43 生きる子どもたち その2
「ツバキねーちゃん、早くしないとおいていくぞ!」
「こっちよ、ツバキおねーちゃん!」
先を歩く男の子が飛び跳ねるように手を振り、女の子が私を急かすように手を引っ張る。
「この近くなの? アキ、リン」
私が彼らの名を呼ぶと、二人は嬉しそうな満面の笑顔で振り返る。
「「うん、もう少しだよ!」」
あの刑務所跡の集落から離れて、突然現れた子どもたちは、私の角や尻尾を見ても、あの大人たちのように脅えたり、人間ではないと疎外することはなかった。
でもそれは、子どもたちがそういう偏見を克服しているという話ではなく、彼らはそもそも偏見を持つほど多くの人間と会ったことがないからだと思う。
それだけじゃない。それ以上に子どもたちは、今の世界を直感的に理解している。
『だって、この〝セカイ〟が変わったんだろ? 人間だって変わるでしょ?』
私に尻尾や角があることを不思議に思わないか訊ねてみると、男の子はそんなふうに言って、前歯が一本抜けた顔で笑っていた。
十年前、この世界は唐突に変わった。一定の動物が巨大化して、〝不思議な力〟を宿した巨大生物たちは世界の在り方すら変えてしまった。
これまでの常識がすべて通じない。これまで人間の糧を支えていた陸や海の生物たちが一斉に牙を剥き、人間を襲い、あるものは人間を捕食する。
だから、それまで生きてきた人間は、それまでの世界になかったものを否定する。
でも、子どもたちのように世界が変わってしまってから生まれた者にとって、変わってしまった世界こそが正しいのだと思う。
「ツバキねーちゃん、あれ!」
「あそこがウチだよ!」
「……学校?」
男の子は、アキ。女の子は、リン。
アキは9歳で、リンは8歳らしい。……らしいというのは、二人とも自分の誕生日を覚えてなくて、暦のなくなったこの世界で、季節の移り変わりだけが歳を数える手段になっているからだ。
二人が〝家〟と呼んだその場所は、川沿い近くにある刑務所跡の集落から歩いて小一時間ほどの小学校だった。
確かに人が住めそうではあるけれど……。
「巨大動物とか襲ってこなかった?」
よく見れば敷地を囲うフェンスも壊れた場所があり、その場所がけして安全な場所ではないと物語っている。でもアキとリンはそんなことは気にしていないように屈託なく笑う。
「キョダイって、大きい奴のこと? へっちゃらだよ!」
「うん! 私たちが追っ払っちゃうからね!」
「……凄いんだね」
「「うん!」」
追っ払う? 巨大動物をこの二人で? どうなっているの?
でもよく聞いてみると、追い払うのではなく、石をぶつけたりして誘導し、どこか遠くに連れて行くそうだ。……いやいやいや、それでも普通は出来ないよ?
どうして子どもがそんなことをしているの……?
この辺りに出没する巨大動物は、とても脚が速いらしい。本人たちはそれがなんの動物か知らなかったようだけど。
「それたぶん、〝馬〟なんじゃないかな?」
日本に野生の馬はいないと思うけど、競馬場かな?
「へぇ……あれがウマなんだぁ」
私の言葉にリンがその言葉を噛みしめるように反復する。
リンのほうはその存在の名称を知っていたみたい。本で見たのかな? リンのほうが学習意欲は高そうだけど、アキは相棒であるリンに対抗意識があるのか、自分が知っていることを自慢するように教えてくれる。
「あんなの大したことないよ! やばいのはたまに来るすごくでっかい奴だ。ツバキねーちゃんも気をつけろよ!」
「アキ、あれってクマっていうのよ! 私、本で見たもの!」
「お、オレだってしってらぁ……」
クマ……熊か! え、あれがこの辺りまで出没していたの? たぶん、山の食料だけで足りなくて巨大馬でも狩りにきていたのかもしれないけど、この子たちもあの大人たちもよく生き残ってこられたねぇ。
「熊なら一応、倒したよ」
私がそう言うと二人が驚いた顔をする。
「うっそだぁ……家くらいでかいんだよ!」
「お肉なら持ってきているよ。あとで食べよう!」
私が背負っていた皮袋を叩くと、ぎっしり中身が詰まった音がして、二人は信じてくれたのか目を丸くして喜んでくれた。
「ツバキねーちゃん、すげぇ!」
「お肉だって、アキ! みんなも喜ぶね!」
……みんな?
