初恋~あなたの隣に住まわせて~
彼女の左手。薬指には、指輪が着いている。
結婚指輪。それ以外に、左手の薬指に着ける理由はない。
それでも俺は、彼女が好きだった。
彼女と出会うまで、俺は無気力に生きていた。インドアというよりも、引きこもりに近い休日を過ごす。運動もろくにしない。趣味も好きなものもない。家にいるときは、ネットの動画を流し見て暇を潰す。
そんな人生でいいと思っていた。食って、寝て、暇を潰す。人生とは、一生をかけた暇潰し。そんな生き方をしていた。
ほんの一年前までは。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高校を卒業してから、適当に生きていた。面倒だから大学受験もしなかった。親に説教されるのが嫌で、一人暮しを始めた。
初めて働いた職場は、コールセンターだった。派遣社員。一日に一回は面倒な客の対応をすることになるが、別に気にならなかった。客の吐き出す一言一言が俺の金になるんだと思えば、どうってことはない。
派遣期間の三年が過ぎて、無期雇用されずに退職した。
退職が決まったときに思ったのは、ただひとつだった。
「仕事探し、面倒臭いな」
履歴書を書くのが面倒臭い。面接をするのが面倒臭い。新しい仕事を覚えるのが面倒臭い。
派遣社員や契約社員だから、一定の契約期間があるんだ。正社員なら、いちいち契約期間を気にしなくていい。そんな自堕落な理由で、俺は正社員の仕事を探した。
上手い具合に見つけることが出来た。コールセンターの管理者候補。電話対応業務を一定期間経験し、管理者研修を受けてSV――スーパーバイザー――になる流れの仕事。
SVとは、コールセンターの一般的な管理者を指す。数人から十数人のオペレーター――電話対応者の管理をする業務だ。
管理者の仕事は面倒そうだけど、正社員として安定して働けるならいいか。職探しなんて二度としたくないし。
早速求人に応募した。二十二の若さでコールセンター経験が三年もある俺は、問題なく採用された。
入社日になって、初めて出社した。心の中にあるのは、面倒臭いという気持ちだけだった。新しい職場のことを学ぶのが面倒臭い。新しい職場に慣れるのが面倒臭い。新しい職場の人達と人間関係を築くのが面倒臭い。
でも、慣れるまでの辛抱だ。慣れれば、ずっと働ける。生活できれば、多少給料が安くてもいい。とにかく面倒なことは避けたい。
初めての出社時に、入社説明会に参加した。職場のルールや簡単なオリエンテーション、コールセンターに必須の個人情報保護の研修を受けた。ここまでが、午前中のカリキュラム。
午後からは、配属される業務の研修を受けることになる。
社内の食堂で昼食を済ませて、配属先の研修室に足を運んだ。空腹が満たされて、軽い眠気に襲われていた。面倒だという気持ちが、ますます大きくなっていた。
慣れるまでの辛抱だ。仕事に慣れれば、あとは惰性で働ける。惰性で日々を過ごし、のんびりと生きていける。
意欲とは無縁の言葉で自分を励ましながら、俺は研修室に足を運んだ。
研修室には、俺と、他二人のSV候補。それほど広くない研修室。
講師として研修を行なうのが、彼女――柳沢沙希さんだった。少し細身の、でも健康的な体つき。優しげな目元。肩甲骨あたりまで伸ばした長い髪。薄い青のブラウスと黒いパンツスーツが、よく似合っている。胸はあまり大きくないかな。
左手の薬指には、指輪。
一目惚れなどではない。
むしろ、このときは、彼女のことなど何とも思っていなかった。
研修が終わって家に着く頃には、彼女の顔など忘れていた。
だから、想像もしていなかった。
こんなに好きになるなんて。
