【第三章】十代の心音、傍白
夜九時の臼田駅のホームは、もはや無人駅だった。小海線の列車から、仕事帰りの数人が下りる。最後に列車から降りた林は、それを見ていた。
遮断機の前で立ち止まる。カンカンカンと音が鳴っている。前照灯の明かりが動き出す。列車が目の前を通り過ぎる。数秒して音は鳴り止み、遮断機は上がった。仕事帰りの数人は線路を渡って対面のホームに入り、駅舎の中へ吸い込まれる。
林は列の一番後ろを歩いていた。前を歩くサラリーマンに続く。小さな白熱球が一つだけ付いた駅舎内を抜けた。
外へ出ると、三人の柄の悪い若者がたむろしていた。煙草をふかし、駅前に置かれていた簡素な灰皿に灰を落とす。夜にもかかわらずぎゃははと声を上げて会話する姿は、何とも言えない。
林は彼らの前を通りすがろうとする。じゃれていた若者の一人が、「うるせーよ」と、もう一人の肩を押した。ちょうど通りかかっていた林の肩に、押された若者の背中が接触した。
林は一瞬、態勢を崩した。若者は素直に「わりーね」と声をかけた。しかし、林はそれを無視した。無視したというよりは、聞こえなかったのだ。考え事をしていた林には、声どころか若者たちの姿すら視界に映っていなかった。
癇に障ったのだろう。
「こんな時間に一人で何の用事ですかあー?」
「女に振られたんじゃね」
「しけた面してんなあ」
若者たちはけらけらと笑っている。
しかし、その笑い声ですら林の耳には届いていなかった。
――林が異変に気が付いたのは、三人の若者が、「あいつ耳聴こえねんじゃね?」「ちょっと粋がってんな」「めんどくさいやつ」「暇だしな」そんなことを呟きながら歩み寄って、胸倉を掴まれたちょうどそのときだった。
身体が左に引っ張られる。はっとした林の目の前には、三人の若者がいた。
ニタニタととした口元。目尻に寄った皺とは裏腹に、目玉の中は赤く染まっていた。林は瞬時に思い出した。この目は、人を見下したときの目。自分が優位にいると確信して疑わない目。空高く悠々と旋回を繰り返す鷹が、獲物を見定めて急降下する寸前の目。
やられる――。
若者の一人に胸倉をつかまれても、林の表情は硬かった。強張って口元をぴくぴくと、引き攣らすことはない。所謂無表情というやつだ。これは生まれつきのものだった。笑う、という概念を餓鬼の頃から教わってこなかったのだ。感情を上手く表現できない、下手、まるで能面でも被っているかのように表情が変わらない。実に不気味な人間。
その不気味さが、更に癇に障ったのだろう。若者の胸倉をつかむ手に力が入っていた。
大抵の人間は、自分の弱さを知っている。強者を目の前にしたときは怯えるのが普通だ。顔を引き吊らせて、「ごめんなさい、助けてください」そんな惨めな態度を若者たちは林に対して期待していたのだろうが、林はなんといっても感情を表に出すことが下手なのだ。当然怯えさえ表現できない。
自分が強者だと思い込んでいた若者は、自分の力を誇示するように、ついに拳を振るった。一度で満足しなかったのか、二度三度と続けた。そのたびに林の顔は左に逸れ、首が揺れる。
唇の端に血が滲み始めた。それは、不良ドラマでメイクアーティストの施した力作のようにリアリティのあるものだった。
何度殴られようと、決して林は口を開かなかった。「やめてくれ」と乞うことも、「はっ、その程度か」と煽ることもなかった。その人間味を帯びない不気味さに、若者たちの狂気は次第に引いていった。若者たちにとって、一人の人間を袋叩きにすることが快感なのではなく、泣き苦しんで、「ごめんなさい、ごめんなさい」という情けない面を見ながら、もう一度とどめを刺すように膨れ上がった顔面を殴りつける、これこそが快感なのだ。
若者たちが去り際に落としていった吸い殻が、駅前の駐車場に仰向けになっている林の顔の脇に落ちていた。火が消えていない吸い殻は、ジジジという音とともにフィルターに向かって燃えていく。
「下手にでなきゃ、下手に出なきゃ……」
林はしきりにそんなことを呟いていた。
膨れ上がった瞼。口紅を擦ってしまったような口元の赤。鼻元だけは、血液が滲んでいない。月の光が彼の身体を癒すように照らしている。
その一部始終を物陰で見つめていた男は、踵を返した。




