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女王の蛹  作者: 立花
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最初の不協和音

私の信仰は、秋の学園祭で、その頂点に達した。

私たちのサークルが出展した、ささやかな上映会。その主役は、言うまでもなく、みゆだった。彼女が脚本と監督を務めた短編映画は、学生作品とは思えないほどの完成度で、観客から、嵐のような拍手を受けた。上映後、彼女の周りには、その才能を絶賛する人だかりができた。水波くんは、少し離れた場所で、自分のことのように、誇らしげな顔でその光景を眺めている。

私は、その全てを、カメラのファインダー越しに見ていた。人々の称賛を、少しだけはにかみながら受け止める、女神の姿。その姿を、永遠にフィルムに焼き付けたいと、心から思った。私の卒業制作『私のミューズ』は、傑作になる。間違いない。この時の私は、幸福の、まさに絶頂にいた。

だから、気づかなかったのだ。

その完璧な光景の足元に、静かに、そして、深く、亀裂が走り始めていたことに。

季節は巡り、大学二年生の冬。私たちの頭上には、期末試験という分厚い雲が垂れ込めていた。特に、学生の間で「単位取得の墓場」と恐れられている哲学の授業は、その中心にあった。水波くんは学部が違うから、この地獄を知らない。

「もう、無理かも……。全然、頭に入ってこない」

図書館のテーブルに突伏した健司くんが、悲鳴のような声を上げる。みゆも、例外ではなかった。「これ、どういう意味なんだろうね?」と首を傾げ、私と同じように、ウンウンと唸っている。彼女は、机に突伏すと、「もうダメだ、今夜は徹夜しないと、絶対無理…」と、本気で悔しそうな顔をした。その姿は、私たちと同じ、ただの苦学生だった。

そして、試験が終わった数日後。オンラインで成績が開示された時、私たちの小さなコミュニティは、歓喜と、そして一つの「奇跡」に揺れた。

健司くんは、なんとか「可」。私は、情けないことに再履修が確定。しかし、みゆだけが、その画面に、燦然と輝く「優」の一文字を灯していたのだ。

「みゆ、すごいじゃん!」「あの徹夜、報われたね!」

試験後の打ち上げには、水波くんも顔を出してくれた。私たちは口々に彼女を称賛する。主役である彼女は、少し疲れた顔で、はにかんで見せた。

「ううん、全然だよ。本当に、まぐれだって」

私が、「水波くんも、みゆが頑張ってるの見てて心配だったでしょ?」と尋ねると、彼は、深く頷いた。

「ああ。夜、少しだけ俺の部屋に寄ったけど、すぐ『勉強しなきゃ』って帰ってたしな。本当に頑張ってたよ、あいつ」

私たちは、その光景に微笑み合った。やはり彼女は、見えないところで、誰よりも努力をする人間なのだ。その謙虚さが、彼女をさらに輝かせている。

その週末、私は、昔からそうしているように、ごく自然にみゆの実家にお邪魔していた。私の制作の話は、みゆからお母様にも伝わっていた。「沙希ちゃん、頑張ってるのねぇ。うちのみゆで、いい作品、作ってあげてね」と、彼女はいつものように、にこやかに私を迎えてくれた。

リビングで、昔のアルバムを見せてもらいながら、私は、ごく自然な流れで、あの試験の話を振った。感動的なエピソードが聞けることを、期待していた。

「そういえばお母様、去年の哲学の試験、すごかったですよね。みゆ、徹夜で頑張って、『優』を取ったって聞いて、本当に尊敬しました」

しかし、お母様は「あら」と、上品に、そして、少し可笑しそうに笑った。

「徹夜?うふふ、あの子ったら、沙希ちゃんたちには良い格好するんだから。あの晩は、夜中までスマホを触りながらリビングで映画を観て、ケラケラ笑ってたわよ。『今回は本当に大変なの』って水波くんには言ってたみたいだけど。あの子、昔から、人に心配させるのが上手だから。本当に、要領がいい子で、助かるわ」

その瞬間、私の思考が、ほんの数秒、停止した。世界から、音が消える。リビングの暖かな照明が色を失い、美しい調度品たちが、全てモノクロームの書き割りに見えた。手にしていたアルバムだけが、墓石のような重さで、私の現実に食い込んでいた。

打ち上げでの、水波くんの、心からの労いの言葉が蘇る。

『夜、少しだけ俺の部屋に寄ったけど、すぐ「勉強しなきゃ」って帰ってたしな』

彼女は、水波くんの部屋を出た後、家に帰って勉強をする為に徹夜したのではなかった。彼の家とは逆方向にある、自分の家に帰り、朝まで映画を観ていたのだ。水波くんは、何も知らない。彼は、ただ、彼女の脚本通りに、彼女の「努力」を、善意で証言してしまったのだ。

私は、必死に笑顔を作った。

「そうなんですね!本当にすごいです、みゆは」

幸い、お母様は、私の声の微かな震えには気づかなかったようだった。

その夜、私は、自分の部屋で、一人、卒業制作のための、あの黒い取材ノートを開いていた。

私の心は、激しい嵐に見舞われていた。

(違う。きっと、お母様が、日付を勘違いしているんだ。そうに違いない。あの水波くんの、心からの心配そうな顔。あのみゆの、疲れたような笑顔。あれが、嘘であるはずがない)

(そうだ、もし、みゆが嘘をついたとしても、それは、私たちを心配させないための、優しい嘘だ。そうだ、きっとそうなんだ)

私は、自分に言い聞せるように、取材ノートの、公式記録のページを開いた。そして、震える手で、ペンを走らせた。「学業においても、一切の妥協を許さない、彼女の真摯な姿勢。友人や恋人にさえ、その苦労を見せたがらない、奥ゆかしさ」。

美しい言葉を並べれば並べるほど、心の奥底で、冷たい声が響く。

(――それは、真実か?)

私は、一度、ペンを置いた。そして、ノートの、一番最後のページ。誰にも見せることのない、『裏記録』と題した、あの空白のページを、静かに開いた。

友情への、裏切りだと思った。親友を、私のミューズを、疑うなんて、最低の行為だ。

それでも、私の手は、動いていた。

【要確認】哲学試験の件。母親の証言と、本人及び水波の証言に、明確な食い違いあり。→母親の記憶違いの可能性、高。再調査の必要なし。

私は、そう書き記すことで、かろうじて、自分の信仰を守った。

ノートに刻んだのは、疑いではなかった。それは、女神の完璧な物語に生じた、些細なノイズを修正するための、ただの備忘録。

そう、この時の私は、まだ、本気で、そう信じていたのだ。


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