無気力な俺が、こんなに強い気持ちを抱くなんて。
柳沢さんと出会ったときは――一年前は、思いもしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
穏やかで優しい人。
それが、柳沢さんに対する第一印象だった。研修は丁寧で、しかも分かり易い。期間が決まっている研修だから時間は押しているはずなのに、質問にも丁寧に答えてくれる。特別明るいわけでもなく、陽気というわけでもないが、いつも笑顔を絶やさない。
ただ、気のせいだろうか。柳沢さんの笑顔には、どこか影を感じていた。
研修が二週間目に入った頃、気付いた。柳沢さんの研修が分かり易い理由。彼女は、教え子に対する欠点修正の指導が上手いのだ。
柳沢さんは、教え子の欠点を修正するときも、欠点だけを指摘しない。まずはいいところを褒めてくれる。そのうえで、より良くなる材料として欠点修正の説明をしてくれる。決して、欠点だけを上げ連ねて相手の気持ちを沈めたりしない。
柳沢さんの研修を受けた新入社員は、目に見えてやる気を出していた。二人とも、入社日の研修では居眠りをしていたのに。今は、俯く気配すらない。
SV候補として入社した三人の中で、俺だけが無気力だった。柳沢さんの研修は分かり易く、意欲を向上させる。それでも、俺の意欲は上がらなかった。
俺は無気力な人間だ。過去に辛いことがあってこうなった、なんてことはない。生まれつきの性格だ。周囲がどれだけ盛り上がっていても、みんながどれだけ熱くなっても、俺だけが冷めていた。
たぶん俺は、人間として欠陥品なのだろう。だから、何に対してもやる気が起きない。だから、人生を、ただの暇潰しだと思っている。
とはいえ、無気力といっても、俺は馬鹿ではない。自分で言うのも間抜けな話だが、知能は高い方だと思う。知能が高くなければ、無気力なのに研修についていけるはずがない。毎日の研修後に行なわれる簡易テストでも、俺の点数は他の二人よりも高かった。
研修開始から三週間が過ぎた。
いつもの研修と、いつものテスト。今日のカリキュラムが終わって帰ろうとしたところで、俺は、柳沢さんに呼び止められた。
「布施君」
業務が終わったら、一秒でも早く帰りたい。たとえ残業代が出るとしても、残りたくなんてない。そんなに金を使うほど遊び歩くわけでもないし。
「何ですか?」
立ち止まった俺の横を、他の研修生が通り過ぎてゆく。「お先に失礼します」と挨拶をして、研修室から出て行った。
柳沢さんが俺に近付いてきた。研修中の雑談で、彼女の年齢を聞いたことがあった。二十七歳。俺より五つ年上。でも、近くで見る彼女は、実年齢より若く見えた。
「少し残れるかな? 十分か二十分くらいでいいんだけど。用事ある?」
用事はない。帰り道のコンビニで夕食を買って、家に帰って食べて、ネットで動画を見て、眠くなったら寝るだけだ。趣味はない。楽しみもない。恋人もいない。何かをしたいという気持ちもない。
ただ、面倒臭い。
「いや、特に用事はないですけど」
答えてから、不思議に思った。用事があると嘘をついて、帰ればよかったじゃないか。でも、とも思う。柳沢さんに嘘をつくのは、何だか悪い気がする。
「よかった。じゃあ、ちょっと座ってもらっていい?」
言われた通り、俺は、研修室の椅子に腰を下ろした。
机を挟んで俺と向かい合うように、柳沢さんも座った。彼女は封筒に入った書類を机の上に置くと、前置きなく質問を口にした。
「あの、ね。率直に聞くけど、私の研修、分かりにくい?」
「何でですか?」
俺のテストの点数は悪くない。むしろ、毎日ほとんど満点だ。研修の内容を理解しているのは、明らかだ。それだけに、彼女の質問の意図が分からない。
