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高島平の駅に降りたとき、郷愁に似た感情を抱いた。ホームドアが工事中で開けっ放し。一号車を降りると目につく柵。簡素なベンチ。奥に見える一番線の駅舎の強化ガラスの向こうで、パチンコ屋の明かりがモザイクがかかって見える。
木田が本来抱くべき郷愁は、学生時代から就職までを過ごした高島平ではなく、田舎の実家の方のはずだが、どういうわけか、実家よりも高島平の方に愛着があるみたいだ。結婚の挨拶をしに夫の実家まで来た嫁を案内しているかのようだった。駅を出てすぐ見えるコンビニ。よく通ったとはいえ懐かしいという感情はなく、そこにコンビニがあって、対面するようにパチンコ屋があって、入り口に置かれた灰皿の周りで煙草を吸う数人の客がいて、煙草の香りがするのは当然のこと、前提のように捉えられていた。そこが、幼少期に何十年と過ごした実家かのように。
「板橋の花火大会の日だけ、こんな狭い道に人が溢れかえるんだよ」
隣を歩く鍋島は、「知ってる知ってる。一回来たことあるし」と食い気味に聞いていた。
「映画も前に撮ってたっけ。中村文則のやつ。タイトルなんだっけか」
もはや木田の口調は、自分の生まれ育った故郷を自慢するかのようなものになっていた。
クリーニング屋の角を曲がる。奥に牛角の看板が見える。そこまで行かずに、木造の錆びれた居酒屋へと入った。
席は空いていて、待つこともなく通される。壁際の二人席。奥に鍋島が座り、手前に木田は座った。
「何頼むか」
木田は、机上に置かれていた、A4の紙をラミネートしただけのメニューには目もくれず、壁に一つひとつ貼り付けられた、短冊の形をした品書きに目をやっていた。つられて鍋島も壁の品書きを見る。
店員がお通しを持ってやってくる。
「生ビールを」
「あ、同じのを」
メモをした店員は厨房の方へはけていった。
「木田はここに何しに来たの? 三日ってことは友達の家にでも泊まるの?」鍋島が尋ねてくる。木田は、あれ言ってなかったんだっけ、と思った。でもすぐに言っていないことに気が付いた。というよりもまず、高島平まで鍋島がついてくることを想定していなかったのだ。
だから、口から出任せで嘘をついたのだ。
田舎に住んでいて三日だけ東京に行くと。
実際はその逆だ。仕事を辞めて実家に戻っていたのは事実だ。しかし、長居はしていなかった。たった三日、父親に仕事もやめたみたいだし、暮れだから帰ってきたらと言われて帰ってきただけだった。
「ああー、ごめんそれ嘘だわ。本当は東京に住んでる。田舎に三日帰っただけ」
木田は正直に伝えた。鍋島に眉根を潜められるかもしれないと思ったが、酒を飲みに来てしまった手前、これ以上話していればつじつまが合わなくなりそうだと判断し、正直に言った。あれ、おかしくない? つじつまが合わない、となる前に正直に白状してしまった方が、傷も深くなく済み、木田としても、鍋島とこれから何時間話すかわからないが、話しやすいだろうと思った。三人四人で話すならまだしも、二人で来てしまったからには二人で話さなければならない。誤魔化しづらいはずだ。
じゃあなぜ、あのときスーパーの駐車場で態々(わざわざ)嘘をついたのか。
木田は他人に腹の底を晒した試しがなかった。
木田の、嘘をついていた、という告白に鍋島はなんてことのない応対だった。
「そうなんだ。じゃあ、高島平に住んでるってこと?」
「そういうことになるね」
「じゃあやっぱり一緒だね」
鍋島は嬉しそうにはにかむ。
「わたしも木田も三日間実家に帰ってたってことね」
店員が生ビールを持ってきた。二つのジョッキがテーブルに置かれる。二人は互いにジョッキを手にして音を重ねた。ジョッキが当たって鈍い音を響かせる。
一口、二口。
口に含んだ鍋島はテーブルにジョッキを置いた。
「やっぱり一緒だったって言いたいところなんだけど、わたしも一つ言わなきゃいけないことがあります」
「なに」
「わたし、三日間実家に帰ってたっての嘘です。ここ一か月ぐらいは実家に居座ってました」
