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万華郷  作者: 面映唯
第一章
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【第一章】遭難

 ベランダのフロアパネルが劣化しているようで、緩やかなしなりを利かせたスキー板のように、端の辺りがはがれかかっていた。はがれかかっているだけではなく、何年も雨風を(しの)いできた賜物か、長方形の両角から内側に侵食するように、深緑の苔のようなカビが広がっている。


 下着のボクサーパンツに、ロング丈の生地の良いTシャツ姿。寝間着姿のまま、閉じられた窓に背を預け、(さん)のでっぱりに腰を落としてしゃがんでいた。自ずと視線は正面の手すり壁に向けられる。ベージュの塗料でコーティングしてあるようだが、こちらもフロアパネル同様、床に近い部分から上へと侵食するように横一線にカビが広がっている。


 携帯用の灰皿を左手に、右の中指と薬指には赤マルを挟んでいた。普段の銘柄が売っていなかったため、昨日渋々買ったものだ。一口吸い、吐き出した後、幾分短くなった煙草の先からのぼる煙が、思いがけず鼻腔を刺した。ツーンとした、思わず鼻をつまみたくなるような痛みは、必要以上にワサビをつけてしまったときの刺激に似ていた。早く収まってくれと懇願するという意味では、キーンと頭を響かせるアイスクリーム頭痛とも似ている。


 (さえぎ)られた視界。目の前にはベージュの手すり壁。その向こうから声がした。手すりから半分頭を出して覗くと、どうやら小学生が家の前の道を歩いているようだった。時間的に下校の最中だろう。赤いランドセルに黄色いヘルメット。この地域の小学生なら見慣れた身なりだ。隣には軽装の三十代前後と(おぼ)しき女性が歩みを揃えている。


「――怖くないの?」

「うん。そんなに」


 女性は小学生に、何に対して怖くないのかと訊いたのだろうか。肝心な主語の部分が上手く聞き取れなかった。恐らく、最近流行っている感染症についてのことだろう。都会で蔓延し、外出を自粛しろというほどの感染症だったが、田舎ではそれほど被害はなかった。それがついに二日前、隣町で感染者が出たのだ。昨日、バイト帰りに足しげく通っているコンビニのレジには、透明なビニールが垂れ下がっていた。飛沫感染の濃厚接触を避ける対策だろう。ついにパチスロの換金所になったか。いや、透明なら刑務所の面会室か。


 そもそも小学生が登校していることに驚きだった。都会の地域では未だ休校が続いていると聞く。


 そこで納得した。女の子の隣を歩いていたのは教員というわけだ。女の子が一人だったからてっきり母親だと思ったが、違った――これは集団下校だ。集団で下校できるほど子どもの数が減ってしまったのは、以前から四つの小学校が合併するという話を耳にしていたので知っている。


 眺めていた二人の背中が建物の陰に隠れると、再び窓に背を預けて桟に腰を下ろした。


 なんだろう。

 どこかほっとしている。

 煙草の鎮静作用だろうか。


 女性と女の子が歩く姿。背が半分近く高い女性は、女の子を見下ろす。女の子は一歩一歩前に出される爪先(つまさき)を眺めながら歩いている。女性が声をかけると女の子は女性を見上げた。


 赤いランドセル。

 黄色いヘルメット。

 側面に張られた黄色いステッカー。

 女性が笑っている。

 呼応するように女の子が笑う。

 女の子の身体は進行方向。

 女性の身体は女の子に。


 ああそうか。これはあの頃に戻りたいっていうノスタルジアだ。懐かしむ気持ちは人の心を安らかにする。同じように流れて道筋を覚えてしまった血液は、黒く変色し、流動的になった。何度も使い続けた油は淀んだ斑を作り、揚げられた惣菜(そうざい)もまた然り。それを滑らかにするのがあの頃はよかった、という懐かしむ心なはずだ。


 ふとしたときに思い出すノスタルジー。ああ、あの頃はよかった。戻りたい。スマホを手に取り両親にメッセージを送る――二日後に届いた包みを開くと、途端に学生時代に戻った。青い表紙。金色の映える漢字が一文字。背表紙に触れたときの上質な手触り。卒業アルバムをめくり、写真に写った幼い頃の笑顔を眺める。自然と口角が上がった。頭の中では発起されて写真が取られたときの映像でいっぱいだ。連想されてあの頃のことを思い出す――。


 写真だけだった。身体全身を生暖かい温もりで満たす、心地良い感情を抱かせてくれるのは。


 ふわっと浮いた。春の(なぎ)がぼさぼさの髪と肌触りの良いTシャツを撫でていった。煙草を一口、と思ったときには、指に挟まれているのはフィルターだけになっていた。およ、と思い、左手に持っていた携帯灰皿の中身を覗くと、こちらも空っぽだった。律儀(りちぎ)に灰まで入れていたというのにすべて飛んでいった。


 火種も、灰も。

 手元に残していたものは飛んで行ってしまった。


 残ったのは、フィルターだけだった。


 まるで意地悪な神様に心だけ奪われたかのようだった。木偶(でく)の坊のように風の行方を眺めていれば、遠く、「あなたの脳味噌の中を全部見てみたい」そう言った懐かしい声が聞こえて、あの頃の自分に帰れないんだということを思い出した。


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