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万華郷  作者: 面映唯
最終章
35/42

「久しぶりですね、一年ぶり?」


 木田は突然肩を叩かれ身体をびくつかせた。振り返ると立っていたのは小柄な女性だった。デニムのショートパンツに、大きめの黒のTシャツをワンピースみたく合わせている。その上に着ている厚手の黒パーカーもまた、ワンピースみたくサイズは大きめだった。


 一瞬、木田は彼女が誰なのかわかろうとしなかったせいで、俺にこんな女の友達なんかいたっけ? と何度も思い込もうとした。でもすぐに思い出されてしまう。それほど強烈な記憶だったからだ。




 忘れもしない去年のこと。冬に浴衣姿が見れるという花火大会があると聞いたのは、職場の後輩からだった。


「冬に浴衣なんて寒そうだな」「それが寒くないんですよ、なぜか。夏を感じるからですかね」そんな会話をした記憶が蘇る。


「先輩行きましょうよ」「男二人でか?」「先輩のこと心配してるんですよ。趣味は何かって訊いても何もないって言うし、職場で有給使ってるところも、希望休出してるところも見たことない。おまけに、他の人がしらばっくれてる些細なミスを、何食わぬ顔で自分のミスみたいにすみませんって謝って、後輩がすみませんって謝れば『ああいいのいいの、俺どうせクビになってもならなくてもどっちでもいい人だから』って、そんなの見せられたら不憫(ふびん)でならないですよ。女の人の一人や二人、紹介してあげたくなりますって」

「紹介してくれるのか?」

「できないから花火大会に行くんです!」


 そして、木田は職場の後輩とこの冬の花火大会に訪れることになった。冬といってもほとんど秋のような気候に近く、極寒のような寒さではない。例年そのはずだったのだが、なぜかその年、残雪が路肩を囲い、雪解け水がアスファルトの上を濡らすほど寒かったのだ。


 当然、浴衣を着ている人物などほとんどおらず、いても浴衣の上にコートを羽織るというこれまた斬新なコーディネートをした女性たちだった。その姿を目撃した後輩は、「なんかナンパするって感じじゃないですね……」と乗り気ではなくなっていた。


 仕方なく花火だけ見て帰ろうということになったのだが、それは唐突に起こった。大きな地鳴りが聴こえ、空に打ち上げ花火が上がって間もなくのことだった。連続して地鳴りが耳元に響く中、それとはまた別の地鳴りが、木田ら人間の全身を伝って響いたのだった。


 最初、それは誰もが打ち上げ花火が上がったときに体感する地響きだと思った。ファミレスに入った際に鳴る「ピンポーン」という入店音と、テーブルから店員を呼ぶために鳴らす「ピンポーン」というベルの音を聞き分けられないのと同じようだった。聞き分けようと意識して聞かなければ判別がつきにくいものだった。当然、木田も最初は騙されたが、すぐその地鳴りの違いに気づく。身体に伝わってくる地響きの震えの程度が、違いすぎるのだ。「どーん」という音が、身体の肋骨に響いたものとは似て異なる。響いているのには変わりないのだが、立っていられなかったのだ。


 天災は唐突に訪れた。神の訪れ、天啓(てんけい)とはよく言ったものだ。マグニチュード七を超える大型の地震が花火大会に訪れていた人々を襲った。


 一度目の大きな揺れが止まると、人々は入り乱れた。秩序を失くしたように人々は「急いで逃げなくては」と焦燥(しょうそう)に駆られたのだろう。または防衛本能か。とにかく、人の波が押し寄せてくるように人々は秩序を失くした。


 河川敷の堤防に上がる階段付近で花火を眺めていた木田と後輩は、大きくその被害を受けた。右からも左からも前からも人の波が押し寄せてくるのだ。身動きが取れず、そのとき木田は後輩とはぐれてしまった。木田の後輩はその押し寄せる人の波に順応し、階段を降りていったようだったが、木田は咄嗟に河川敷側に寄ったため、人々の間をすり抜けるように堤防を下っていた。


 人の波に(さら)される中、木田は早くこの波から出たいと思った。当然だ。波にのまれれば息ができない。早く浮上して酸素を吸引しなければならない。肩がぶつかり合い、すり抜け、河川敷まで降りた木田は、さっきまでいた堤防の上を見上げた。堤防に上がるための階段は狭いため、人が入り乱れごった返し、雪崩のように崩れてはまた立ち上がり、そんな光景が混沌として眺められていた。自分は河川に向かって歩いて来たというのに、そこには人が一人もいなかった。皆が堤防側、街の方に向かって行進しているようだった。