「うーん、とね……」
柳沢さんは、少し考え込むように視線を上に向けた。彼女につられて、天井を見てしまった。蛍光灯の光が眩しい。
「失礼な言い方になったら悪いんだけど、布施君、なんかつまらなそうで。それなのに、他の二人よりもテストの点数はよくて。でも、他の二人みたいに、テストの点数に一喜一憂する様子もなくて」
「ああ」
俺達のことをよく見ているんだな。もしかしたら柳沢さんって、学校の先生に向いているんじゃないか。コールセンターの管理者なんかよりも。
俺が心の中で呟いていると、柳沢さんは、封筒から書類を取り出した。俺の履歴書だった。布施光一という名前と、抜け殻みたいな目をした写真の中の俺。
「立場上、履歴書には目を通すんだけどね。ちょっと込み入ったことを聞いてもいい?」
「大丈夫ですよ」
「布施君って、頭いいよね? 南東高校出身なくらいだし」
俺が通っていた南東高校は、地元では一、二を争うほどの進学校だ。卒業生はほとんどが大学に進学する。俺のように高卒で働き始めるのは、ごく少数だ。異端と呼べるほどに。
「でも、大学にも行かずに就職して。でも、就職先も、どこかの企業じゃなく派遣社員で。何か事情があるの?」
本当に込み入った質問だと思う。でも、柳沢さんには、ドラマに出てくる熱血教師のような押し付けがましさはない。いつものような柔らかい雰囲気と、しっかりと相手を見てくれる目。
俺は、正直に自分の気持ちを話した。もちろん、研修後に本採用にならなかったら困るので、仕事はちゃんとするという前提を伝えたうえで。
「なんかね、面倒なんですよ。何をするのも」
子供の頃から、何でも人並み以上にできた。家で特に勉強をしなくても、成績は常によかった。運動だって、人並み以上にできた。むしろ、人並み以下のことを探す方が難しかった。
ただ、何をやっても楽しいとは思えなかった。
高校のときに、恋愛は楽しいのかも、と考えたことがある。告白されて、付き合ったことがある。
結論から言えば、楽しくなかった。面倒臭かった。セックスで快楽は得られた。でも、女の子を相手にするのが面倒だった。快楽を得たいだけなら、オナニーの方が楽だった。
セックスやオナニーのくだりを除いて、俺は、自分のことを柳沢さんに伝えた。仕事だから、やるべきことはやる。でも、基本的に、何もかも面倒臭い。だから、必要以上のことはしたくない。
自分語りをして、ふと思った。俺、どうして、こんなことまで話してるんだ? 適当にそれらしいことを言って、適当に会話を切り上げて帰ることもできるのに。
柳沢さんは、俺の目をじっと見つめていた。俺のどうしようもない話を、しっかりと聞いてくれた。
俺の話を聞き終えると、彼女は、意外な言葉を吐き出した。
「一回寝っ転がったら、食べるのも、トイレに行くのすら面倒になるんだよね」
「!」
俺は目を見開いてしまった。柳沢さんの言う通りだった。何もかも面倒臭い。だから、一回寝っ転がると、全ての意欲が失せる。食欲や性欲、排泄の欲求まで。
柳沢さんは、丁寧な研修をしてくれる。俺のような、常に面倒そうな空気を出している奴とは正反対だ。そんな彼女が、俺の気持ちを言い当てた。驚かないはずがない。
柳沢さんは眉をハの字にして、少し恥ずかしそうな顔になった。
「私もね、同じような経験があるの。何もかもが面倒で、馬鹿らしくて、生きることも面倒でね」
信じられなかった。そんな自堕落な言葉が、彼女の口から出てくるとは思わなかった。
もしかして、俺に共感を示して心を開かせよう、なんて考えてるのか? 柳沢さんの意図を推測してみた。すぐに、自分の考えを否定した。彼女の言葉には実感が込もっている。俺のヘイトを管理するためだけに吐いた言葉じゃない。
