丘の上の天使様
学園に入学してから二週間が過ぎた。衝撃的だったのは初日だけで、それからは特に変ったことはない。オリエンテーションも終了し、履修科目も決定した。魔力がまったくない私は普通科なので、魔法科のヘザーとも離れてしまった。もちろん、同じ科であっても、能力順で振り分けられるので、同じクラスにはなれなかったはずだけど。ヘザーは才色兼備だが、私はなんでも平均なのだ。
ローランドの姿も見えないし、お姉さま方も何も言ってこない。おかげで面倒には巻き込まれていないのだけれど、初日から目立ってしまったせいか、誰も話しかけてこない……。いや、普通に挨拶はするし、連絡事項は話すよ。誰からもいじめられたりはしてない。でも、なんというか友達ができない。
「大ニュースよ!明日から王太子殿下が学園に戻られるんですって!」
「ええ!本当に?外部研修に出ていたって聞いてたけど」
「研修は昨日で終了されたらしいわよ!」
「まあ!じゃあ、これからはずっと学園にいらっしゃるのかしら?」
今日は朝からこの話題でもちきりだった。この学園には王族とその側近の特別クラスがあって、一般とは違うカリキュラムで動いているらしい。入学時期に彼らの外部研修を入れているのは、新入生がパニックを起こさないようにという学園側の配慮だそうだ。
貴族とはいっても、学生で社交界デビューしているのは、すでに既婚者である者だけ。国王陛下や王太子殿下と面識があるものはほぼいない。噂では眉目秀麗な秀才らしく、加えてまだ婚約者がいないとなると、未婚のご令嬢はそれはそれは色めき立ってしまうだろう。実際に上級生クラスには、すでに取り巻き令嬢たちが存在するらしい。
特別クラス再開準備のせいなのか、今日の授業は休講や自習が多い。四時間目とランチをはさんだ五時間目が空き時間になってしまったが、私にはまだ一緒に行動する友達がいない。しかたがないので、早めにお弁当を食べてから、私は教室を抜け出した。お天気もいいし、庭園を探索してみよう。
この学園は広大な敷地に建てられていて、庭園も中庭も裏庭も、なんだったら温室もある。こんなにいい天気なのに、外に出ないなんてない……と思うが、貴族は男女とも日除けなしでは庭には出ない。だからこそ、裏庭呼び出しなんてことがあったのだ。お姉様方もイケズ現場を殿方に見られるのは避けたいところだから。
庭園を歩いていくと、すこしだけ小高い丘が見えた。あの丘の向こうなら、校舎から死角になりそうだ。貧乏男爵令嬢が、一人ぼっちで日向ぼっこしてるところはあまり見栄えがいいものじゃない。見かけた人が同情して、変な気を使ってしまうのを避けるには、やはり隠れたほうがいいと思う。
小高い丘の上に昇ると、そこからは緩やかな芝生の斜面が続いていた。ずっと下のほうには大きな川が流れていて、向こう岸は街になっていた。壁や柵はないけれど、学園の敷地は結界で守られているようで、そちら側から勝手に町民が入ってきているような様子はいない。
ちょっとだけ丘を下ると、私はさっそく芝生に寝転んで、高いところを流れる雲を眺めた。太陽はポカポカと暖かく、ぼんやり時間を潰すには最高だ。そして、そうしているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
「君!大丈夫?こんなところで寝ていたら風邪を引くよ!」
誰かがそう言う声が聞こえて、私はうっすらと目を開けた。あれ?いつの間にか寝ていた?この声、どこかで聞いたことがあるような……。
目の前には、心配そうに私を覗き込む天使がいた。サラサラと額にかかる髪は薄茶で、目は海のような深い青。甘く整った目鼻立ちと引き締まった口元。あ、残念イケメンさんだ!
そう思った瞬間、私はガバっと飛び起きた。そして、もちろん、私の顔を覗き込んでいる残念イケメンさんに、思いっきり頭突きをしてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい!お、驚いてしまって!あの、大丈夫ですか?」
額を押さえてうずくまっている残念イケメンさんに、私はオロオロしながら声をかけた。どうしよう。怪我をさせてしまったかもしれない。
「い、いや。大丈夫。僕もちょっと驚いただけで」
瞳にうっすらと涙を浮かべて、残念イケメンさんは顔をあげた。おでこが少し赤くなっている。私はいそいで残念イケメンさんをその場に横にならせた。痛みで混乱していたのか、残念イケメンさんは特に抵抗することなく、私に従った。
「本当にごめんなさい。少しだけ休んでください」
私は水筒の水でハンカチを湿らせ、残念イケメンさんの額に当てた。残念イケメンさんは気持ちよさそうに目を閉じた。よかった、これで少しは痛みが引くかもしれない。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
しばらくすると、残念イケメンさんは起き上がって、私に向かって微笑みかけた。あのときも思ったけど、本当に眼福だ。そのお顔の麗しさに、見ているこっちの目が蕩けてしまいそうだ。
「本当にすみません。しばらく、冷やしておいてください」
「いや、僕こそ、驚かしてしまってごめん。ここに人がいるのは珍しいから」
この人はやはり貴族で、上級生だったんだ。この口ぶりだと、よくここに来るのだろうか。
「そうですか。ここには初めて来たんです。授業がなくなってしまったから」
「やっぱり君はこの学園の新入生だったんだね。平民には見えなかったから、そうじゃないかと思ってたんだ」
町娘の変装は完璧だったはずだけど、バレちゃってたのか。まだまだ修業不足なのかな。私がそう思っていると、残念イケメンさんが突然笑い出した。どうしよう、やっぱり頭突きの後遺症が……。
「あ、あの、大丈夫でしょうか?」
私がおそるおそる尋ねると、残念イケメンさんは笑いながらこっちを見た。
「いや、君と会うと、いつも痛い目にあうな……と思って」
な!な!な!私はそんな乱暴者じゃないっ!前回も今回もそっちが仕掛けてきたからでしょう? しかも、い、いきなり、キ、キスされたら、誰だって驚くよ!