アキやリンだけでなく他にも人がいるらしい。子どもだけじゃない? あの刑務所跡の集落から家族単位で別れたのかな?
そうであってほしい。そんな期待を込めて私は自分の心を偽る。
本当は分かっていたのかもしれない。ただ、それはあまりにも酷い想像だった。
「みんな、ただいま!」
「今日はお客さんがいるのよ!」
アキとリンが校舎の中に入っていくと、その声に階段から複数の小さな足音が降りてくるのが分かった。
「アキ! リン!」
「おかえぃ!」
「あう!」
それは子ども、というより幼児だった。三歳から五歳くらい。どう考えても親元から離れるには早すぎる子どもたちの小ささに、私は予想が最悪に近い形で当たったことを悟った。
「だぇれ?」
幼児の中で五歳くらいの女の子が私を瞳に映す。意表を突かれた形になったけど、私は心の中の思いを顔に出さないように気をつけて、しゃがむように目線を合わせる。
「ツバキだよ、よろしくね」
「うん! アタシ、ヒナ!」
元気よくそう答えたヒナの横から飛び出した小さな影がぶつかってくる。
「ちゅばっ」
たぶん、〝ツバキ〟と言いたいのだろう。一番小さな三歳の幼児が人見知りをすることなく抱きついてきた。
「そのこ、ソラだよ! こっちが」
「リク……」
ヒナの後ろに隠れるように四歳くらいの男の子が自己紹介してくれる。
この子も人見知りじゃない。初めて会った私に照れているだけだと分かったので、〝おいで〟と微笑みながら手を広げると、リクだけじゃなくヒナも私に抱きついてきた。
まるで……大人の温もりを求めるように。
本当に子どもたちしかいないの? 本当に大人は誰もいないの?
本当に子どもたちだけで、ここに暮らしているの?
でもそれを子どもたちに訊ねることはできなかった。最悪の予想がまだ外れていると信じたかった。だからその代わりに私は抱きついてきた三人をギュッと抱きしめた。
廃校舎に住む、五人の子どもたち。
九歳のアキは、行動派でリーダー気質の男の子。
八歳のリンは、世話焼きでみんなを纏めるお姉ちゃん。
五歳のヒナは、お喋り好きでおしゃまな女の子。
四歳のリクは、ちょっぴり恥ずかしがり屋の男の子。
三歳のソラは、あまりお喋りは上手じゃないけど、物怖じしないで私の尻尾にじゃれついてくる女の子。
そして……大人の姿はない。
「アキとリンも来る?」
二人も抱きしめてあげようか? と声をかけると、リンは少し迷っていたけど、少し照れくさそうに私に抱きついてきた。
私も大人じゃないけど、この子たちよりお姉さんだ。
身長も胸もまだ小さいけど、それでも抱きしめることはできるよ。
「オ、オレは、もう子どもじゃないから!」
アキは戸惑うように視線が泳いで、結局顔を真っ赤にしながら怒ったように横を向いた。
「あ~~、アキ、恥ずかしがってる!」
「違うよ!」
からかうリンにアキが慌てて叫び返す。
ちょっぴり怒ったように迫るアキに、リンが私の腕から抜け出して笑いながら逃げて、それをアキが慌てて追いかける様子に、三人の幼児が楽しそうに笑っていた。
きっとこの五人はこうして生きてきた。
本気じゃない年上二人がじゃれ合って、小さな子たちが笑う。
これがこの子どもたちの日常。
それの光景を見て、私も否応なしに現実を突きつけられたような気がした。
この子たちは……刑務所跡の大人たちから、捨てられた子どもだ。
大人に捨てられて暮らしている子どもたち。
ツバキはどう向き合うのか。