 秩序がないとはいえ、混沌としているとはいえ、それでも全体像を眺めれば規則性があるのも確かだ。現に、人々の進みたい方向が街の方角だということは一致している。


 そんな中で規則性に逆らうように、無規則に動いているものは自然と浮き彫りになる。今木田が堤防から河川敷に向かって下ってきたように、雪崩の中を逆らうように、エスカレーターを逆走するように進む二人の人影が、遠く見えた。彼らは河川敷に向かってきているのではなく、堤防に連なる屋台通りを駆け抜けようとしていた。否、逆走していた。片方は女性で、片方は男性だというのは遠目にも分かった。そして、その二人が仲の良い友人同士で、一緒に逃げている、という風には見えなかった。


「追われてる?」


 そこですとんと落ちたような妙に納得する感覚を持った。確かに、水面下で何か遂行しようと思ったら、人々の意識がそがれている場所や時間帯が都合がよく、効果的だ。そんなことをぼんやりと眺めていると、女性と男性は屋台の陰に隠れて見えなくなった。木田の周りには、人がいなくなっていることに気づいた。


 そして、再び地震が襲った。地鳴りが立っていられないほどに響く。地面が割れるのではないかと思った。そして、もう一つ重大なことに気が付く。


 木田は後ろを振り返った。河川の水かさが増している。河川だというのに、まるで海のように荒波を立てていた。


 ――逃げなくては。


 立てないほどの揺れの中、よろよろに蛇行しつつも再び堤防に向かって木田は走った。転び、這い、そして立ち上がりまた走る。そんな中でも花火は未だに打ちあがっているようだった。どーん、どーん、と地鳴りの後に聴こえる破裂音が耳を刺す。恐らく自動で打ちあがるようになっているのだろう。スイッチを押して一度上がったら、ある程度打ちあがり終わるまでは止まらないのかもしれない。それともこの地震の中、花火師が「花火師の意地だ」とか言って、導火線に火をつけているとでもいうのか。それはそれで感涙必至だ。


 木田が堤防まで登り切ったとき、ちょうど河川が反乱を起こしたようだった。波のように水が河川敷に満ちていく。間一髪だったと安堵する。


 も、束の間。「助けて!」という叫び声が聞こえた。どこかで折り返したのか、こちらに向かって走ってくる女性がいる。その女性はおそらく先程逆走していた女性に違いないだろう。その女性が進行方向の先に木田の姿を確認したとき、どこか感情が溢れ出るような顔をした。そういう風に見えた。


 盆提灯のせいだ――橙色の明かりが仄かに彼女の額を照らした。目元が光っている。泣いているのだろう。頬に皺が寄っている。必死なんだろう。口元が歪んでいる――開いた――あ、う、え、え――。


「助けて」


 自然と身体は波に乗っていた。馬鹿か、阿保か、間抜けかドジか。「助けて」って言われてこの状況で助ける奴がどこにいる。逃げるのが最優先だろう。自分の命最優先じゃね? 何一緒に走っちゃってんの。意味わかんない。そもそも助けるってどうやって助けるんだよ。


 木田は後ろを振り返る。数十メートル先に追っ手の姿が見えた。手元に刃物らしきものが見える。


「ああーもう!」そう叫ばずにはいられなかった。


 屋台通りに入る。通路は物でごった返している。

 女性が転んだ。手を引っ張って起き上がらせる。

 無様に倒れている屋台を横切る。

 再び地鳴りがした。

 花火は未だに上がり続けている。

 でもって体は揺れる。

 何かが何かを察知した。

 女性を強く押した。

 暑かった。

 熱気が溢れ出るようだった。

 女性が何か言っている。

 聴こえない。

 まどろみの中でよだれを垂らしている気がした。枕が濡れている。冷たい。でもそれが枕ではなくてアスファルトで、よだれじゃなくて血液だろう気がした。


 でも違った。


 アスファルトには違いなかった。でも血液じゃない。暑いのは、盆提灯の橙色の明かりが生み出す錯触。ちょうど木田の隣に横たわった屋台の鉄板がまだ熱を持っていて、木田のそばに落ちているからだった。転んだのは地震の揺れのせいだろう。


 立ち上がり、再び逃げようとするのだが、正面には遠くに突き飛ばしたはずの女性が立ちつくしていて、その視線が木田を透かしていた。女性の視線の先を見ようと後ろを振り返ると、すぐそこに追っ手の男性が立っていた。


 もう逃げられない。無意識に自覚しているのがなんとなく分かった。じりじりと後退する木田と女性。間合いを詰めるように男性はじりじりと迫ってくる。


「幸運だ。これは神のお告げだ。おいらが今ここでおまいらを殺したところで、死体の処理には困らんねえ。この地震は天災事変天変地異天変地変楽渦幸災対岸火災年災月殃……」男性はぶつぶつと呟いていた。


