【第二章】口から出任せ、眼は優しく
デジャブが白昼夢。いや独白か。いやダイアローグ。
木田真人は田舎に帰って来ていた。
バイキング形式の飲食店で食事を済ませた後、車に乗り込むが、事前にエンジンをかけていなかったために、車内は震えるほど寒くなっていた。
車内に暖房を入れ、ハンドルを握ると飲食店の駐車場を出た。途端に辺り一帯を照らしていた提灯の灯が、息を揃えて一斉に消えてしまったかのように――冬の田舎は真っ暗だった。木田はかじかみかかった手を温めるように、交互に息を吹きかけながらハンドルを握っていた。信号待ちになると、両の掌を口元に持っていき、息を吹きかけ温める。足が少し震える。マニュアル車だったらクラッチをうまく踏めずにエンストしてしまいそうだった。
教習に通っていたときにそんなことがあったなあと思い出す。冬の長野は冷える。教官たちも教習が始まる前から車を温めておいてくれたみたいだが、それでも教習車内に寒気は残っていた。路上に出る前に教習所内のコースを一周していくのだが、発進の際の反クラッチでしくじりエンストし、停車して教官の話を聴いた後、また発進となるときに再びエンストした。助手席に座る教官の身体が大きく揺れたのを今でも覚えている。「ほんとに大丈夫?」という女性教官の声が脳裏から聴こえてくる。「あんたの人生それでいいの?」と還元されて。
信号が青に変わった。木田は息を吹きかけるのをやめてハンドルを握り、右足でアクセルを踏み込んだ。左足は曲げられてリラックスしている。ヒーターのおかげで脚の方は大分温まってきたようだった。
身体が温まったせいか、寒い、という意識がなくなって、さびい、さびい、と脳内で反芻することもなくなった。車を運転しながら、頭の中では先程夕食を済ませた飲食店の店員について考えていた。
彼は誰もが知っている人物だ。にもかかわらず、有名人を目撃した一般人が「あれ、○○じゃない?」といったふうには、誰も彼の名前を口に出さずにいる。本当のことを言えば、口に出さずにいるのではなく出せないのだ。
誰もが知っている人物には変わりないのだが、有名人、と言うには不相応で、気が引ける。そんな、謗りを免れない人物を偶然地元で目撃した。
「ああ、厄日かな、今日」そう溜息をつくには充分だった。店員の彼に罪はなく、そもそも木田は彼に嫌悪も抱いていないが、それでも世間から皮肉の目で見られ、そういう風評が浸透している彼を、偶然にも目撃してしまったのだから、黒猫が横切ると不吉だ、という言い伝えの様に、彼のことを黒猫扱いした。あるいはイタチ扱いか。疫病神扱いか。
店員の彼に同情はする。親の勝手な都合でレッテルを張りつけられたのだ。風評被害を受けているのに、彼自身はその事実に気が付けない体質というのが唯一の幸いかもしれない。
というのも、彼、新津正文についての噂は御法度、それどころか、彼の名前を口にするのも後ろめたいことなのだ。気安く口にできないという意味だけで言えば、数百年前の天皇や皇女らと同じような人物とも言えるのかもしれない。しかし、新津正文は偉いとは程遠い、正反対の人物だ。その名を口にするだけで汚らわしい、忌み嫌われているという他ない。
心配ない。そのうち彼は死ぬ。彼ら「間引き人」と呼ばれる人たちには、欲がないのだ。欲がないとどうなるのか。することがなくなって倦怠感が込み上げるようになり、やがて自殺する。仮に自ら生を絶とうとしなかったとしても、「間引き人」を殺して悲しむものはいないのだ。それは親でさえも百パーセントないと言い切れる。子どもを間引くような親に、子どものことを心配する気心などない。そんな気心があるのだったら、はなから自分の子どもを「間引き人」になどしていない。子どもを間引いた親たちは、皆富豪になれる。間引いた子どもの欲を奪い、その欲が親の中で膨れ上がるように、こうしたい、ああしたい、ほしい、ほしい、で頭がいっぱいなのだ。今頃、好みのビジュアルの異性と性行為に及んでいることだろう。
子どものレッテルと引き換えに、彼ら親は、溢れ出る欲と永遠の財力を手に入れたのだ。その事実について知っている人は、日本の全人口に比べれば、十パーセントもいないだろう。調べようと思って調べないとわからない事実だった。テレビで流れた報道がすべてだと疑ってやまない人間たちは、今日も「間引き人」のことを残虐な犯罪者だと同じように疑ってやまない。惰性で学ぶと情報がガセかどうか疑えない。民放と視聴率、真実と事実。そういう関係性。
世間がそういう風潮だからだ。