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ものの数十秒で鍋島はキャッシュコーナーから出てきた。「待っててくれたんだ」その声に木田はドキリとする。……だってなんか話が続きそうな雰囲気だったから。
待っててくれたんだ、ということはあのまま帰ってもよかったのか。そう思うと、鍋島を待っていた数分が無駄なことのように思えた。これから東京に行くのだ。十九時台の新幹線に乗って、二十二時前にはアパートについて、そのままの勢いで寝てしまうつもりだった。電車の時間に遅れないかと気になり、右手首に目を落とすが、そこに腕時計はなかった。
仕事辞めてからつけてなかったのか……。
心の中で優しく舌打ちする。仕事をしていたときのことが頭に浮かんだ。時間に追われる生活――常に時間を気にする生活――時間にルーズではなかった頃の社会人の自分が、やけに何かに追われているように見えた。
そう。まさしく時間に追われていたのだ。
「木田、買い物?」
「いや……ちょっと金をおろしただけ」
「なんだ。私と同じだ」
鍋島がゆっくりと歩き出し、木田はつられたように彼女の横についていた。
「私の家この近くなんだ」
スーパーの自動ドアが開くと、冷たい外気が顔面を覆った。内と外の気圧の差で、吹き込んできた風が全身に当たるのが分かった。
鍋島が歩く方向は、木田の車が駐車されている方角だった。鍋島の家がこの近くということは、きっと彼女は家から歩いて来たのだろう。おそらくこのまま駐車場を抜けてしまう。
そうやって頭で考えている間にも、二人は一歩一歩、歩いている。駐車場なんて狭い敷地だ。会話が弾むこともなく、自分の車が目の前に迫っていた。
「じゃあ、また」
曖昧に手を挙げて、背を向けようと身体を回して別れようとする。
「木田」
身体が完全に背を向く前に声がした。木田は手をかけようとしたドアの取っ手をすんでで掴み損ねる。ゆっくりと身体を戻すように振り返った。
「これからどっか行くの?」
「ああ」
「どこ? ……か聞いてもいい?」
「東京」
「今、東京に住んでるんだ。大学? 就職?」
「違う。逆だよ、逆。こっちに住んでて東京行くの」咄嗟に嘘をついた。
「あ、ああそうなんだ。何か用事? ライブとか? あ、普通に遊びか」
「まあそんな感じ」
「どのくらい?」
「……三日かな」
「へえ。こっちで誰かと会った?」
「会ってない。これまだ続く?」
木田は素っ気なく言った。鍋島が「ああううん。全然」と勢いよく両手を胸の前で振っている。「ちょっと気になっただけだから。私、向こうで就職して、ちょうど帰って来てて、帰って来てたの三日ぐらいで、なんか同じようなところ多いのかなあって思ったりして、ってまあそんな適当になんとなく思いついたこと聞いてみただけだから」
息継ぎを忘れたように次々と出される言葉の最後に、「じゃあ、また、機会があれば」と矢継ぎ早に言い残し、鍋島は手を振った。木田に背中を向けて歩いていく。
おかしなやつだ、と木田は首を傾げる。最後まで見送ることなく再び自分の車の方を向き、ポケットのキーに触れる。……そもそも俺と鍋島に同じようなところなど多いだろうか。俺は実家に住んでいると言ったし、彼女は東京に住んでいるといった。それだけでも違っているというのに……やっぱりおかしなやつだ。明らかにきょどってたし。
木田はもう一度首を軽く傾げ、車の鍵を開けた。ドアに右手が触れた。
――帰って来てたの三日ぐらいで――
木田はもしかして、と思って身体を翻す。まばらに停まっている車の向こうに鍋島の姿があった。見えたのは背中ではなく正面だった。
彼女がこちらに向かって走ってくる。木田の正面に立ち止まる。
「あの、さ」鍋島が言いづらそうに言いかけたところを、「駅まで乗せてこうか?」と先読みしたように遮った。
木田の言葉に、鍋島は呆気にとられた。
「えっと……」
「車じゃなくて、新幹線で帰るつもりだったから」
「あ、そうじゃなくって……本当にいいの?」
小柄な鍋島が見上げている。まるで中学時代の面影は態度に残っていなかった。中学時代の鍋島はもっと、対等な関係性でものを言っていた。「遊ばない?」ではなく「遊ぼうよ、はやく行こう」そういった大げさに言えば強引な口調だった。遠慮というものを知らず、今みたいに謙遜や下手に出ることは、中学時代の鍋島だったら考えられなかった。
あの頃の残像が、鍋島の着ているベージュのコートを学生時代の指定ジャージ姿に映り変えた。幼げな表情。ストレートアイロンで伸ばされただけの髪質。睫毛の長さと瞳の大きさが変わらないのは、元からの顔立ちだろう。化粧で目元は暗く、口元は明るく、そしてファンデーションが、肌全体の滑らかさと仄かな明かりを作っている現在と幼顔のすっぴんと対比される。
どうやら郷愁というのは、単に昔が懐かしいから抱くというわけでもないようだ。たとえ変化してしまっても、尚残り続ける色濃い趣の残像。そういうものが見えたときに抱くものだ、木田はそう思った。