急上昇
「ドーバー駅に行く無料バスが出るのはここですか?」
千沙は辺りを見廻し、一番土地鑑のありそうな人に話しかけた。この寒いのにコートも着ずセーターでふらりとフランスに行ってきました、いつもやっていることです、という立ち姿をした人。
それがネイビーのセーターにハニーキャットブーツの男性だった。
「ああ、5分もしたら来るだろうからここらにいればいい」
菅原文太さんとギリシャ美人を祖父母に持っていそうな大きな目にスッとした鼻筋。見事に色白で、ジェルで立てた短い黒髪。スリムで小柄、日本のメンズLサイズくらい。細身と思ったジーンズはストレートで、細いのは中の脚のほうだ。
英語は特に訛りを感じなかったからイギリス人だろうけれど、ハーフかクォーターか何人のミックスか全く予想のつかないミステリアスさ。
年の頃は30代、千沙と同じくらい。
バス遅いなと思いながら、ちらちらとその人のほうを窺い見た。彼も乗る様子だ。彼がいる限りバスは来る。トイレに行った間に乗り遅れたわけでもない。
すると男はまたすっと近づいて来て、
「5分って言ったけど10分かもしれない」
と早口に告げるとまた遠ざかった。
千沙は俯いて、肩を震わせた。たぶんフランスからこっち、笑ったのは久々だったのだろう。「なんて律義なひと」という言葉が心に浮かんでいた。
下を向いていて気付くのが遅れたが、その男はまた近寄ってきた。
「カムウィズミー。カモン」
「え〜????」
男は千沙が聞き取れないことを早口で捲し立てて「ハリーアップ」と言う。
「ついて行っていいの? 何なの、これ。ナンパ? どっか連れて行かれちゃう? 売られる? もし路地裏連れ込まれても私お腹壊してて、今お相手はちょっとできかねる〜」
などと益体もない日本語が千沙の脳内を巡っていたが、足はなぜかその男の後を追った。
「こっち、こっち、カモン」
洋風菅原文太がほとんど千沙の腕を引くようにして連れていったのは、タクシー乗り場だった。
「ドーバーステーション、プリーズ」
男は隣に乗り込んで、運転手さんにそう言ってから千沙に話しかけた。
「ロンドンに行くんじゃないか?」
「イエス」
「じゃ、着いたらすぐ車降りて切符を買う。ロンドン行き最終だから、いいな?」
「きっぷ、買う、イエス」
千沙はよくわからないまま復唱した。
見覚えのあるドーバー駅の前にタクシーが着き、男がタクシー代を払おうとするので自分も出そうとしたら、「切符!」と怒られた。
千沙は駅舎に入り窓口に並ぶ。3人ほど先客があったが、電車には間に合った。
「買えた? よかった。ロンドン行き最終だって言っただろう? 逃したらどうするんだ?」
男はまだぶつぶつ言っている。
「ドーバーで泊まってもいいって思ってたもん、イギリスに帰ってこれたからそれだけでよかったの」と言いたかったが千沙はてんで本調子じゃない。
頭の動作言語はいつも日本語で、アウトプットはまだ仏語2割英語1割程度。英語を浴びせかけられてもすっとは答えられない。
寒いホームで咳き込む千沙に男は「体調悪いの?」と訊いた。
「うん、ブロンシット、えっと英語で何だっけ?」
「shit? ブロンシット、ブロンカイティース。気管支炎か」
あ、この人仏語に慣れてる、と千沙は感じ取った。
ロンドンへの最終電車はガラガラだが温かかった。千沙はやっと人心地ついた気がする。四人席の向かいに座った男は見た目よりも愛嬌のある性格らしく、相手を打ち解けさせようとすれば優しくも話せるようだった。ほとんど命令形で港から拉致られた気がしていた。
男はカレーの街でバーを営むフランス人の友達に会いに行った帰りだという。千沙にロンドンで何をしているのか訊いた。
「ガーデニングの勉強をしている」と答えると「自分もロンドン勤務だから会えるかもね」と笑った。
千沙は「あ、誘われてる?」とぼうっと考えた。
だから次の質問の「ロンドンのどこに住んでるの? 今日ちゃんと下宿まで帰れるの?」にはぼかした返事をした。
「うん、大丈夫、最終遅いから。えっと、北の方?」
疑問形にしたのにすかさず男が突いてくる。
「エンフィールドじゃない?」
千沙は驚いて首を細かく振った、らしい。「う、うん、そう」
後の報告によると、園芸学校がそこらにあることを同僚から聞いていただけの当てずっぽう。
「聞いていいのかどうかよくわからないんだけど、もしかしてハーフ? もともと、何系人?」
千沙の失礼極まりない質問に男はにこっとして、
「アイルランドとマレーシアじゃないかって言われてる。でも本当のところはわからん。生みの親を知らないから」
と、さらりと答えた。
