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万華郷  作者: 面映唯
第二章
12/42

 鍋島と再会するのは、中学卒業以来だと思っていたが、よく考えれば高校以来だった。高校自体は違う学校に通っていたものの、時折顔を合わせることがあった。木田は自転車のサドルの上で、鍋島は農道の歩道のアスファルトの上で。


 木田は高校時代剣道部に所属していた。中学では熱心に取り組み、団体で県大会に出場するくらいまでには本気でやっていた。しかし、高校に入学し、部活動選びの期間に入ると、なぜか剣道部という選択肢が薄れかかっていた。他の部に入りたかったということではなかった。特に興味をそそられるような部活も見当たらなかった。じゃあ入る部活がない。しょうがない、剣道部に入るか、そんな構図にはならなかった。


 中学時代あれだけがむしゃらに取り組んでいた熱量が、引退と同時にぱったりと消えてしまったようだった。高校に入っても続けたい、そんな意思は、まるで自分の中から感じられない。


 特に入りたい部活もないなら、何も入らなければいいじゃないか。新しくできたクラスの友人に言われた。「帰宅部だって立派な部活だぜ」確かに言われてみれば帰宅部でもいい。友人にそう言われるまで、木田の選択肢の中に帰宅部はなかった。


 そうしようと決めて自宅に帰ったちょうどその日の晩ご飯。母親が、「部活は剣道やるの?」と問うてくる。「ああー入んない入んない。帰宅部だ」味噌汁の茶碗片手に、箸を持った右手を左右に振る。


「剣道以外認めないから!」


 突然鳴った怒号に木田は身体を震わせた。味噌汁がたぷんたぷんと揺れる。


 そのとき、母親と木田の温度差に気が付いた。


 自分のちゃらけた態度が癇に障ったのかもしれない。中学時代、木田が熱心に剣道に取り組んでいたのは母親も知っていた。大会が近づけば、放課後に夜遅くまで練習していた。送り迎えは当然のようにしてくれた。学校の武道館が使えないときは、十キロ離れた市の武道館で練習することもあった。予約やら送り迎え、母親は母親で自分の仕事があっただろうに、何も言わずに木田の部活動に付き合ってくれていた。それはきっと、木田の中に「熱量」を感じたからだろう。そういう人の熱意、勢い、形相、迫力は伝播するものだ。


 木田としては煮え切らなかったが、結果、高校でも剣道部に入ることとなった。確かに母親には悪いことをした。でも、剣道部に入るからといって中学時代のような熱量が返ってくるわけでもなかった。木田の中から剣道への熱は冷え切っていて感じられない。完全に消失してしまっていた。そんな所謂(いわゆる)やる気のない状態で部に所属していても時間の無駄で、他の部員にも迷惑で――そんなことを考えながら曲がりなりにも真面目に繕って励んでいたら、いつの間にか引退までに至っていた。


 高校でも中学同様に、市の武道館を使うことが多々あった。大会前や土日、学校の武道室よりは市の武道館の方が綺麗で使い勝手がいいのは誰が見ても月と(すっぽん)なので、同じ剣道部員も市の武道館で練習するときは気合が入っていた。その気合を逆撫でしないようにと必死に繕うのは、所謂やる気がないけど場の雰囲気は保ちたい平和主義の人間にすれば、そこそこの根気がいる。学校の放課後の練習で偶に遅刻するぐらいは、帰りのホームルームが遅れただのなんだのと言い逃れできるからいいとして、土曜や日曜の早めに準備していれば遅れようのない日の練習の遅刻はタブーだった。


 その頃、木田の両親は土日も働くようになっていた。その分、平日に休みがあるため休みの日は学校に迎えに来てくれることもあった。


 要するに、土日の市の武道館での練習は自分で行くしかないのだ。十キロある市の武道館まで安いママチャリを漕ぐことを余儀なくされた。


 その道中で偶に見かけるのが鍋島だった。スーパーの裏を長く続く農道は、武道館までの道のりにつながっていた。


 最初の鍋島を見かけたのは高校一年の夏だった。


 土日は午後の練習が多く、十三時に始まる部活動。市の武道館まで十キロの道のり。木田の自宅からは最低でも三十分はかかる。その日は珍しくうたた寝していまい、起きたのが十二時十分、自宅を出たのは十二時半だった。いつもなら余裕をもって十二時十分過ぎには出ていたのだが、この日起きた時間はいつもなら自宅を出る時間だった。


