【最終章】までのモラトリアム
夏祭りの懐かしい匂い。あちこちから粉ものの焦げた香りと、ソースの甘辛い匂いが漂ってくる。屋台の周りでは鉄板を温めるための機械、そのエンジン音が聴こえて五月蠅いというのに、それが風物詩かの様に自然と耳に入ってくる。
浴衣姿、髪飾り。綾なされたウェーブの髪をアップにし、後頭部で止める髪具が提灯の明かりに反射する。かと思えば、草履や下駄を履いた指先のネイルは、誰にも気づかれまいと足元の暗がりに息を潜める。浴衣の女性が足を止め、隣を歩く甚平姿の男性の肩に右手を預けながら、左手で左足の親指と人差し指の間をしきりに確認する。そのときだけスポットライトが当たったかのように盆提灯の明かりが指先のネイルに反射し、煌びやかに映ろう。その風情が、どうも心をくすぐる。
木田は道すがら、そんな光景に目を取られていた。隣を歩く鍋島が何か喋った。しかし耳に入らない。なんせ、夏祭りだ。花火大会だ。鉄板を温める機会のモーター音があちこちから鳴り響いているのだ。盆提灯が一つならまだしも、幾重にも連なって八重の様に明かりを累ね、眩しい。
「ねえ聞いてるの?」しびれを切らした鍋島は、ついにそう言った。
「え、ごめん聞いてなかった」
「もう。そんなんだから最後に花火見に来たのが何年も前とかになっちゃうのよ」
鍋島は、浴衣を着ていなかった。それもそうだろう。家出して、人の家に泊まり、「浴衣買って」なんて強欲な釣り師でもなければ無理な話だ。謙遜上手な鍋島は、浴衣を強請らなかった。強請ってさえいれば買っていたというのが正直なところだが、デニムに白のTシャツ姿の鍋島を見て、悪くない、と思えたのだから、買わなくてよかったと木田は密かに思う。
有数の花火大会なせいか、河川敷の芝生の上は、緑が見えなくなるくらいブルーシートで覆われていた。既に場所取りが何日も前から行われているようで、行き当たりばったりで訪れた人たちは、河原でゆっくり座って、盃でも交わしながら、チューハイでも飲みながら、なんてことはできない。河川敷の上にある通路、屋台を連ねる道の端で立ち見がいいところだ。
「座れそうにないね」鍋島がぽつりと言う。「座って見たかった?」と訊くと、「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど、ほら、わたし、人混みとか嫌いだし、静かに見たいし」と否定される。
その態度と仕草が、照れているように見えたのは盆提灯の明かりのせいだろうか。頬が赤らんでいるのはファンデーションではないのか。盆提灯の橙色の仄かな明かりが、鍋島の横顔を映す。頬だけがほんのり染まり、その他の部分は陰になっていて色を失くしている。
「俺、実は……」そう言いかけたとき、「あっ」と鍋島が呟いた。彼女の瞼はぱっちりと開き、睫毛の長さが嫌に染みる。睫毛と睫毛の間、その瞳に、明るい彩りが宿った。
木田は鍋島の視線の先を見上げた。そこには、大輪の花が咲いている。遅れて音を響かせた轟音が、夏の風物詩とでも言うかのように自然と耳に入る。盆提灯も機械のモーター音もすべてを凌駕する大輪の花が、夜空には上がっていた。
連続して打ちあがる花火。それをじっと木田と鍋島は眺めていた。
そのとき肩を叩かれる。見入っていた木田はびくり、と肩を揺らした。
木田が振り向いたとき、感覚が痺れた――車に乗っているとき右にハンドルを振り切れないでいた。もう逃れられないという瞬間になって、アクセルを踏み込む想像。幾度もしたその想像が蘇り、目の前にいる人間の顔を見て瞬時に「今しかない」と木田に思わせた。




