えを彼が知るのは、
まだ――十年も先の話だった。
十三歳のロイシュは、ただ魚を焼きながら、
この街の冷たい空気の中で、静かに思った。
「……俺は、ちゃんと売って生きていきたいな」
誰にも守られず、
誰にも管理されず、
それでもちゃんと、物と向き合って。
その願いが、
やがて世界の心臓と対峙する男の原点になるとは、
この時の彼は、まだ知る由もなかった。