 木田は焦った。すぐに指定ジャージに着替えて朝飯も食べずに家を出た。道着は本来自分のものを使うべきで、学校に寄って大きな巾着を抱えながらママチャリを漕ぐのだが、この日はそんなことしている余裕はなかった。以前、忘れた人が武道館の物を借りていたことを思い出し、遅れるよりは「あ、やべ! 忘れました」なんて誤魔化した方がましだと思った。時間ギリギリに着くだろうことは目に見えていたので、忙しなく武道館に入って、焦って来た風を装えばそんなにおかしいことはないと、そんなこれから三十分後の出来事を自転車を漕ぎながら企てた。それよりも、遅刻するかしないかが問題だった。一、二分なら許容範囲で、先輩も中学とは違ってそれほど厳しい人たちではないため大丈夫だろうが、十分も遅れてしまえばただの生活態度のなっていない生半可な気持ちで部活動に取り組む遅刻犯になってしまう。それだけは免れなければならない。


 自転車を漕ぐが、この日風が吹いていていつもより進まない感覚があった。この家の辺りで十二時四十分なら余裕がある、ギリギリだ、そういう見当は何度か武道館に通っているのでわかる。この日はギリギリどころか数分遅れるくらいで、おまけに風まで吹いている。漕いでも進みづらいどころか、漕げば漕ぐほどいつもより太腿、(ふくら)(はぎ)の乳酸、疲労が溜まってくる。


 ちょうど農道に差し掛かって、急がなければとせっせと漕いでいるときだった。奥の沿道で「木田だー」という声がした。目を凝らすと、鍋島だった。


 そのときの鍋島は、中学時代と変わらず朗らかな態度だった。「木田だー」という声とともに少し跳ねながら手を振っている。いきなりのことで返答に困った木田の頭は真っ白だった。彼女との距離が狭まるにつれて、どうしようどうしようという思いが募る。ちょうど彼女の横を通り過ぎるとき、木田はサドルの上で軽くお辞儀をしていた。


 鍋島を追い抜かすように通り過ぎた後、今まで急いでいたのが馬鹿だったかのように、時間に追われていることを忘れていた。久々に見た、鍋島。きっと中学時代陸上部だったから、高校でも陸上をやっていて、午前の練習を終えて帰ってくるところだったのだろう。家この辺なのかな。自転車じゃなくて徒歩だったのは、きっと体力づくりなのかもしれない。彼女が長距離なのか短距離なのか、それとも投擲(とうてき)や跳躍競技なのかは検討がつかなかった。


 いつの間にか太腿、脹脛の乳酸も消えていて、自転車のペダルがくるくると回り、向かい風に当てられている感覚もなくなっていた。ただ、今さっき起きた予想していなかった鍋島との一瞬の掛け合い。それがどこか大切にしなければならない掛け合いのような気がして、武道館に着くまでのほとんどを鍋島について考えることになった。中学時代の鍋島と木田が話した記憶。それを掘り起こし、こんなことあったな、あのとき鍋島が笑ってたな、俺は口下手で素っ気なかったな、そんなことばかり思い出していた。結果、その日の部活動には二分遅れた。二分で済んだことに「俺、天才だわ」と心の中で呟いたのち、遅れたにもかかわらず、遅れたことにはならなかったのだった。木田が武道館に着いたとき、入り口付近で部員たちがたむろしていた。幸いなのか災いなのか、武道館の鍵を持ってくるはずの部長がその鍵を忘れてしまったらしい。顧問も珍しく十五分遅刻してきた。同じ一年の仲のいい友人は、「木田、遅刻したのが今日でよかったな」


 友人は見透かしたように、そして隠れるように笑っていた。


 十五分遅れてきた顧問が三年の先輩と数分議論した結果、「今日は休み!」となった。


 せっせと漕いできた農道を再び戻ることになった。


 それからも、何度か農道を通って武道館に行くことがあった。その多くが土日。午前中に部活があることもあった。そんな午前中でさえ、農道を通りかかると鍋島のことを思い出す。今日はいないよな、さすがに。そうやって毎度毎度鍋島のことを考えながら農道を通り過ぎることが多くなって、どうせいないだろう、ぐらいにしか思わなくなって、時間に遅れそうだから急がなきゃ、そんなことを思うようになった頃に、「木田だー」という声が耳に入ってくる。


 そんな時代が木田にもあった。


 いつからだ。懐かしさを懐かしいと捉えなくなったのは。

 いつからだ。時間に追われるようになったのは。


 ふと新幹線の窓に視線を寄せると、鍋島は窓の淵に腕を乗せて、その腕の上に頭を乗せていた。瞼が閉じられている。


 ふと視線を上げると、窓には自分と鍋島の姿が映っていた。鍋島は寝ていて、木田は起きていて、新幹線の座席の上に二人はいる。農道の上でも自転車のサドルの上でもない。


 そのとき、ふふっと笑ってしまった自分が、なぜなのかよくわからなかった。


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