9 ジンベエの畑 その4
巨大猪の襲来
「ああああああああああああああああああっ!」
激しい痛みに私の口から叫びが漏れる。
突然ジンベエを襲った巨大猪。迫り来るその牙に、とっさにジンベエを突き飛ばすことはできたが、その牙は私の腹と腿を貫いた。
この畑はこの猪に狙われていた?
だから最初私がここへ来たときジンベエがあれほど警戒をしていた?
『ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
巨大猪が邪魔な小枝でも振り払うように、私の身体を突き上げるように振り回す。
「がはっ!」
私の口から血が漏れる。突き上げるたびに激しい痛みが私を襲う。
その〝痛み〟が私の中の闘志に火を付け、溢れかえる〝熱〟を吐き出すように叫びながら、渾身の力で角槍を巨大猪の目に突き刺した。
『ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!』
おそらく生まれて初めてだろう痛撃に、巨大猪は私を突き刺したままさらに暴れ出す。
「ああああああああああ!!」
『ブモォオオオオオオオオオオッ!!』
デカすぎて槍が脳まで刺さらない。足が浮いているせいで力も入らず、私は片手で牙に爪を立てて貫通することを食い止めながら、身体が引き裂かれそうな痛みに耐え、踵で眉間を蹴りつけた。
ドゴンッ!!
派手な音を立てて巨大猪の頭部がくぼみ、その反動で巨大猪から弾かれる。
『ブモォオオオオオオオオオオオオオ…………』
よろけるように蹈鞴を踏む巨大猪が残った目で、畑に転がる私を睨む……が、巨大猪の身体がさらに揺れると、そのまま背を向けて木々をへし折るように森の奥へと消えていった。
「……逃げ……た?」
バウバウッ!
「ジン…ベエ……」
その声に落ちかけていた意識が戻る。畑の中で仰向けに倒れた血塗れの私の顔を、戻ってきたジンベエが必死に舐めて意識を戻してくれた。
「……無事?」
クゥ~ン……。
私を舐めるジンベエの首をそっと撫でる。
目に映るジンベエの顔が歪み、視界がかすむ。ダメだ……血が足りない。
すぐに何かを食べなくてはいけない。
「ジンベエ……」
視界が真っ赤に染まる。すべての生きるモノが食べ物に見えてくる。
――ガッ!
キャンッ!?
「ごめん、ジンベエ……用水路……どっち?」
突然自分の頭を殴りつけた私にジンベエは驚いたようだが、今はとにかく確実に〝肉〟を食える場所に向かうしかない。
腹と脚から止めどなく血が零れ、視界がどんどん真っ赤に染まっていく。
もうまともに目が見えない。朦朧とする意識を痛みで無理矢理繋ぎ止め、角槍を杖代わりに立ち上がる私を、ジンベエが鳴きそうな瞳で見つめていた。
「お願い、『水』……『用水路』……どっち?」
バウ!
ようやく私の発した〝単語〟を理解してくれたらしく、ジンベエは私を先導するように吠えながら道案内をしてくれる。
「……ごふ」
おそらく内臓もやられている。歩くたびに腹と脚から血が噴き出し、口からも血が零れた。
わずか数十メートルの距離が遠い……。
じりじりと進みながら、気が遠くなるほど長く感じた時間をかけて辿り着いた私は、用水路に上半身を迫り出すように倒れ込み……
ガシ……ッ。
捕まえた大きなザリガニを生きたまま牙で噛み砕いた。
クゥ~ン……。
バキン、バリン、ベキッ……
深夜の用水路で殻ごと噛み砕いて食らう音だけが響く。
ザリガニだけじゃなく大きな貝や、底に隠れていた亀らしきものも、手に触れる物はひたすら口に入れて牙で噛み砕いた。
生きていようが泥がついていようが関係ない。ただひたすらに、〝飢え〟を満たすためだけに生き物を捕食していく。
野菜じゃダメだ……〝肉〟がいる。
天敵の少ない用水路は、昨日あれほどザリガニや貝を獲っても一晩過ぎればそこを埋めるように押し寄せていた。
バウバウ!
