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万華郷  作者: 面映唯
第一章
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 飲食店のアルバイト勤務が終わるまで残り四時間だった。今日は日曜のはずなのに来客が乏しい。最近パンデミックと称されるほどのウイルス蔓延の影響で、客足が減ったのも理由の一つだろう。このご時世にビュッフェスタイルの飲食店だ。ホテルの朝食でもあるまい。それも当然かもしれない。

十九時頃に来客した日本語を流暢に操る欧米人五、六人を最後に、店に客は入っていなかった。ビュッフェスタイル、バイキング形式、最初にオーダーを取ってしまえばあとはすべてセルフサービスになるため、特にすることもなく水道のシンクに腰を掛けていた。


 同じように仕事がなくて暇を持て余しているアルバイトの女性一人が、パントリー内に置かれたステンレスの長机に肘をついて怠そうにしていた。


「ああ、早く帰りたい」


 対面に立って後ろで手を組んでいたもう一人のアルバイトの女性は呼応する。


「ねー。もう客来ないよね」

「うん。いっそのこと、この店の時計全部早送りしちゃいたい」


 へえ、おもしろい発想だな。最近あの頃に戻りたいというようなことを考えていたためか、その思考回路はなかったなあと感嘆する。前々から思っていたことだったが、他人の言動には気づかされる部分が多くあった。自分でいくら様々なアイディアを挙げたところで、人数には敵わない。有能な一人が十個のアイディアを出すよりも、十人の一般人が一人一個ずつアイディアを絞り出した方がアイディアの色味が増す。客観的に、とはいえ、やはり主観は主観でしかないと改めて学ばせられる。

あの頃の自分に戻りたい、数分前に戻ってやり直したい、自分の理想の人生に近づけるためにさっきの友人との会話をやり直したい、そう思うばかりの今日この頃だったが、そうか、早送りにすればいいのか、と妙に納得させられてしまった。それも三つ年下の女の子にだ。女は余計か。


 早送りか……。人は年を取ることに心のどこかで怯えている。衰えていく身体の部分部分に気づかされる老化。自分もその一人だった。今でさえ冴えない顔をしているのに、年を取ってしまえばもっと醜い皺皺の顔になってしまう。年を取れば満足に煙草も吸えないかもしれない。喉を通るものが減っていく。甘いものが食べられなくなる。虫歯になり、歯肉炎になり、歯槽(しそう)膿漏(のうろう)になり、歯が刺し歯になり、入れ歯に変わっていく。味がしない。街中で若い女性に避けられる。加齢臭。風呂に入るのが面倒になって、薄くなった白髪は脂で光り、服からは異臭がする。街中ですれ違う人の一人ひとりが顔をしかめながら、口に手を当てながら、通り縋っていく。


 残念ながら、これが現状だ。


 年を取る。これは人間の視的魅力を少なからず奪っていく。


 それを知っていたから、長生きしようだなんて気は毛頭なかった。できれば四十代で死んでしまいたい。もっと早くてもいい。三十代半ばで、野尻湖にでも沈もうか。水によって浸食されて肉体は消え、堆積によって地底に埋まった遠い昔のナウマンゾウの骨と一緒に、眠ってしまう方が(おごそ)かだろう。


 十代、二十代が永遠と続いていけばいいのだが、でも続かないから、人生で一番魅力的で活気に溢れている貴重な中学、高校、大学での生活をやり直したいと思った。なるべくその時期を完璧に過ごして、この先年を取って周りの視線に愚弄(ぐろう)されても、昔の自分は幸福だった、とその思い出に満足して、黄色くなった前歯を舌の先で(さす)りながらやり過ごすためだ。


 本当なら、一番若くて魅力的な十代二十代に遊びまくれれば、この思惑は容易に達成できるのかもしれない。だが、若者の手元に金はない。高校生も大学生もバイトに(いそ)しむのが現代の定例。しかし、あっという間に消費され、財布から姿を消す札束。一週間前にあった通帳の〇の文字が四つ消えている。


 まあいい。好きなブランドの服を買えたから、友人と遊園地に行って楽しかったから、そう思っていられるのも十代までだった。二十代になれば、年金、扶養が外れれば保険金も払わなければいけなくなる。生きるだけで金が貪り取られ、いつしか夢を忘れ、その場しのぎの生活が続くことがあたりまえになる。


 十代と二十代に働かずに遊んで暮らすのと、よぼよぼになった六十代七十代に家でのんきに眠るのとどちらがいいのだろうか。


 どちらも不可能だ。一律で現金が給付される制度は今のところ日本にはなく、現代世代の老後は、より年金だけでは暮らせず働かざるを得なくなるだろう。最悪、年金なんてもの自体がなくなってしまっていてもおかしくない。


 国民皆保険制度――社会保障――ゆりかごから墓場まで――。三十四、五歳でナウマンゾウの骨と一緒に野尻湖の地底で眠る予定の新津(にいつ)には、幾重にも絡まった足枷(あしかせ)でしかなかった。


