海になる(Z)
海岸沿いのアスファルトの道の上をずっと歩いていた。
誰かに歩かさせられているわけではなく、最終的には自らの意志と選択で、私はそこを歩いていた。「知ってる?波の音ってさ……」波の音に気づいて、迷うことなく砂浜に降りた。降りなければ、ずっと残る、何かを「しなかった後悔」が、その時はとても嫌いだったから。波の音に、海に、近づく程に、街灯は遠く、暗闇に消えてしまいそうになる私を、橙色の月が一人煌々照らす。足を踏む度にヒールは砂に飲み込まれる。それにしても、海に月が浮かんでいるだなんて知らなかった。というよりも、教えてくれなかった。知らなかったのだろうか、そして今も知らないでいるのだろうか。それはつまり、知らずに済めばよかったものなのか。そんなことには気づきもしないで、私は砂浜の色の境目、波が届かないところに腰を下ろした。
ワカメとかもずくとか、海水をたっぷり吸い込んでふにゃふにゃになった海藻。湿った小枝。死んだクラゲ。体操座りをする私の前に色々なものが運ばれてきては、またどこかへ運ばれてゆく。ボロボロになった発泡スチロールの破片。泥まみれのペットボトルのキャップは、ところどころ欠けている。ガラスのカケラ。小さいビーチサンダルの片っぽ。考えてみる。波にそれを奪われた幼子は、泣いただろうか。誰かに抱き上げられ、新しいのを買ってあげるからと言われても、あれがよかった、ぼくはあれがよかったんだと泣きわめき続けただろうか。わめき疲れて、帰路には眠りこけただろうか。それを誰かが微笑ましく見つめていただろうか。
もしくは、片っぽだけ残ったサンダルを見て、こっちもいらないやと、もう一方も脱ぎ捨ててしまっただろうか。それを見た人々は笑い出し、誰かが私もサンダルいらないやと言って、じゃあ僕も私も、俺もと続き、みんなが裸足になって、砂浜を駆け回っただろうか。
もしも私がその場にいたら、サンダルを脱がないだろうと思った。裸足で砂浜を歩くのは怖いから。
それはたぶん、ピンピン虫が足を這っていたこととか、木くずが刺さって痛かったとか、砂浜が、足洗い場までの道中にあるアスファルトが、鉄板のように熱かったとか、そういうことのせい。砂浜の温度、感触。地面の温度、感触。外の記憶や感覚は、いつの間にかずいぶん遠くにあるようだ。
それとも。
いや、とにかく。それらを忘れてしまっても、触れられなくても。全部そういうことのせいにしてしまった私にも、波の音は届いた。
「k…...よ」
すぐに波の音にかき消された。けれど人の声が聞こえたような気がした。
「kっ...おい...eよ」
やっぱり、声がきこえる。子どもの、知らない子どもの声だ。間違いない。あたりを見渡してみたが、この海辺には私以外誰もいない。
「こっちにおいでよ」
と誰かが囁いた、気がした。もう一度見渡す。けれど、この地平線にいるのはやはり私だけで、子どもどころか誰も何もいない。あるのは私と、私の心臓と同じリズムを打ち続ける波だけ。だけど、やっぱりまた誰かが囁いた。
「はやくしないと、あなたのだいじなくつがぬれてしまうよ」
途端に波が強くなった。慌てて腕をぎゅっとして、足を引く。かろうじてパンプスの先の方だけを海水が撫でた。片方の足先の裏に確かな水の感触を感じた。あぐらに座り直して足をひっくり返す。見ると、親指のあたりがすり減って、その真ん中あたりにはぽっかりと穴が空いていた。足とかパンプスとかを何気なく見ていると、社会人になって間もない頃の出来事を思い出す。下り坂を走って、半日立って歩き回った日、私は0.5センチサイズを間違ったヒールを履いていた。家に帰って見てみると、小指の爪が剥がれかけ、そして黒く内出血していた。悲しみ、苛立ち、それよりも。祖母の、もうないんじゃないかっていうくらい小さすぎた小指の爪を、父のいつも黒く内出血していた手の指の爪を思い出していた。すっかり哀らしくなった私の小指、湯船でしっかり温めてあげた。なんなんだ、女はヒールを履く、これって一体なんなんだ。だけどなんだかんだ、良く見られたい時には私はヒールを履く。ヒールは高い方が好みだし、それにブーツも好きだ。底は厚ければ厚いほどかわいいのだ。と言っても実際は、身長が高くなりすぎないように低い底のブーツを選んだ。しかし、そんなブーツでも、そしてそれが履く度に豆ができるようなものであっても私は履き続けた。豆ができるので2日連続では履けないが、しかし。それは合っていない靴を履いていただけのことかもしれない。それだけのことかもしれないし、それが全てかもしれない。ああ、そういえば。あの日もそうだった。「良く見られたい日」だったのだ。だから、普段どおりにスニーカーを履けばよかったものを、わざわざサイズ違いのヒールを、まあいっかなんて言って私は履いた。実家に帰省していたので、母のヒールを履いたのだ。だから、下り坂の途中で激痛が走ったのに、しばらく履いたままにしていた。都合の良いことだけを覚えているし、都合の悪いことはすぐに忘れてしまうようにできている。よくできている。
「じょうぶにできているくつにあなをあけるなんて、どんなあしなのさ」
私は片方の靴を脱ぐ。ナイロンの靴下も脱いでパンプスの中にしまい、そっと足をおろす。砂浜はひんやりしていた。さっきよりも大きくなった波が、足首に触れる。ズボンの裾がすっかり濡れてしまった。もう全部どうでもよくなって、スーツを全部着たまま、仰向けになってざぶんと飛び込んだ。
誰かの声が脳内に直接響く。かわいらしい、子どもの声……。いや、違う。悪魔の声だ。だから戻らなきゃ、早く戻って靴を履かなきゃって。今なら分かるけど。だけど、空をぼんやり眺めていた私は、それまででいちばん大きな、天まで届きそうなくらい大きな波にあっというまに飲み込まれた。波の中にゆれる月は、これまでに見た何よりも光っていた。掴めそうな気がして、ゆらめく月に手を伸ばす。月は当たり前に指の間をするりと抜ける。そうだよな、届くわけはないんだよな、なんて思いながら、また手を伸ばす、手を伸ばしながら、私はこの声を知っていることを思い出した。