私が真っ赤になっているのを見て、残念イケメンさんは失言に気がついたんだろう。慌てて言い添えた。
「あ、いや。そういう意味じゃないんだ。この間も今日も僕が悪かったから」
残念イケメンさんは笑うのをやめて、真剣な眼差しでこっちを見た。え、やだ。そんな真っ直ぐに見つめられてしまうと、なんだか変な気分になってしまう。
「その、あれは、僕の勘違いだった。どうやら、閨で女性を喜ばせる手管だったらしいんだ。本当に申し訳なかった。実生活で、自分から女性に気持ちを伝える機会がなくて」
なるほど。かなり箱入りのお坊ちゃまだ。閨教育でしか女性についての知識がないということは、つまりすでに婚約者のいる高位貴族ということだろう。きっと卒業と同時に結婚するので、周囲に女性がいない環境で過ごしているのだ。
「もういいですよ。何か誤解があるとは思ってましたから。でも、ああいうことは簡単にしないほうがいいですよ。女性に期待させますから」
こんなイケメンにあんなことをされたら、たいていの貴族の令嬢はイチコロだろう。婚約者がいる男性に熱を上げてしまうのはよくない。小説なんかでは婚約破棄物が流行っているけれど、実際にはそんなドラマチックな婚約破棄なんてない。家の都合ばかりだ。
「それは……君も期待してくれたってこと?」
「はい?あの、私の話、聞いてました?そういうのがよくないって言ったのですが」
この顔で思わせぶりな態度はダメ!どれだけの令嬢が好き勝手な解釈をするか分からないのに、この人はあまりにもそこに無頓着だ。
「ああ、そうか。うん、ごめん」
残念イケメンさんは素直に非を認めた。うかつな人だけど悪気はないし、ちょっと心配になるくらい天然だ。
「いいですよ。もうお互いなしにしましょう。今日の頭突きは私のせいですし」
私がにっこり笑ってそう言うと、イケメンさんもにっこりと笑った。笑顔の破壊力すごい。一体、どんな令嬢がこの人の婚約者なんて大役を務められるんだろう。
「学園で会えると思って、あのときのお礼を持ってきてるんだ」
イケメンさんはポケットから、小さな袋を取り出した。見覚えのあるロゴは、街でみかけた雑貨屋さんのものだった。
「そんな、お礼なんていらないです!」
「高価なものじゃないんだ。僕の給金で買ったものだから」
小さな包を手に押し付けられてしまうと、さすがに断るわけにもいかない。私はそっと中を開いた。
「わあ。かわいい!」
金色のハートの土台にアメジストがついた、かわいいネックレスだった。
「君の髪と瞳の色だから。きっと似合うと思って」
確かに、私の髪は濃い金色で、瞳の色は深い紫だ。そういえば、あのときも髪と目を褒めてくれたっけ。社交辞令だと思っていたけれど……。
「ありがとうございます。でも、給金って……」
箱入り貴族のお坊ちゃまが労働を?
「ああ、うん。社会勉強でね。市場で働いてたんだ。あの日は初日でまだ不慣れで」
そうか。社会勉強。うんうん、必要だね、この人には。全然、世間ずれしてないもの。いくら貴族社会といったって、ここまで純粋培養じゃ簡単に騙されそうだし。
「そうだったんですか。でも、せっかく自分で稼いだお金を……」
「自分のお金だから、君に使いたかったんだ。じゃなきゃ、お礼の意味がない」
それは正論だと思うけど、なんというか、それはさっき私がダメって言った、まさにその域じゃないでしょうか?女性へのプレゼントを買うために働いた……とか、結構な殺し文句だと思うのだけど。
「かして。付けてあげるよ」
戸惑う私からネックレスを取ると、イケメンさんは私の首に腕を回した。あのときと同じように、香木を思わせる優しい香りがした。
「やっぱり。君にはかわいいアクセサリーが似合うよ。お守りだと思って付けておいて」
そういって目を細めるイケメンさんの破壊力はやはりすごい。無理無理。もう無理。これで平静でいられる女子なんていない!私が赤くなっているのは、別に変に意識しているからじゃないの!イケメン・パワーに押されているだけなの!
「あ、ありがとうございます。先輩」
「アレクだよ。君は……」
「クララです」
「そう、クララっていうの。かわいい名前だね」
や、やめてー。そんな恥ずかしいこと言わないで!どこまで追い詰めたら気が済むんですか!
そのとき、学校の時計塔から二時を告げるベルが聞こえた。もう五時間目が終わる。
「いけない!もう戻らなくちゃ!先輩、本当に、すみませんでした。それから、これ、ありがとうございます」
「また、ここに来て。待っているから」
「え?あ、はい」
私は急いで立ち上がって、アレク先輩にお辞儀をしてから、教室に向かって走り出した。なぜか胸がドキドキするのは、久しぶりに全速力で走っているからだと言い訳をしながら。