 店の時計を全部早送りする、おもしろい話だった。新津は今二十二歳だった。人生の折り返し地点は四、五年前に過ぎているはずだが、なんとなく今が折り返し地点なような気がしてならなかった。店の時計を全部早送りにする――パンデミック――ネット誹謗中傷――(さら)し――シャーデンフロイデ――高齢者運転――若者の猟奇殺人――時代がそろそろ文化を活性化させすぎたことに気づく時期のような気がした。ブータンに学べと森の民が(ささや)いている。新津自身の人生だけではなく、時代すらも折り返し地点の様に思えた。


 未来が知りたい。それは至極真っ当な人間の欲求のひとつだ。しかし、このとき新津が想像したのは日本の未来ではなかった。目と鼻の先、小さなことだった。みんな騙されて、もう九時過ぎてんじゃん、早く帰らなきゃ、と店をいそいそと出てくれるだろうか。想像しただけで笑みが零れた。


 だが、実際は無理だろう、そんなことはわかっていた。第一、店の時計をずらしたところで現代人は一人に一つは携帯電話というものを持っている。腕時計だってファッションの一部だ。手元で確認すれば一目瞭然なはずだ。それ以前に店の時計を見ているものなど客の中にそもそもいるのだろうかという疑問。


 それでも試さずにはいられなかったのは、ただの好奇心だ。客のいない飲食店が与えた、立っているだけで何もしなくていい暇、数時間木偶の坊状態であった気が狂いそうになる勤務時間が、動き続けないと死んでしまう(まぐろ)みたいに何かしらしようと人間の本能に急かされる。


 シンクの横に立てかけられていた二段の脚立を、時計の真下に設置して新津はその上に立った。目と鼻の先にある丸い掛け時計に手を伸ばし、外す。秒針が滑らかに三から六へと滑っていった。それを裏返し、丸い突起に人差し指と親指の腹を掛けた。


 人差し指の腹を、先ほど見た秒針の残像を思い出すように三の方向から六の方向に滑らかに滑らせた。丸い突起の奥で針に噛み合っているようで、確かに針が動いた感触があった。ひっくり返し時計の表を見ると、針は八時四十分を指していた。時計を元の壁に戻し、脚立を降りた。脚立をシンクの横に戻そうとしたときに声が聴こえる。


「あれ、もう八時四十分?」


 アルバイトの女性が口にした。対面で雑談をしていたもう一人のアルバイト女性も口を並べる。


「ほんとだ。あ、でも……」


 視線が新津に向いた。


「今、時計いじりましたよね?」

「ばれた?」

「え、なんだー。ほんとに時間進んだのかと思っちゃったー」

「早く帰りたいのはみんな一緒ですね」


 パントリー内は笑いに包まれた。


 新津は一瞬でも騙されてくれた女性に感謝し、それに満足して時計を元の時間に戻そうと脚立に手をかけた。掛け時計に手をかけ、自分の左腕についていた腕時計の時間を確認しようとした。


 異変が起きたのはそのときだった。


「山田さん、もう八時半過ぎてるじゃない。早く上がって」


 パントリー内に店長が入ってきた。どうやら店長も新津のいたずらに乗っかったようだ。


「ごめんなさい、今直しますね」


 新津は笑って店長に伝えたつもりだったが、店長は「は」と「ん」が混じったような吐息を吐き、浮かない表情だった。


「何を直すって?」

「えっと、時計を」

「時計? なに、壊れたの?」

「あ、いやそうじゃなくて……」


 新津が言い淀んだせいで店長は更に不思議そうな顔をした。「まあいいや。山田さん、とにかくもう上がって」


「はーい」と山田は腰に巻いていたサロンの紐をほどき始めた。


「それから、新津。サボってないで仕事しろ」店長の言葉に、「だってやることねーじゃねーか」と反論しようとしたが、言葉にならず胸の中で溶けていった。新津にだけ当たりが強いのは前からのことで、周知の事実だった。


「はい、すみません」といつもみたく返事をすると、店長は山田に話しかけたときとは似ても似つかぬ不愛想な態度で去っていった。そのまま事務所に籠ってくれればよかったのに、何を思い出したのか店長は踵を返してきた。大方、何か新津への皮肉や当てつけだろう。


「今すぐ髪切った方がいいよ」先生に怒られた子を嬉しそうに糾弾する幼稚園児みたいだった。


 新津は、髪型にそれほど気を使っていたわけではない。なのに、この何かを失ったような喪失感は何だろうか。髪型=アイデンティティ、といったのは中学の同級生だったか。彼は、「髪型馬鹿にされて傷つかない奴なんていないよ」と慰めた。「髪型を変えろと言われるのは、生き方を変えろ……すなわちそいつの生き方を否定してるのと同じようなもんなんだ。俺はそう思う。