不思議な気分だった。考えてみれば、こんなふうに驚くのも、人の心情を積極的に読み取ろうとするのも、初めてだった。少なくとも、記憶にある限りは。
「でも、何だかんだで生きちゃうんだよね。面倒だ面倒だって思ってても」
ハの字眉のまま、柳沢さんは苦笑して見せた。研修中には見せない彼女の本音が、その笑顔に表れている気がした。
優しいけれど、どこか影のある笑顔。
俺は、今まで何にも興味を持てなかった。勉強も、スポーツも、女も。適当にこなしていれば、何でも人並み以上にできた。そして、どれもこれも、必要以上にやり込まなかった。
必要じゃないことをやるなんて、面倒臭い。
でも今は、面倒臭いなんて思わなかった。初めての経験だった。胸がむず痒くなるような感覚。心臓の鼓動が速くなっている。
これが、何かに興味を持つという感覚か。
俺は、生まれて初めて、異性に興味を持った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
柳沢さんは、Arcobalenoというバンドが好きだという。アルコと呼ばれる、結成から二十年以上経った四人組のモンスターバンド。特に、ボーカルのJekyllの歌声が凄いという。
柳沢さんは、全国展開しているこのと屋という洋菓子店のケーキがお気に入り。この洋菓子店は各月ごとに季節のケーキを販売していて、特に三月のケーキがお気に入りだ。三月は、彼女の誕生月でもある。
柳沢さんは、週に二回スポーツジムに通っている。そんなに激しい運動をするわけでも、積極的に筋肉を付けるわけでもない。ただの体力維持と健康維持のための運動。だから、細身でありながら健康的。
この一年で、俺は、柳沢さんのことをたくさん聞いた。
聞くだけじゃなく、彼女の習慣を真似てみた。
ArcobalenoのライブBlu-rayを購入してみた。正直なところ、素晴しかった。俺も歌はそこそこ歌えるが、当然のようにレベルが違う。特に、ボーカルのJekyllの歌声や表現力は、まさに芸術と言ってよかった。
このと屋のケーキも食べてみた。甘い物は好きだが、買いに行くのが面倒だった。だから、いつもコンビニのデザートで済ませていた。でも、初めて食べたこのと屋のケーキは、まるで違っていた。こんなに旨いものなのかと驚いた。特に、柳沢さんお気に入りの三月のケーキは、絶品だった。
スポーツジムにも通ってみた。運動は苦手じゃない。むしろ、運動神経も身体能力も平均以上だ。簡単に体力がついたし、筋力もついた。同じ施設内にあるボルタリングなんかもやってみたが、悪くなかった。汗をかいた後は、ただの水が驚くほど旨かった。
柳沢さんの習慣を真似ると、彼女に近付ける気がした。彼女をより身近に感じた。彼女のことを知って、知る度に自分が変ってゆく。ほんの一年前まで、何もかもが面倒だったのに。今は、知ることが楽しい。知ることが嬉しい。
柳沢さんと色んなことを話した。昼食や、残業のときは夕食も一緒に食べることがあった。面倒なんて思うことのない時間。瞬きする間に時間が経つ。そんな、楽しくて嬉しい時間。
当たり前のように、俺は自覚していた。
これは、俺の初恋だ。恋愛というのは、こんなにも人を変えるものなんだ。履歴書に貼った、写真の中の俺。抜け殻のような目をした俺は、もうどこにもいない。
でも、この恋は、決して実ることはない。
柳沢さんの、左手の薬指。常に着けている指輪。彼女には、夫がいる。俺以外の男と、生涯を誓っている彼女。
柳沢さんとは、色んな話をした。彼女の色んなことを聞いた。
