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四嶺の国  作者: ネージュ
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第10話 新しい循環


第10話 新しい循環


 冬の気配が、ゆっくりと首都ホウランに降り始めていた。


 城下町の石畳に薄い霜が浮かび、朝の息は白い。

 それでも人々は、いつも通りに市場へ向かい、パン屋の前に並び、荷車を押して歩いている。


 違うのは――

 少しだけ、不便になったことだ。


 水は、以前ほど均一に澄まなくなった。

 森は、放っておけば勝手に戻ることはなくなった。

 北の氷室は、雪の保存により知恵と手間が必要になった。


 だが――

 人は、それでも生きている。


 ◇ ◇ ◇


 ロイシュは、首都の外れの倉庫で岩塩の積み込みをしていた。


 装置が止まってから、補助金制度は一部が見直された。

 これまでのように勝手に安定する前提が崩れた以上、国もまた流通を現実に合わせて作り直さねばならなくなったのだ。


「……前より面倒になったな」


 そう呟きながらも、ロイシュは文句を言わない。

 面倒になる、ということは――

 誰かが勝手に支えてくれなくなったというだけの話だ。


 荷台に最後の木箱を積み終えたとき、背後から声がかかった。


「相変わらず、早いな」


 振り向くと、そこにエルディアが立っていた。

 薬草の袋をいくつも肩にかけ、いつもの皮肉めいた笑みを浮かべている。


「今日はどこへ?」


「北だ。

 氷室の件で、相談があるらしい」


「……いよいよ本格的に、勝手に直らない世界の世話役だな」


 ロイシュは、小さく笑った。


「俺はただの商人だよ。

 壊れたものを、運び直してるだけだ」


 エルディアは、しばらく無言で空を見上げた。


「……それでいいんだ。

 世界を救った勇者なんてものは、

 この国には、いらない」


 その言葉に、ロイシュは深く頷いた。


 ◇ ◇ ◇


 西の街シジマでは、池の透明度が以前よりも落ちていた。


 それでも、人々は工夫して漁を続けている。

 網の形を変え、漁の時間帯を調整し、

 水が完璧ではない前提で、生活を組み直していた。


 リナは、父の横で小さな網を持ち池の浅瀬に立っていた。


「……今日は、少し濁ってるね」


「昨日よりは、ましだ」


 タエンはそう言って、娘の頭を軽く叩いた。


 リナの首から、あの光る石は消えていた。

 今は、小さな布袋に包まれて、家の棚の奥にしまわれている。


 もう、光らない。

 ただの石だ。


 それでも時々、リナは夢を見る。


 水の底から見上げる夢。

 だが今は、もう呼ぶ声は聞こえない。


 夢の中で見えるのは、

 ただ揺れる水面と、

 その向こうに広がる空だけだ。


「……わたし、勉強する」


 ある日、リナは突然そう言った。


「字も、計算も。

 それで……世界の仕組みを、ちゃんと知りたい」


 タエンは、少し驚いた顔をしてから笑った。


「いい心がけだ。

 だが、かなり大変だぞ」


「うん。

 でも……もう、知らないまま守られるのは、いやだから」


 タエンは、何も言わずに強く頷いた。


 ◇ ◇ ◇


 東の街ハナカゲでは、森の再生計画が始まっていた。


 削られた土地は、もはや勝手に修復されない。

 だからこそ、人が苗を植え、水を運び、

 何年もかけて、森を育て直すことになった。


 エルディアは、その計画の中心にいた。

 薬師としてではなく世界の異常を最初に理屈で見抜いた者として。


「……皮肉なものだ」


 彼は、若い薬師見習いに語る。


「昔は、世界は勝手に正しくなると信じられていた。

 今は違う。

 正しくしたければ、人が動くしかない」


 見習いたちは、その言葉を、静かに書き留める。


 それはもう、誰にも消されない記録だった。


 ◇ ◇ ◇


 北の街では、氷室の管理方法が根本から変わりつつあった。


 地下の地熱は、以前よりも直接的に影響する。

 雪は溶けやすくなり、保存は難しくなった。


 それでも、農夫たちは工夫をやめなかった。


 井戸の配置を変え、

 冷気の通り道を拡張し、

 「自然と折り合う」新しい方法を、少しずつ見つけ始めていた。


 かつてロイシュが魚を売っていた農夫は、こう言った。


「昔は楽だったがなぁ。

 だが今は、自分の手で守ってるって実感がある」


 その言葉は、国中で、少しずつ広がっていった。


 ◇ ◇ ◇


 1年が過ぎた。


 南の街の谷には、新しい補強橋が架けられた。

 今度は、未知の力ではなく、

 人の測量と計算と労働によって。


 首都のパン屋ベルトは、長い治療の末に、かつての自分を取り戻した。


 彼は、赤い小麦を二度と使わなかった。

 代わりに、こう語る。


「甘さは、作るものじゃない。

 一緒に時間の中で育てるものだ」


 彼のパンは、以前よりも少し素朴になった。

 だが、その分、確かな味になった。


 ◇ ◇ ◇


 ある夕暮れ。


 ロイシュは、再び西の街シジマを訪れていた。


 仕事の帰りだ。

 北へ向かう途中、荷を軽くするため、少し寄り道をしただけ。


 池のほとりで、リナが一人、網を洗っていた。


「……久しぶり」


 声をかけると、リナは驚いた顔をしてから、すぐに笑った。


「ロイシュさん!」


 少し背が伸びた。

 声も、以前より落ち着いている。


「今、読み書きの勉強をしてるんです。

 エルディアさんにも、時々手紙を出していて」


「あいつが、ちゃんと返事を?」


「はい!すごく長文で!」


 二人は、小さく笑い合った。


 そのとき、池の水面に、夕焼けの光が映り込んだ。


 かつて世界の心臓と繋がっていた水。

 今はもう、ただの水だ。


 だが、揺れている。

 風に。

 人の動きに。

 時間に。


「……全部、終わったんですね」


 リナが静かに言った。


「誰かに決められる世界はな」


 ロイシュは答えた。


「でも、どう生きるかを決める世界は、

 今も、これからも――終わらない」


 リナは、力強く頷いた。


 ◇ ◇ ◇


 夜、ロイシュは西の街を発ち、再び街道へ戻った。


 馬車には、いつも通りの岩塩。


 だがその重みは、かつてよりも少しだけ――

 現実の重みに近くなっていた。


 星が、澄んだ空に浮かんでいる。

 かつて地下の心臓が支えていた均一な世界ではない。

 揺らぎのある、少し不格好な夜空。


 それでも、美しい。


 ロイシュは、手綱を握り、前を見た。


「……行くか」


 馬が応え、ゆっくりと歩き出す。


 北へ。

 東へ。

 南へ。

 そしてまた、首都へ。


 この国は、もう装置によって循環する世界ではない。


 それでも、人は巡る。


 物を運び、

 言葉を伝え、

 失敗し、

 悩み、

 それでも進む。


 それが、人の循環だからだ。


 そして今日も、

 ただの商人――ロイシュの馬車は、

 誰にも管理されない世界を、

 静かに、確かに、走り続けていく。


 ――完。


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