相手の潔さに千沙は言葉を失くした。
「明日、29日は出勤なんだけど気が向いたら電話して。オレ、次の駅で降りるから」
目の前で書いていたメモには律義な字で名前と家電があった。
「え、次の駅でもう降りちゃうの?」
千沙は焦って、一瞬だけ躊躇して、ケー番わざと間違えようか千分の1秒だけ迷って、素直に自分の番号を渡すことにした。
「今日は本当にどうもありがとう。助かりました」
とはにかんで。
翌日、下宿の三階に住む仲良しの大家さんは、予定より早く戻った千沙に驚き心配した。
「外出るのつらいなら要るもの言って。買ってくるから。自炊はできる?」
千沙は食欲がないからとりあえず、牛乳とパンだけ買ってもらって寝ていた。
思い返せば自分が電車の駅もないフランスの村から、昨日のうちにこの下宿まで戻ってこれたのは奇跡に近い。
実際、よくやったと思う。必死なときは相手に言葉が通じるかどうか悩まないから、なぜかうまく事が運ぶ。窮すれば通ず。言葉がどう間違っていようと、必死さは説得力になるのかもしれない。
――あのひとのおかげだ。
とは思ったけれど、まずは元気にならなければお礼のしようもない。
もらったメモはパスポートカバーに挟んだまま。
夕方になってホウレンソウが食べたい気がした。年末だし小さな店は閉じてしまうかもしれない上に、遠くの大型スーパーに行く体力はない。今のうちにジャガイモとバナナくらいは買っておこうと温かく着こんで近所の八百屋に出かけた。
駅の近くの花屋の前で携帯が鳴った。すぐには誰かわからなかった。
「昨日無事帰れた? 明日から2日まで休みになったから、遊びに来ないか? うちでワイン飲みながらまったりテレビ観る年越しもいいんじゃない? オレ料理好きだから作るよ?」
あのひとだった。
「え、でも遊びにって、泊まりってわけには……」
「面倒みてやるって。養生しなきゃだろ? それともそっちに誰かいるのか?」
「あ、大家さんが買い物はしてくれるって……」
「来いよ。食べれる物作ってやるから……。うちのフラットふた部屋あるから寝るのは別にできるから」
千沙はこの電話がとても嬉しかった記憶がある。冬の残照を浴びながら道端でにやけていたような。
「大家さんに手間をかけるのは申し訳なくても、もしあのひとが私の彼氏になってくれるなら、少々面倒かけても、いいよね?」という女らしい見事な打算が効いている。その上、「別々の部屋で寝る。お友達から始めましょって言える」という極上の建前つき。
下宿に帰って、千沙が「彼氏候補にお世話になってみる」と言ったら大家さんが目を白黒させた。
彼氏本人は後になって「実はほんとに来るとは思ってなかったんだ」と述懐した。
2000年12月30日、千沙はソファに座り、包丁を使う男の背中に見惚れていた。キッチンは共用なので、下ごしらえをリビングのテーブルで全部してから調理してくるという。
男の横に小さなテレビ、千沙の手には赤ワイン。
胃に良いからと具の少ないミネストローネがまず出てきた。メインのメニューが何だったのか、千沙はもう思い出せない。
食後ソファに並んで座り、ふたりでワインを飲み続けた。
千沙はなぜ気管支炎になったかから、その後のフランスでのできごとをぽつぽつ話した。
「私ってそんなに嫌な子かな? 一緒に居てどう思う? 看病するのも嫌なほど邪魔だったのかな? 今まであんなに冷たくされたことない。日本でもフランスでもイギリスでも。どうしてだったんだろう? どうして……?」
泣き上戸の千沙は酒が回ってか感極まってか、もう訳わからないことを喚いて堰が切ったように涙していた。
男は「さあ、どうしてかな……」と呟いてそっと唇を合わせた。でろんともたれかかった千沙の耳に、
「旦那盗られるとでも思ったんじゃないか?」と囁いた。
「ふぇ? 嫉妬?」
「そう思ってろ、もう会う必要もない。オレがいればいいだろ?」
夜も更けて、部屋はふたつあってもベッドはひとつだけ、ソファで寝るからいいという男に、「ソファじゃ寒い。ベッドに来て。カムウィズミー。カモン」と言って手を引いたのは千沙のほうだった。
―ちゃんちゃん―
さてこのカップルは、この冬、出会って19回目のクリスマスを仲良く過ごし、初夏には結婚18年を迎えます。自他ともに認めるリア充のようです。
リア充はリスクなしにかち取ることはできないのかもしれませんが、かなり危ない橋を渡っていますので、良い子の皆さんは真似をしないでください。
作者は……責任を負いかねます、です。
びびっと来ちゃったんですよ、このひとだなって。
ご高覧ありがとうございました。