でも、彼女の夫のことは、一度も聞けなかった。聞きたくなかった。頭がおかしくなるほど嫉妬してしまうだろうから。涙すら流すかも知れない。もしかしたら、無理矢理にでも、彼女を自分のものにしようとするかも知れない。
心に住み着いた初恋は、俺に意欲を与えた。同時に、凶暴にもしていた。他の何を壊してでも、好きな人が欲しい。たとえ、好きな人自身を壊してしまっても。
無気力のお手本のようだった、一年前までの俺。だからこそ、この気持ちの手懐け方が分からない。柳沢さんと過ごすのが楽しい。嬉しい。だからこそ奪いたくなる。壊したくなる。
俺の気持ちを伝えたくなる。
「柳沢さん。今日の夜、呑みに行きませんか?」
ある週末。金曜日。
俺はとうとう、自分の気持ちをコントロールできなくなった。
好きだと伝えたい。自分の気持ちを知って欲しい。気持ちを抑え切れない。どうせ俺のものにならないなら、せめてしっかり振ってほしい。けじめを付けさせて欲しい。
この気持ちは、単なる我が儘だ。柳沢さんに、自分の気持ちを押し付けようとしているだけだ。頭の中の冷静な部分では、そう分かっている。でも、初めて抱いた人間らしい感情が、理性を殺していた。
「うん。いいよ」
柳沢さんは断らなかった。
実は、すでに居酒屋を予約していた。居酒屋の個室。さすがに、周囲に見られながら告白する気になどなれない。俺にとっては、人生で初めての告白なんだから。
柳沢さんの左手。薬指には、指輪が着いている。
結婚指輪。それ以外に、左手の薬指に着ける理由はない。
それでも俺は、彼女が好きだ。
だから俺は、これから、生まれて初めての告白をする。
◇
「お疲れ様」
二人で言い合って、ビールのジョッキを合せた。
金曜の夜。業後。
俺は、柳沢さんと、予約した居酒屋の個室にいた。予約のとき、「お二人で個室は……」と、少し渋られた。でも、強引に押し通した。自分がこんなに押しの強い奴だったなんて、初めて知った。
告白するつもりで、彼女を誘った。
でも、いきなり告白なんてしない。まずは少し酔ってから。ついでに、腹も満たされてから。
話題に困ることはなかった。この一年で、俺は、柳沢さんの影響をたくさん受けている。最近、新しいライブBlu-rayが発売されたarcobaleno。新作ケーキの販売が始まったこのと屋。ジムで挑戦している、ボルタリング。
共通の話題があると、会話は盛り上がりやすい。
「いいよねぇ、Jekyll。特に、最新のライブの『孤独な人生』が、すっごくよかった」
『孤独な人生』とは、arcobalenoの最新ライブBlu-ray『接吻』に収録されている曲だ。孤独に生きる主人公が、過去に想いを馳せる歌詞。その歌詞を歌い上げるJekyllの表現力、歌唱力。俺も、その映像と歌声に夢中になった。
会話が進むにつれて、俺の気持ちは高まってきた。酒のせいもあるだろうが、心臓の鼓動が速くなっている。笑顔で話す柳沢さんを見ていると、より強く、自分の気持ちを自覚した。
やっぱり、この人が好きだ。
「柳沢さん」
「はい?」
返事をしながら、彼女はグラスに口をつけた。彼女のグラスには、ピーチウーロン。ほんのりと頬が赤い。酒のせいか、目が潤んでいる。俺の視線と絡む、彼女の視線。
俺の口は、自然に動いた。
「俺、柳沢さんが好きなんです。研修中の面談で話した通り、俺、何もかも無気力だったんで――恋愛にも無気力だったんで、たぶん、初恋です」
「……」
グラスに口を付けたまま、柳沢さんは固まっていた。驚いた顔で俺を見ていた。告白されるなんて、想定外。そんな顔。
付き合って欲しいなんて、言うつもりはない。彼女は既婚者。不倫なんてリスキーなことを、彼女にさせるつもりはない。告白なんてすべきじゃないことも、分かっている。それでも、どうしても伝えたかった。我が儘だと分かっていても。
