10 ジンベエの畑 その5
再戦!
その猪は怒り狂っていた。だがその怒りを暴れて晴らすのではなく、深い森の奥で、ただ傷と痛みが癒えるのをじっと待っていた。
巨大な猪も生まれたときから大きかったわけじゃない。今より小さかった頃は、周囲は危険なことばかりだった。だが身体が巨大になり〝知能〟を得ると、自分の大きな身体と分厚い毛皮は強力な〝武器〟となることを知った。
雑食であることが幸いし、身体をさらに大きくすることができた巨大猪に勝てるモノはおらず、牙を振るえば簡単に引き裂くことができた。この地域を縄張りとした巨大猪は、高い知能により自分を〝尊い〟ものであると思うようになった。
だが、その誇りは穢された。
昔から無性に気に障る〝鳴き声〟で吠えたてる生意気な小動物。
そして、その小動物と共に自分を追い立てようとした二本足の生き物。
その奇妙な〝気配〟を持つ二本足に目を潰された。生まれてから初めて味わう強烈な〝痛み〟に混乱してその場を離れたが、冷静になれば〝怒り〟が湧き上がってきた。
許さない。尊い自分を傷つけ、痛みを与えたあの二本足を絶対に許すことはできない。
牙で胴体を貫いた。だが、あの二本足は死んでいない。
今も感じる、あの忌々しい〝気配〟が徐々に強くなっているのを感じた。
『ブモォオ……』
待つのは止めだ。傷を癒やして痛みをなくすよりも、この痛みを、この屈辱をすべてぶつけてやろうと、巨大猪は再び動き出した。
***
パチ……パチ……。
パキッ。
焚火の火がはぜる音に混じって、手足に残った小さな傷を覆っていた鱗が剥がれ落ちる。
傷を覆っていたときは鋼のように硬かった鱗も、傷が治っていくと硬度はなくなり、黒ずんで剥がれ落ちた鱗は指で潰すと簡単に崩れた。
傷が治っていくと赤かった鱗の一部が黒ずんでいくのは、胃と同じように毒素を排出しているのかもしれない。実際、指で潰した後には土のようなものが残っていた。
バウ……。
「なんでもないよ、ジンベエ」
近寄ってきたジンベエが、鱗が剥がれた跡をペロペロと舐める。
傷を覆う鱗は硬くて危ないので舐めないように教えたけど、鱗が剥がれたあとなら舐めてもいいと認識したみたい。
「あはは、くすぐったい。もう大丈夫だよ」
ジンベエが傷のあった場所を舐めて綺麗にしてくれると、赤みがかった小麦色の肌には傷痕どころか染み一つすら残っていなかった。
あいかわらず普通とは違う規格外の身体だけど、今はありがたい。
傷の治りのことだけじゃない。この力があれば、ジンベエを……ジンベエが護ろうとしたあの民家と畑を護ることができるのだから。
ズズンッ……
「来た……っ」
月が高く上がる頃、角槍を持って庭で待ち構えていた私とジンベエがその来襲に気づいて顔を上げる。
来たか巨大猪。振動と共に進んでくる強い〝気配〟が感じられた。
私があいつの気配を感じられるように、あいつも私の気配に気づいて、まっすぐにここへ向かってくる。
「行くよ、ジンベエ」
バウッ!
私は角槍を構えるとジンベエを連れて猪が来る方角へ駆け出した。
ジンベエに〝待て〟とは言わない。ジンベエにもご主人様の残した畑を護るという想いがあり、それは私の感情で止めていいものではないと思ったからだ。
それでも私はジンベエに戦わせるつもりはない。私一人の手で……ここで決着をつけてやる。
ジンベエと共に畑を駆け抜け、巨大猪が畑に辿り着く前に迎え撃つべく、畑の外周へ到着した。
月があるので夜目の利く私は問題なく見える。それでも見通せない森の暗闇から、以前薙ぎ倒した樹木の幹を踏み潰すように、巨大猪が姿を見せた。
ズズン……ッ!
『ブルルルルゥ……』
潰した片目の傷からまだ血が滴り、まだ残る目に憎悪の感情を宿して私を睨みつけ、ジンベエが私の隣で勇気を振り絞るように身を低くして唸りをあげる。
私がその目を潰した角槍を見せつけるように構えると、巨大猪はそれを睨むようにわずかに身を低くして筋肉をたわめた。
あいつはこの角槍を警戒している。
巨大鹿の角……私の血を吸ってほのかに赤く染まる角槍は、元から鉄のように硬かったが、今では自販機を易々と貫ける強度と鋭さを持っていた。
あいつは角槍を警戒し、私は取るに足らない小さな生き物程度に思っているのだろう。
そして、その小さな生き物が自分を傷つけたことにあいつは憤っている。
だけど……
お前は私を……私たちを甘く見すぎだ。
角槍を握る手に力を込める。鈍く疼く傷の痛みを〝熱〟に変え、明確な『敵』との戦いに、私の全身の血が沸き立つように闘志が溢れた。
その〝熱〟をさらに腕に込めると、赤い爪の指先から波立つように二の腕まで真っ赤な鱗で覆われ、握りしめた角槍が〝赤み〟を増す。
「はぁああああああああああああああああああああああああっ!!」
『ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
私と巨大猪は、同時に叫んで同時に飛び出した。
踏み込んだ大地が抉れるように後方へはじけ飛び、一瞬で互いへと迫る。
巨大猪のマンモスのような鋭い牙が私の心臓を狙う。私はそれに合わせるように全身の〝熱〟を腕に込めて渾身の力を込めて突き出した。
ガキィイイイイイイイイイイイイィンッ!!
『ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
角槍と巨大な牙がぶつかり合う。一瞬の拮抗、だが打ち勝ったのは私だった。
角槍とぶつかり合った牙が砕けて、巨大猪が激しい痛みに咆吼する。
「たぁああ!」
私はその隙を見て、巨大猪の残った目に角槍を振るう。でも、一瞬早くそれに気づいた巨大猪が顔を背け、角槍は巨大猪の頬に刺さった。
駄目だ、皮と皮下脂肪が分厚すぎて、切っ先が肉に届いていない。
『ブォオオオオオオオオオオオオッ!』
背けた頭部をスイングするように残った牙が殴打して私ごと角槍を弾き飛ばした。
「――っ!」
地面を雑草ごと削りながら転がる私に、怒りを漲らせた巨大猪が地響きを立て、まるで列車の如く迫り来る。
起き上がった私が横に跳び避けると学習した巨大猪は横薙ぎに牙を振るい、私はとっさに腕の鱗でそれを受けるが、鱗が剥がれて血が噴き出した。
「このぉおおお!」
腕に〝熱〟を込めて渾身の力で巨大猪の眉間をぶん殴る。
ゴォオンッ!!
『――ッ!!』
岩をぶつけ合うような音が響き、額がくっきりと拳の形にへこんでいた。
でもそれだけだ。体重の軽い私では勢いをつけて速さで対抗しないと威力が足りない。
「角槍は!?」
――バウ。
「ジンベエ!」
ジンベエが角槍を咥えて引きずってきてくれた。私は一瞬動きを止めた巨大猪から離れて角槍を受け取る。
「離れて!」
腕の〝熱〟を角槍に込めて、再び動き出した巨大猪へ角槍を構えて突っ込んだ。
「たぁあああああああああ!!」
勢いをつけ、赤みを増した角槍の切っ先が巨大猪の顎下の肉を吹き飛ばした。でも浅い。毛皮と脂肪を吹き飛ばしただけだ。
『ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
激しい痛みと怒りに吠えた巨大猪が、下半身だけで上半身を持ち上げる。
デカい! まるで壁のようだ。
その威容に一瞬足を止めてしまった私に、巨大猪が上半身を振り下ろした。
ドドドドドドォオオオオオオンッ!!
「かはっ!」
振り下ろされた顎で私が地面に叩きつけたれた。おそらく何トンもあるだろう衝撃に私の身体が地面に埋まり、口から血が溢れた。
『ボォオオオオオオオオオッ!』
「ああああああああああああああああああっ!」
そのまま私を潰そうと巨大猪が体重をかけ、私も渾身の力で対抗する。
いかに私の身体が頑丈でもダメージが酷い。あの巨大鹿を倒したように〝声〟に〝熱〟を込めようとしても、その〝熱〟が足りていない。
力が徐々に抜けて、もう駄目かと覚悟したそのとき――
バウッバウッバウッ!!
ジンベエが飛びかかるように吠え立て、その瞬間、巨大猪の動きが乱れた。
今しかない!
「うぁあああああああああああ!!」
叫んだ私はその赤い爪を……角槍で抉った顎下の肉に突き立て、力ずくで引き千切る。
『ボォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
傷口を抉られた巨大猪が顎をあげた。私は引き千切った肉を食らい、身体の内側に燃え上がった〝熱〟を両足に込め、波立つように真っ赤な鱗に覆われていく両足で、自動車ほどもある巨大猪の顎を蹴り上げた。
『――――ッ!?』
バウバウッ!!
そこに飛び出してきたジンベエが巨大猪の頭部に飛びかかる。そのかすり傷さえも付けられない攻撃に、巨大猪の残った瞳がわずかに揺れる。
「たあぁあああああああああああああっ!!」
その一瞬の隙に全力で飛びだした私が腕に〝熱〟を込める。
ここで決着をつける!
腕の真っ赤な鱗が鋭利に逆立ち、鋭い真っ赤な爪が生えた手を手刀にして、巨大猪の残った片目に肘まで突き立てた。
『ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
脳まで腕を突き立てても巨大猪が暴れ続ける。
私ごと地面を抉り、樹木をへし折り、それでも私は離れることなくさらに深く突き刺した手の爪で、その脳を握りつぶす。
『ボォ……』
そのまま私を引きずるように数メートルも走り続けた巨大猪は、〝ビクンッ〟と身体を震わせるように動き止めてゆっくりと崩れ落ち……そのまま動くことはなかった。
「…………勝ったぁあああああああああああっ!」
ワォオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!
