*
キャッシュコーナーはスーパーに入ってすぐ左にある。店内はいささか込み合っているようだった。ATMは一台だけしかないので誰か使っているかとも思ったが、人影はなかった。誰もいないなというのをもう一度窓越しに確認して、木田は重厚感のあるドアを引いた。
財布から出したキャッシュカードをATMに吸い込ませる。お引き出し、暗証番号――三つの口から同時にキャッシュカード、通帳、現金が吐き出され、数秒せずにぴぴーぴぴーと人の体内を弄られるような不快で煩い音が鳴った。焦るように一枚の札を取り出し、引き抜いたカードと通帳とともに財布にしまった。
身を翻すと、やはり透明な分厚いドアの向こうには人が立っているのが見えた。焦るようにドアノブに手をかけて重いドアを押した。
普通ならそのままドアから手を放して立ち去っていた。しかし――ここのキャッシュ―コーナー内は六畳程度の広い空間だった。ドアを押してATM機器まで四歩は歩く。故に、ドアから機器までの距離が、一般のキャッシュコーナーに比べて多少あるのだ。
普通だったら、順番待ちをしている人は少し距離を置くかもしれない。というか置く人が多いだろう。電車のシートが三席並んで空いていれば迷わず真ん中の席に座る。エスカレーターは一段開けて。テーマパークの入場口の行列で、前の人の背中に触れるくらい近づくことは少ない。混み合った喫煙所内ではなく、わざわざ喫煙所外に居場所を確保。渋谷の喫煙所の仕切りの壁に沿って吸い殻は沢山。
複数の人がいる場所で自分の居場所をつくるとき、人と人とが話すとき、人は相手との距離が近すぎると無意識に居心地が悪いと感じるはずだ。自分の眼前で声をかけてみられるといい。近すぎて焦点が合わずぼやけるどころか、咄嗟に頭を後ろに引くことになるだろう。それが見ず知らずの他人だったならばなおさらだ。人が接するには適切な間隔がある。恋人とキスをしながら見つめ合う、それは別の話。
キャッシュコーナーの外で自分の順番を待っていた女性は、ドアのすぐ前にいた。キャッシュコーナー内が広い、ましてやなぜかここのATMは押戸だった。中から人が出てくるときに自分にドアが当たるということはなく、強いて言えば、中から出てきた人が通れるくらいの距離があればいいものだ。
木田がキャッシュコーナーを出たとき、順番待ちをしていた女性はドアの前に立っていた。
ドアを引いた木田は、ドアの淵を放さなかった。それは、すぐそこに人がいたからだ。比較的真っ当に生きてきた木田は、多少なりとも礼儀は心得ていた。開けた車のドアを持ったまま、「どうぞお降りください」とでも言うビップの運転手かのように、待っていた女性への配慮だった。
女性は軽く会釈しながら木田の押さえていたドアを支える。手に重みの無くなった木田は歩き去る。そうやって過ぎ去っていく日常のどこにでもあり得る話になる筈だったのだ。
木田はドアの淵を放さなかった。
それは、そこに立っている人物に少々の郷愁を抱いたからだった。
この感情は久しく抱いていないものだった。大学に通うため上京してからはホームシックになった時期があった。夏休みに実家に帰郷したときは、懐かしいなあなんて、たった数か月実家を離れただけだというのに感じたこともあった。そんな懐かしさも、帰郷を重ねるごとに薄れていった。就職して一年足らずで退職。ちょうど暮れだから帰ってくれば、という母親の文句に何となく同意して実家に来た今。中学高校の旧友と食事に行くことも、学生時代の帰宅途中に通ったコンビニに行くことはおろか、帰って来てから特に街に出ることなく、実家に籠りきりで終わろうとしている一週間の帰郷。故郷に懐かしさはあるはずもなかった。
だからこのとき感じたのは明らかに懐かしさ、郷愁、そういう類のものだとわかった。人間久しく感じていない感情を目の当たりにしたとき、やはりというべきか高揚する。程度は、小さじ少々程度のものだったが、それでも目の前に立っていたのが中学以来会っていない同級生ともなると、驚くことには驚く。それは相手も同様のようだった。
「木田だー」一瞬目を丸くした女性はすぐに名を呼んだ。
「鍋島……」
木田は自信なさげに手を挙げる。
キャッシュコーナーの入り口で、入れ替わるように鍋島は中へ入った。ドアから手を放した木田はそのまま立ち去ろうとする。
「帰って来てたんだ」
後ろから声がした。振り返ると、ドアを半開きにして顔をのぞかせている。「ああ」と曖昧に答えると、彼女は少し首を傾げて、室内にあるATM機器へと向かって行った。
ドアが、ばたん、と閉じた。