「柳沢さんとどうにかなろうなんて、思ってません。ただ、伝えたかったんです。旦那さんがいるんだから、それ以上のことは望みません」
俺も酔っている。顔は赤くなっているだろう。それでも、できるだけ真剣に話した。真剣な気持ちだということだけは、知って欲しかった。
柳沢さんはグラスを置いて、少し考え込むような表情を見せた。ほんの少しの間を置いて、声を漏らした。
「ああ、そっか」
柳沢さんの、左手の薬指。いつも着けている指輪。その指輪に、そっと触れた。
「そっか。旦那か。そうだよね。いつも指輪してるもんね」
少しだけ寂しそうに、柳沢さんは微笑んだ。ほんのりと赤い顔に、浮かんだ笑み。
抱き締めたい、と思った。情欲とは別の感情で。ただただ、彼女を抱き締めたい。
柳沢さんは表情を変えず、左手で頬杖をついた。銀色の指輪が、蛍光灯の光を反射している。
「ね、布施君」
「はい」
「私ね、十年くらい前までは、アルコの曲なんて聴いたことなかったの」
arcobalenoは、結成から二十年以上経っている。十年前の時点で、すでに多くのファンがいた。
「このと屋のケーキを食べるのようになったのも、十年前から。運動を定期的にするようになったのも、十年くらい前からなの」
arcobaleno。このと屋。定期的な運動。俺と柳沢さんの、共通の話題。
自分で言うのも馬鹿みたいだが、俺は、知能は高い方だと思う。だからこそ分かる。十年前を起点に、柳沢さんが変った理由。arcobalenoを聴き始めた。このと屋のケーキを食べるようになった。運動をするようになった。その理由は、きっと、俺にとって嬉しくないことだ。
「旦那とはね、高校二年のときから付き合い始めて。全部、旦那の影響なの」
予想通りだった。
柳沢さんは、旦那の影響を受けた。そんな彼女の影響を、俺は受けた。恋敵と言える人の影響。
「旦那はね、何でも意欲的で。暑苦しさはないんだけど、一生懸命な人だったの。だから、私とも、大学生のうちに結婚して。卒業して、就職して、一生懸命働いて。それでも、どこか子供みたいだった。好きなことを、楽しそうに話してた」
聞きたくない。好きな人の旦那のことなんて、聞きたくない。
「私もね、アルコを好きになって。旦那とよく話すようになって。凄く、凄く楽しかったの。幸せだったの」
柳沢さんの視線が、俺から外れた。頬から左手を離して、薬指の指輪を見つめた。彼女の瞳の水気が、増していた。水滴が溢れそうなくらいに。
「でも、ね。死んじゃったんだ。四年前に。事故でね」
「……」
だから過去形だったんだ。ほんの数瞬前の、彼女の言葉。幸せだった。
「旦那がいなくなってからね、私、本当に無気力になって。惰性で朝起きて、惰性で仕事に行って、惰性でご飯食べて、惰性で生きて。死んだ方がいいのかな、なんて思ったけど、自殺するのも面倒臭くて」
そうか。だからか。
俺は、研修時の面談を思い出した。その時の、柳沢さんの言葉。
『一回寝っ転がったら、食べるのも、トイレに行くのすら面倒になるんだよね』
彼女自身が無気力を経験しているから、無気力な俺に共感してくれた。もっとも、俺は、悲しい出来事から無気力になったわけじゃないけれど。
「職場の人にも腫れ物みたいに扱われてね。それがまた面倒臭くて。だから、転勤願いを出したんだ。地元から離れて、私の事情なんて知らない人達のところに行きたくて」
柳沢さんは、転勤して今の職場に来た。旦那を亡くしたことをキッカケに。だから俺は、彼女と出会えた。彼女と出会って、無気力だった俺は変わった。彼女を好きになった。