「どっちにしろ死んでんだね。おいらに切られようが地震で死んでたんだね。どっちでもいいだろなあねえ」


 男性がナイフを胸の前にあげたとき、木田は逃げるしかないと思った。無様な姿見せてもいいから逃げろ。人間生きててなんぼだ。誰の言葉? ああゴールデンスランバー。こないだロードショーでやってたの見たんだ。それで本棚から引っ張り出して読み返したんだ。誰が言ったんだっけ。ああ、青柳正春だ。いや違う。森田森吾――。


 木田は女性の肩を押すように逃げようとした。振り返るな、振り返ったら刺される。いつ刺されるか刺されないかの緊張感の中、木田は追っ手に背を向け続けた。小走りに女性と走り続けた。


 果たして木田が追っ手の男性に切りつけられることはなかった。


 花火の音が聴こえた。その音に浄化されるように、追っ手の男性の雄叫びは木田の耳に届かなかった。颯爽と現れたフードを被った男性が、鹿の角のような刀で彼の背中を切りつけたことで、木田と女性は逃げ(おお)せたこと、それを彼らは知らない。そして、その切り付けられた男の身分が相応に高いこと、それを切りつけた男は知らなかった。その男がいなければ、今頃木田と女性は被害を受けるのを免れなかったはずだ。


 免れる方法はあったのか。追っ手の男性がナイフを胸の前にあげたとき、武術など剣道くらいで、素での武術を体得していない木田でも、「もう死んでもいいから」という覚悟を持って挑めば、ナイフを奪い、相手を威嚇し、女性を逃がす時間ぐらい作れただろうか。やはり、「生きててなんぼだ」と逃げた木田の生きたいと思うバイタリティが、鹿の角のような刀を持った男を呼び込み、彼らを救ったのか。実際のところはよくわからない。


 女性と一緒に逃げる中、木田は、ただそのとき花火の音が聴こえて、空に上がった花火が綺麗だな、と思った。


「花火ってなんで綺麗だと思えるんだろう」子どもが初めて花が綺麗だと口にしたときのような思いに駆られる。


「綺麗だと教えられたからですよ」(ひね)くれた回答だ、と一瞬思ったが、思い直した。


「そうか、だから綺麗なのか」


 最後に思ったのは、この女性はなぜ男に追われていたのだろうということだった。




()(ゆう)さんだっけ?」木田は肩を叩いた女性に向かって訊いた。「はい、もう忘れられたかと思ってました」と、茉優はまんざらでもない表情だった。


「一度お礼が言いたかったんです。誰かに何か言いたいと思うのは私にしては珍しいんですけど。ありがとうございました。それじゃ」


 簡潔にそう言い残して茉優は立ち去った。唐突に現れ、颯爽と去っていく。その横顔が、当時花火が綺麗なのはなぜだろうと話しながら、場違いにも「付き合ってもらえませんか」と彼女に告白したときの横顔と重なり、それを思い出させた。ナンパ目的で後輩と花火大会に訪れたことを思い出し、それが木田が告白した理由のひとつだった。


「ごめんなさい。私、欲がないんで」


 一年前のあの日、茉優は確かにそう言って木田の告白を断った。


 三日前、地元のビュッフェ形式の飲食店に入ったときのことが蘇る。厄日だな、とそのときは思ったが、何か前兆めいたもので、それほど厄日でもなかったのかもしれないと省みる。しかし、もしかしたら彼女は、笑えない洒落(しゃれ)の利いた断り方をしただけかもしれない。そう思い、木田は立ち去ろうとしている茉優を呼び止めた。


「今日は、花火を見に来たんじゃないのか?」


 茉優が振り返る。


「いえ。私、欲がないんで」


 一年越しに、彼女が追われていた理由を知った。髪の長さが木田の知っている写真とは違ったせいで今まで気づかなかったのだろう。


 新津正文、桐谷(きりたに)茉優、二人は日本で初めての間引き人だった。当時、試作品段階だった薬を打たれたことで、欲や感情を失う精度が完全ではなく、たびたび人間らしい感情を抱いたり、誰かに追いかけられると逃げようとする、といったような防衛本能までは制御できない症状がみられていた。という記事を木田は拝見していたのだった。


 昨日、ネットで花火大会の記事を目にしたとき、関連項目にあった記事にも目を通していた。「地震は本当に天災だったのか」大きな見出しと、茉優と追っ手の男性の姿を撮影した写真が載っていた。河川敷から堤防に向かって撮られたその写真は、あの日、木田が見た光景とぴったり重なった。気になったのは、あのとき自分と同じように河川敷に人がいたということだった。周りを見渡したが、近くには誰にもいなかったはずだ。


「あ」


 我に返り、振り向くと、鍋島が夜空を指差していた。その先を目で追うと、星が流れていた。「流れ星?」


「うん。多分。それに流れてない星も見えるよ」

「ああ、確かに。花火ばっかり見てて、忘れてたな」


 打ち上げ花火の裏側には、オリオン座が(はかな)げに光っていた。


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