木田はへえー、と一度は流したものの、それがどういう意味か正確には理解していなかった。木田は嘘をついていて、鍋島も嘘をついていた。頭で整理し始める。俺は仕事を辞めても高島平に住んでいて三日間だけ実家に帰った。でも、鍋島には嘘をついて、実家で暮らしていて三日だけ東京に行くという逆のことを伝えた。鍋島は田舎に住んでいるが、三日だけ実家に帰ってきていると木田に偽った。
ん、ん? と木田は頭を悩ませた。どういうことだ。鍋島は地元に就職したのか? でもここ一か月くらい実家に居座ったって言ってるってことは、あれ、もしかして仕事を辞めたのか? それが本当なら……あれれ、まるで俺と同じような境遇だぞ。でも、鍋島は「やっぱり一緒だったって言いたいところなんだけど――」と言った。そうか。鍋島は俺が東京で仕事をしていると思っているんだ。退職したということは知らない。だから一緒じゃないと俺に伝えようとしたけど、実は一緒で……。
声に出してそんな脳内での整理を伝えはしないが、明らかに困惑しているのが鍋島の目にも見て取れたのだろう。鍋島がにやにやと木田の顔を窺っていた。
「やばい。久々に頭使ってて、思考が追いつかない」
というかまず、木田は純粋に驚いたのだ。自分だけではなく鍋島も嘘をついていたことに。そして、
「一か月実家にいたってことは……仕事は……?」
木田は恐る恐る訊くが、鍋島は「そんな深刻そうな顔しないでよー。そうそう、木田の想像通り、一か月前に仕事辞めちゃったんだ。美容師やってたんだけどちょっと行き違いやらなんやらいろいろあってね」と軽快に言葉を弾ませた。
木田はその言葉を聞いて確信した。自分と鍋島は同じような境遇にいる。似たような境遇だ。親近感を抱く。たまたまスーパーで行き会った旧友が同じ境遇に置かれているなんて夢にも思わない。特に、鍋島に対しては夢のまた夢だった。
「意外だ」
「どうして?」
「授業参観とか、両親揃って来てたから、そんな仕事辞めるとかっていう選択肢の無い真面目な子だって勝手に思ってた」
「あーよく言われる。でも実際はそうでもない。木田は見たことないでしょ? うちの家庭環境とか。外面だけはいいんだよね、うち」
微笑みながらえげつないことを言うものだ。完全に木田のことを皮肉っているが、鍋島の表情からは邪気が感じられない。それも含めて外面がいい家族というべきか。
「まあいろいろあるよね。俺も仕事辞めちゃったし」
ジョッキに口をつけていた鍋島は口を放し、ゲップでもするような勢いで「えっ」と絵に描いたように驚く。
「嘘?! ホントに?」
「これは本当です」
「いやー木田にはさっき嘘ついた前科があるからなー。わたしが仕事辞めたって聞いて、女が弱ってるところに付け入ろうとしてるのかも。信用ならん」
「まあそこは任せるよ。悪いけど人生すべてがコントみたいな人間だから」
「なにそれ」
「俺みたいな人間じゃなければ釣れてるよってこと。嘘でも本当でも女が弱みを見せれば大抵の男は食いついてくるよ。男が嘘ついてたとしてもさ。特に鍋島みたいに童顔で、身体が絞れてるならなおさらね」
「木田、それセクハラ」
「そんなものへの興味はもうどっかに行っちまったよ。欲しいのは絶対的な信用とか承認だけ。そんな能動的でこっちの心情を勘ぐってくれる猫みたいな奴隷、絶対に存在しないってわかってるのにな」
初めてこんなことを口にした。腹の底に沈んでいた本当を、木田は口にしていた。その口にした相手が鍋島。特に苦労もない家庭環境に生まれて自分の中で阻害していた存在が、実は全く違くて、そして今自分と同じような境遇にいる。
木田の中の人間の本能が目覚めかかっているのだろう。共通点の多い鍋島に対して好意を抱き始めている。ロマンチシズムに乗っとるなら、運命の赤い糸の存在が見えかかっている状態だ。でもきっとこの糸は赤くはない。自分の中の誰かがそう揶揄している。恋人みたいな赤い糸などではない、日本の国旗を数秒見つめて白い空間に視点をずらしたときに見える、薄っすらとした補色の青緑の糸。これで繋がっている気がした。