俺が柳沢さんを好きになった理由は、全て、彼女の旦那にあったんだ。彼女の旦那がいなかったら、俺は彼女に出会えなかった。無気力なままだっただろうし、人を好きになることもなかったかも知れない。
「転勤するのに、当たり前だけど引っ越しの準備をして。荷物をまとめるときに、アルコのライブBlu-rayがたくさんあって」
柳沢さんは、少しだけ苦笑した。
「最初はね、全部捨てようと思ったんだ。アルコのBlu-ray。旦那のことを忘れられないのも、辛かったし。でね、捨てる前に、一回だけ一通り観ようと思ってね」
「観て、捨てられなくなった?」
彼女は頷いた。
「忘れられないし、忘れたくないなぁ、って」
左手の薬指。銀色の指輪。その指輪を、彼女は撫でた。撫でながら、続けた。
「旦那は生きてるんだな、って感じたの」
「……」
よく、ドラマや映画で、死者について語られる。心の中で生きている、と。そんなのは綺麗事だと思う。死者は死者だ。生きている人間とは違う。そんな綺麗事が、柳沢さんの口から出るとは思えなかった。
「あ、旦那が生きてるって言っても、よくある『心の中で生きてる』みたいなセリフじゃないよ」
思った通りだった。
「私がアルコを好きなのも、このと屋のケーキが好きなのも、運動する習慣があるのも、旦那の影響だから。旦那が、私に残してくれたものだから。それが、私の中にいる旦那。旦那がね、私の一部をつくったの。今でも、旦那が私の中に住んでるの」
優しい口調で、愛おしそうに語られる話。温かくて、悲しくて、胸が痛くて、愛情にあふれた話。
柳沢さんの、旦那に対する想い。
「だから――今でも旦那と一緒にいるつもりだから、指輪も着けてるの」
そしてそれは、俺の告白に対する拒絶でもある。
『私の中には、旦那が住んでいる。ずっと、旦那がいる。だから、旦那以外の人とは付き合えない』
柳沢さんは、困ったような顔を俺に向けた。申し訳なさそうな表情。
「ごめんね。あと、ありがとう」
柳沢さんの中に、旦那が住んでいる。それは事実だろう。ずっと住み続けて、出て行かない。それもまた、事実だろう。亡くなった旦那に嫌な部分があったとしても、それを彼女が思い出すことはない。旦那のいい部分だけを住まわせて、一緒に生き続ける。ずっと。一生。
でも、彼女の旦那が、彼女の隣に並ぶことはない。絶対に。
「柳沢さん」
「はい?」
「俺ね、すっかりアルコにハマってるんですよ。このと屋のケーキにも。運動も、すっかり習慣になってるんですよ。ほんの一年前まで、人間のクズレベルで無気力だったのに」
「無気力だったけど、布施君はクズじゃないよ。凄く優秀」
柳沢さんのフォローを、俺はあえて無視した。そんなことは、今は重要じゃない。
「俺の中にはね、もう、柳沢さんが住んでるんです。旦那さんの影響を受けて、旦那さんと一緒に生きている、柳沢さんがです」
俺が柳沢さんに出会えたのは、彼女の旦那がいたから。そして、旦那が亡くなったから。旦那が、彼女の隣から消えたから。
「旦那さんが住んでてもいいです。なんなら、指輪を着けたままでもいいです。俺の中にも、そんな柳沢さんが住んでます。だから――」
俺は、柳沢さんの方に身を乗り出した。再び、視線が絡んだ。酒の匂いが混じった呼気。二人とも、頬が赤いだろう。でも俺は、酔った勢いで話しているわけじゃない。
「――俺を、柳沢さんの中じゃなく、柳沢さんの隣に住まわせてください」
死んで彼女の中に住むのではなく。生きて彼女の隣に。
彼女の左手。薬指には、結婚指輪。
でも彼女は、今は既婚者じゃない。その隣は、空席だ。俺が住み着く余地はある。
柳沢さんの唇が、ゆっくりと動いた。
(終)