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人間の体温がフロントガラスに伝染した。寒い寒いと思っていただろうフロントガラスは、温かい温かいとでも言い出したように次第に頬を赤らめはじめ、結露を作った。前が曇って見えない。木田がヒーターのボタンを押そうと手を伸ばすが、一歩出遅れたようだった。鍋島の人差し指が目当てのボタンの上にあって、すぐにぶおーっと暖気が噴き出す音がした。行く手を阻まれた木田の人差し指は、運転席横の車窓を開けるボタンへと的を変えていた。
凍えるくらい冷たい風が頬に当たる。桟に肘をかけながらだんだん下へと曇りを消していくフロントガラスに目をやっていた。……いつも一人で乗っているときはこんなに曇らないのに。きっと、目には見えないだけで、一人だけの空間に人が一人増えることでいろいろと変わってしまうことがあるのだろう。
鍋島が車に乗り込むとき、彼女の手にキャリーバッグはなかった。あったのは、細いショルダーの紐に対してリュック自体が小さい、どこぞやのブランドのようなバッグ。それを背負っていただけだった。三日程度実家に帰省するくらいなら携帯、財布、充電器、眼鏡ぐらいあればなんとかなりそうなものなので、木田は特に気にはしていなかった。
「そろそろ行く?」
んああ、とボーっとしていた木田の口から情けない声が出る。すぐに窓を閉めてギアを入れた。
フロントガラスは透き通っていた。