表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女王の蛹  作者: 立花
1/4

私たちの黄金時代

【警告】この物語は、毒である。

あなたの周りにもいませんか?

何もかもが完璧で、誰もが惹きつけられ、その人なしでは、何も決まらないような、「女王」が。

主人公「沙希」の親友、みゆも、そうだった。

彼女は、人を救う。その人の弱さを、誰よりも深く理解し、完璧な答えを与え、成功へと導く。

その「治療」の対価が、あなたの「魂」そのものであることに、気づかないまま。

これは、友情の物語ではない。

美しい善意の仮面の下で行われる、魂の「上書き保存」の記録である。

これはフィクションではない。

読後、あなたは、隣にいる大切な人の「優しさ」を、もう、無邪気に信じることはできなくなる。


私の親友、宮内美結は、完璧な人間だ。

神様が地上に落としたたった一つの完成品。私たちの誰もが、そう信じて疑わなかった。彼女の微笑みひとつで、世界は色を取り戻し、彼女のため息ひとつで、季節は終わる。

そう言うと、彼女を知る誰もが、まるでそれが世界の真理であるかのように、深く頷くのだ。

私たちは、小学一年生の時に出会った。出席番号が前後で、人見知りだった私に、彼女が「一緒に帰ろ」と声をかけてくれたのが、全ての始まり。彼女は、私にとって、人生で初めてできた友達だった。

それからずっと、私たちは一緒だった。クラスの中心で太陽のように輝く彼女と、その光の届かない隅っこで、自分の影を自虐して笑う、私。タイプは、まるで正反対。私の母は、今でも不思議そうに言う。「みゆちゃん、なんでまだ沙希さきと仲良くしてくれてるのかしらねぇ。本当に、いい子だねぇ」と。

私は、いつも笑って答える。「みゆは、そういう子だよ。明るいとか暗いとか、関係ないの。自分が好きだと思った子と、ただ一緒にいるだけ。それは、私が一番よく知ってる」

そう、私は知っていた。ううん、知っていると、信じていた。

私たちの大学生活は、みゆが所属する映画サークルを中心に回っていた。

二〇二四年の夏。むせ返るような緑の匂いと、学生たちの高い笑い声。その日、私たちは、初夏の日差しの中、河原でバーベキューをしていた。もちろん、この企画も、みゆが立てたものだ。彼女が作った「旅のしおり」は、もはや学生の域を超えていた。参加者全員の好き嫌いを完璧に網羅したメニュー、分刻みで計算されたタイムスケジュール、そして、各々が最も得意なことを考慮した、完璧な役割分担。私たちは、ただその完璧な計画の上で、子供のようにはしゃいでいればよかった。面倒なことは何一つ考えなくていい。人間関係の軋轢も、段取りのミスも、全てみゆが未然に防いでくれる。彼女が創り出す完璧に管理された世界は、なんて居心地がいいのだろう。私たちは、いつから、その甘美な情に、魂の半分を預けてしまっていたのだろうか。

みゆは、女王のように、その場を支配していた。

四回生の先輩たちが、就職活動の愚痴をこぼせば、まるで経験豊富なコンサルタントのように、的確で、大人びたアドバイスを送る。先輩たちは「みゆは、本当に俺たちのこと、分かってくれてるよな」と、感嘆の息を漏らしていた。

かと思えば、輪に馴染めずにいた、人見知りの後輩の女の子を見つけると、すっと隣に座り、「写真撮るの、好きって言ってたよね?今日の公式カメラマン、お願いしちゃおうかな」と、彼女の得意な分野で、完璧な役割を与える。後輩の顔が、ぱっと輝く。

そして、恋人である水波くん。彼は、サークルの部長で、誰からも好かれる、自信に満ちた人気者だ。彼が、炭の火起こしに少し手こずっていると、みゆは、まるでそれを見越していたかのように、バッグから小さな手作りの着火剤を取り出して、「これ、使ってみる?」と、悪戯っぽく笑う。

水波くんは、一瞬、驚いた顔をして、そして、どうしようもない愛情に満ちた表情で、彼女の頭をくしゃりと撫でた。そして、私の方を見て、聞こえるか聞こえないかの声で、自慢げに呟いた。

「俺の彼女、すごいんだよ。マジで、女神」

彼女は、まるで周波数でも合わせるように、相手によって、話す内容も、声のトーンも、表情さえも、自在に変える。それは、誰にでも合わせる八方美人とは違う。相手が一番心地よいと感じる、たった一つの正解を、彼女は本能で知っているのだ。

だから、私たちは、誰もが「自分だけが、本当のみゆを知っている」と、密かに信じていた。水波くんにとっては「少し危なっかしい、守るべき恋人」。先輩たちにとっては「頼れる、聡明な後輩」。そして、後輩にとっては「優しい、憧れの先輩」。

その日のクライマックスは、突然訪れた。

盛り上がりの最中、誰かが叫んだ。「やばい、焼きそば用のソース、買うの忘れた!」。一瞬にして、場の空気が凍りつく。しかし、その静寂を破ったのは、やはりみゆだった。

彼女は、少し困ったように笑いながら、自分のクーラーボックスから、一本の見慣れないソースを取り出した。

「もしかしたら、こうなるかなって思って。昨日の夜、作ってみたんだ。みんなの好きな味、全部混ぜてみたんだけど、どうかな?」

手作りの、オリジナルブレンドソース。

歓声が、爆発した。水波くんが、ほとんど崇拝に近い眼差しで、彼女を見つめている。

そして、その直後だ。

「沙希、お皿!」と、ソースのついたお皿を私に渡そうとしたみゆが、何もないところで、華麗に足を滑らせた。

「あ、きゃっ!」

可愛い悲鳴と共に、彼女の体がよろめく。水波くんが、電光石火の速さで、その体を支えた。

「もう、みゆは俺がいないとダメだな」

呆れながらも、その声は、どうしようもない愛情で満ちている。みゆは、「ごめん」と、悪戯っぽく舌を出した。

私は、その光景を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

これなのだ。これが、私たちの愛するみゆなのだ。

誰よりも賢く、誰よりも気が利く。なのに、時々、信じられないくらい不器用で、目が離せない。この完璧な女神の、たった一つの、愛すべき欠点。それは、私たち凡人に、「この人は、自分がついていてあげなければ」と思わせてくれる、神様が与えてくれた、唯一の隙だった。

その夜、帰り道。水波くんたちと別れ、私とみゆは、二人きりで、月の光が照らす、静かな道を歩いていた。

ふと、彼女が、私の肩に、こてん、と頭を乗せた。

「なんか、疲れちゃった」

珍しい、弱音だった。

「どうしたの?」

「うーん…みんな、私のこと、すごいって言うけど、本当は全然そんなことないのにね。沙希といる時が、一番、何にも考えなくていいや」

その言葉に、私の心は、幸福で満тされた。

他の誰も知らない。水波くんでさえ、知らないかもしれない。

世界中が彼女を女神として崇拝する中で、私だけが、彼女が心から安らげる、ただの「居場所」なのだ。

彼女は、私の太陽。

そして私は、その太陽が、唯一安らぎを求めて浮かぶ、静かな夜の月。

この世界に、これ以上強く、美しい絆はない。

少なくとも、その時の私は、心の底から、そう信じていた。

この完璧で美しい日常が、彼女の仕掛けた、たった一つの、しかし致命的な「嘘」の上に築かれた砂上の楼閣であることなど、まだ知る由もなかったのだ。

私の卒業制作のテーマは、この瞬間に、完全に固まった。

この、誰も知らない、本当の女神の姿を、私だけが、描き出すことができるのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