「ジンベエ……」
ジンベエがどこにいたのか大きなカエルを獲ってきてくれた。
私はそれを受け取ると爪で引き裂くようにして齧りつき、他にもジンベエが持ってきてくれたスッポンのような亀も同様に捕食する。
「……つぅ……ッ」
明け方近くなって、猛烈な腹痛が襲ってきた。こんなものを洗いもせずに生で食べているのだから当然だ。毒がある生き物もいたはずだ……でも、私はそれを無視して、脂汗を流しながらも生き物を食べ続けた。
「……っ」
そうしてしばらくすると腹の辺りが〝熱〟を持ち、不意に腹の痛みがなくなった。
「……けほ、げほっ!」
それと同時に迫り上がってきた嘔吐感に、地面に手をついて激しく咳き込むと、口から黒い塊のようなモノがベチャリと落ちて、突然不快感が消失する。
これは……たぶん、食べていたモノの毒素や泥などの、身体にいらないモノなのだ。
あの〝熱〟と共に胃と内臓が強化されて、大抵のものは消化できるようになり、それでも必要のないものはこうして排出されるのだろう。
また人間離れしたなぁ……でも、今は助かる。
「けほ……もう大丈夫だよ、ジンベエ」
バウ……。
身体の痛みもあらかた消え、強烈な飢餓感がなくなったことで私が落ち着いたと分かったのか、ジンベエが私に近づいて頬をペロペロと舐める。
「ありがと……心配させたね」
危機は脱した。でも、一晩かけて百匹以上のザリガニや用水路の生き物を捕食しても、受けた傷は完全に治らなかった。
深く抉られた腹の傷を撫でると、固い感触が指に当たる。
傷は血のような赤い鱗に覆われていた。あの巨大鹿の時と同じなら、傷が治れば鱗も剥がれるはずだが、これは感覚的にすぐには治らないと分かる。
たぶん、食べる量ではなくて、肉質の問題のような気がした。
でも、傷が完全に癒えるまで待ってはいられない……。
「あいつは……また必ずやってくる」
あの巨大猪がその巨体を維持するためには大量の食料を必要とするはずだ。それなのに前回、畑の作物を食い尽くさなかったのは何故か?
ただの予想になるけど、たぶん一カ所に留まってその地域の餌を食い尽くすのではなく、複数の地域を周回することで定期的に餌を得る手段を学んだのだろう。
ここにあいつが現れたのは、数年ぶりか数ヶ月ぶりか……。昨夜は思いも寄らない痛みに混乱して逃げていったが、あいつはすぐにまたここへ現れる。
巨大鹿も大きくなったせいか普通の動物よりも知能が高いように見えた。
動物にも感情がある。知能が高いのなら、自分に痛手を与えた小さな相手を恐れるよりも、感情を優先して復讐を選ぶ。
最後に見たあいつの〝目〟がそう言っていた。
ジンベエと一緒に家まで戻る。用水路にいたこの辺りの生き物は食べ尽くして今日はもう獲れないけど、もう少し何か食べておきたかった。
……気分的に暖かなものが食べたい。できれば人間の食べ物。
食べ残しの甲羅や骨を良く洗って軽く茹で、灰汁と汚れを取り、じっくり煮て出汁を取る。
家庭菜園の野菜を収穫して、ジャガイモと大豆とキャベツを一緒に煮て、ジンベエの分を取り分けてから、大量の塩をぶち込み、大鍋一杯分の煮物を食べて英気を付けた。
腹も脚も多少引きつった感じはするけど、多少の痛みなら我慢できる。
身体は泥に汚れたままだけど関係ない。必ずやってくるはずの巨大猪を迎え撃つために、全身の傷の〝熱〟さえも高めるように角槍を強く握りしめて、私は石突きで地面を打つ。
「やるよ、ジンベエ」
バウッ!
次回、『ジンベエの畑 その5』
巨大猪との再戦。その決着は……