腕を引き抜いた私は身体を投げ出した畑の上で大の字に転がり、ジンベエと共に勝利の声をあげて……そのまま気を失うように眠りについた。
その翌朝……。
「ジンベエ、食べない?」
クゥ~ン……。
私が差し出した肉塊に、ジンベエが尻尾を股の下に丸めるように脅えて後ずさる。
巨大猪は死闘の末倒すことができた。でも死骸を畑の側に放置をすれば、その肉を狙ってまた訳の分からないものを呼び寄せるかもしれないので、処分することにした。
でもバス並みに大きいからまずは解体しないといけない。しかも巨大鹿の皮と同じように私の爪か角槍でしか切れなかったので、かなり面倒だった。
鱗に覆われていた腕も寝て起きたら元に戻っていて、安堵すると同時に解体するにはあのままのほうが便利だったかと、少しだけ残念に思う。
まず首や足の根元を切ってある程度血を抜いておく。吊したほうが血は抜けるはずだけど、こんな物を吊すには大型クレーンでもないと無理なので諦めた。
それから腹を割いて内臓を取り出す。悪食だったのか内臓はかなり嫌な臭いを発していたので、大部分は捨てるしかなかった。
ぐぅ~~~……。
まだ怪我が治っていないせいか、新鮮な肉を見ていたら腹が鳴る。生肉は危険だけど胃が強化されたから、たぶん平気かな……。
ざくざくと肉を切り分けてこれはどうしようかと、残しておいた新鮮な心臓と肝を見せて、ジンベエに食べるか聞いてみたけど、拒否する以前に脅えて近づこうともしなかった。
「仕方ないか……」
仇敵の肉だからね。仕方ないね。一人で食べよう。
まずは血の滴る心臓からいただいていく。爪で引き裂き、溢れる血ごと齧りつく。
「ん~~~~……うん」
思っていたより忌避感もなく……気がつけば、その甘い血肉をガツガツと貪っていた。
自分で思っていたよりも空腹だったみたい。心臓だけでも身体を丸めた私と同じくらいの大きさがあったのに、まるで手品のように私の胃の中に消えていった。
「……けぷ」
そのまま肝にも手を伸ばす。そのまま齧りつくと口の中に濃厚な味が広がった。食べ進めるとまた胃の辺りで〝熱〟を持った。
また胃が強化されたのかな? でも食べ進めるとその熱が全身に広がり、そのまま最後まで肝を食べ終えると、パキ……と音を立て、傷を覆っていた鱗がすべて剥がれ落ちた。
バウッ。
「うん、治ったよ」
傷からかさぶた状態の鱗が剥がれると、すべての傷が痕もなく綺麗さっぱり消えていた。
怪我をして戦ったからかなり消耗していたけど、心臓を平らげたことでそのマイナス状態がゼロに戻って、肝を食べて腹が膨れたら全身に〝熱〟が満ちた感じだ。
「ん?」
バウバウ!
ジンベエが物珍しそうに私の回りを駆け回り、私の伸びた尻尾にじゃれついていた。
「こら、ダメだって」
私の身体にまた変化が起きていた。
まず三十センチ程だった私の尻尾が、私の腕ほどの太さになり五十センチくらいに伸びていた。それから自分の頭に触れてみると、十センチくらいだった赤い角も数センチだけ伸びている。
その程度だけど、ジンベエにとっては物珍しく、私にとっては劇的な変化だ。
多少動かせる程度だった尻尾も伸びたことで、腕ほどじゃないけど脚くらいには自在に動かせるようになった。ただまだ短いので使いどころはないけどね。
角は……あまり長く伸びすぎると邪魔にならないかな?
それから私は民家の納屋からスコップを借りて、畑から離れた場所に大きな穴を掘る。
猪から幾つかの部位をいただき、解体した猪をジンベエと一緒にその穴に放り込むと、大量の落ち葉と枯れ枝を被せて、巨大猪を火葬にした。
私たちは勝った。これは私とジンベエの勝利だ。
少し考える……。巨大猪はどうしてジンベエが吠えて怯んだのか?
そもそも最初に現れたとき、ジンベエがいたとはいえ、どうして畑の作物をほとんど食い残して去るような真似をしたのか?
たぶん……だけど、あの猪はあんな巨大になる以前、犬に追い立てられたことがあるのかもしれない。だから最初に驚いて思わず撤退したのでは?
真相は分からない。でも、実際にあいつはジンベエに怯み、致命的な隙を見せた。
だから、この勝利は私たち一人と一匹のものだ。
まだ乾いていない猪の死骸は大量の薪をくべても燃え尽きることなく、あと数日は燃え続けるだろう。
私は燃える炎と立ち上る煙をジンベエと感慨深く見つめ続け、夕暮れと共に背を向ける。
「帰ろうか、ジンベエ」
バウッ!
帰ろう、あの家に……私の〝最後〟の仕事をするために。
次回、『ジンベエの畑 その6』
ワンコ編ラスト