 考えるべきなんだ。自分の軽い一言が相手の人生を変えるかもしれないってことを。気まぐれでした腹いせの対象が、何も失うものがない孤独な人間だったらどうだ? 孤独だから失う家族も友情も想いもない。でもこちら側には家族も仕事も失うものばかりだ。孤独な人間は死を望んでいる。死に対しての理由を求めている。啓示だと思うだろうな。自分はこの汚物を社会的に抹殺するために生まれてきたんだって、さ」


 頭を叩かれて新津は我に返る。店長は何も言わずに去った。


 サロンを外し終え、小さく畳んで手にしていた山田が入れ違うように新津の前に来た。小さく腰を折った。何か言うのだろうか、と新津は思った。新津に対しての不公平な扱いについてだろうか。それとも時間のことだろうか。きっと店長は自分のやった時計のいたずらに気づかず、今が八時四十分だと思って疑っていないのだろう。きっと騙されている。だからそのことについて、「店長騙されてますね」とか「新津さんナイスです」とか、それか店長の新津に対する露骨な態度について何か言うと思ったのだ。


「お先に失礼します」


 聞き慣れた言葉のはずなのに、その言葉が来ることを予測していなかった新津は、口を半開きにしたまま、あ、ああ、と吐息の多い発音で返事をするので精一杯だった。挨拶を終えた山田は、新津との視線を外して振り返りかけた。しかし、そこでもう一度山田はこちらを向いて顔を近づけてきた。


「時間って貴重だと思いますか?」


 意味深な言葉に、今度は言葉どころか情けない吐息すら出なかった。返事を待つことなく、山田は再び視線を外してしまった。


「じゃーねー」もう一人のアルバイト女性に声をかけ、山田は出て行った。


 どういうことだ。時間が貴重かどうかと山田は言った。それはどういう意味だ。時計の時間をいじって早送りにしたことに対して言っているということか?


 無造作に脚立を時計の真下に置き、その上に立って時計の針を元に戻そうとした。


「戻せませんよ」


 声がした。もう一人のアルバイトの女性だ。菊地(きくち)という名前だ。


「一度進めた時間は戻せません」ポニーテールにした尻尾の部分にインナーカラーの青髪が窺える。顔の輪郭に沿うように垂らした触角のような前髪を菊地は耳に掛けた。


「もう一度言います。一度進めた時間は二度と元には戻せません。それは、私たちが今生きている時間を巻き戻すことができないことと同じです。私が今こうして話している間にも時間は一秒一秒過ぎて行っています。今が戻せないことは百も承知ですよね? それと同じです」


 脚立の上に立ち、時計に手をかけていた新津は、呆然と彼女の顔を見ていた。青色のインナーカラーが特徴的なポニーテール、細く顎の下まで伸びる長い触角が印象的な彼女だったが、彼女は今、後ろに一つ結っていた髪をほどいた。サラっと揺れた髪が垂直に伸びる。髪を結んでいたのにもかかわらず、そこに型がついていないのを見ると本当に煌びやかな髪だった。髪型ひとつで印象は変わった。三つ年下の彼女が、自分より十歳は多く生きているだろう貫録を印象付けるその顔つき。


 ふっと口元を(ほころ)ばせた。


 何に笑ったのだ。


 なんだそのすべてお見通しだとでも言いたげな態度は。まるで仁王立ちしながら両腰に両手をついているような態度。今脚立の上に上っていて彼女より身長が高いというのに、どうしてそんな自信満々な態度がとれるのだ。


「時間は貴重ですか?」


 菊地は山田と同じ問いをかけてきた。


「本当に貴重なのは時間じゃないですよね」


「それはどういう意味だ」三歳年下とはいえ、このアルバイトについたのは新津の方がいくらか後だった。入ったときから菊地の方が先輩だったために敬語で対応していたが、なぜかそのとき出た言葉尻はタメ口だった。


「どうも何も、そのままの意味ですよ。あなたにとって貴重なのは時間に追われることですか? それとも寿命に追われることですか? あなたは寿命側の人間でしょう?」

「時間も寿命も根底は同じ時間じゃないのか?」

「私が今聞いているのはそういう次元(、、)の話じゃないですよ」

「はあ? 言ってる意味が……」新津がそう言い終える前に、菊地はパントリーから出て行ってしまった。


 そのとき、風除のドアの開く音がした。客が入ってきたのだろう。今出て行った菊地が対応してくれるだろうと思っていたが、数秒待っても「いらっしゃいませ、何名様ですか?」というマニュアル通りの声は聞こえてこなかった。


 くそっ、

 と、小さく舌打ちをすることもできず、新津はパントリーを出た。来店した客に人数を聞き、人数分のおしぼりを持って席へと案内する。


 マニュアル通りの言葉を並べる中、新津の頭はどこか違うところを見ていた。接客していても意識はそこに(あら)ず。


「お決まりになりましたらそちらのベルでお呼びください」


 最後までマニュアル通りの文句を並べ、新津は客の元を離れた。歩きながらパントリーに戻る途中、今日は厄日かな、と結論付けた。


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