落ちてきた天の川
ある夜、天の川が空から落ちてきた。りん子が見た時には、空には水滴ひとつ残っていなかった。
天気予報によると、天の川は数日前から悪事を企んでいたという。他の銀河を乗っ取ったり、小惑星を盗んで食べたり、そんなことばかり考えていたので、うっかり重力に逆らうのを忘れてしまったらしい。
「天の川が落ちても何ひとつ問題ありません」
お天気お兄さんはきっぱりと言ったけれど、りん子は落ち着かない。天の川がないと、夜空はぽっかり暗闇だ。まばらに光っている星も、なんだかみすぼらしく見える。
「やっぱり戻ってもらわなきゃ」
りん子は薄手のカーディガンを羽織り、アパートの廊下に出た。すると早速、天の川の星がひとつ転がっていた。
「よお、こんな夜に散歩かい」
星は暗いオレンジ色で、とても醜い顔をしていた。目は細く、頬はげっそりとこけ、分厚い唇の周りには無精ひげまである。歪んだラグビーボール型の体に、枝のような手足がついている。こんなものが夜空に散らばっていたのかと思うと、心底がっかりした。
「さっさと空に戻りなさいよ。星は離れて見るものだって思い知らされたわ」
「戻ってやってもいいけどよ、これからは観覧料を取ろうと思うんだ。一晩五百円、雨の日は半額。そこらのプラネタリウムより手頃だろ?」
「図々しいこと言ってんじゃないわよ」
その時、下から叫び声が聞こえた。りん子は階段を走り下り、アパートの前の道に出た。思った通り、道は星でごった返していた。星たちはコンビニ帰りの人からポテトチップを奪ったり、女性の足に噛みついてストッキングを破ったり、薄毛の人の頭の上でこれ見よがしに光ったりしている。
「あいつら、どうしようもない悪たれだわ」
道に座って煙草を吸っている星もいる。寝転がってゲームをしたり、グラビア雑誌を見てニヤニヤしている星もいる。揃いも揃ってみんな醜い。
「ろくでもないわね。もう帰ろうっと」
「あ、じゃあ僕も」
突然の声に、りん子は驚いて振り返った。まるで闇の中から生えてきたように、若い男がそばに立っていた。濃紺の帽子に同じ色のケープをまとい、髪と肩の周りには明るい水滴をまとっている。
「誰、あんた」
「いい知らせを持ってきたよ。天の川がなければ、僕の家はりん子の隣になるんだ」
男は笑顔で言った。水滴がふわふわと漂い、アーモンド形の瞳に映っている。
りん子は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「隣に住むからよろしくねって意味」
にひひひ、と星たちが歯を見せて笑った。
男は本当に、次の日からりん子の隣の部屋に住んでいた。荷物を運び込むところも、引っ越し蕎麦を配るところも見なかったが、当たり前のようにそこにいた。
「ドローンでも使ったのかしら」
男が布団を干しに廊下へ出てきた時、りん子はちらっと部屋を覗いた。果物のような甘い香りがして、水の流れる音がした。同じアパートの一室なのに、緑が厚く茂り、日まで差している。
思わず引き込まれそうになったが、踏みとどまった。よくわからないけれど、入ってはいけないような気がしたのだ。
天の川の星たちは、昼夜問わず道にはびこっている。そのことにも慣れてしまった。
「なあなあ、地球人はどうして空なんか見るんだい」
「天気なんか気にして心配の無駄遣いじゃないか」
思わず言い返したくなる時はあるが、ここは我慢だ。体当たりしてくる星を飛び越え、頭の上に落ちてくるのをかわし、背後から狙ってくれば容赦なく蹴りをお見舞いする。
「上手になったね」
隣の部屋の男は一度も天の川に襲われていない。絶対に怪しいと思ったが、避け方を教えてくれたのもこの男だった。
男はなぜかりん子の好きなものを知っていて、ほうじ茶とゆずあんぱんを大量に買って来たり、隣町の焼き鳥祭りに連れていってくれたりした。
「りん子の部屋って殺風景だよね。このへんに井戸とか掘ったら?」
三時のお茶に呼んだ時は、危うくテーブルの下を電動ドリルで掘られそうになった。
スイカやカボチャの苗を部屋中に置かれたり、リスやネズミを放されたりもした。
りん子はそのたびに怒ったが、男はまったく気にしていなかった。
天の川の星たちは、だらだらと寝ていることが多くなった。それもそのはず、この時期の日本の暑さといったら、夜になってもオーブンの中にいるようなのだ。
「あいつらが悪いのよ。これだけ人口密度が上がれば暑くもなるわ」
そうはいっても、直接文句を言いに行く気にはなれなかった。りん子はベランダに出て、真っ黒な夜空を眺めた。遠く、白く、淡い流れを頭に描いても、深い闇に吸い込まれていく。空はどこまでも続いている。全ての星が落ちても、地球が焼け焦げても、きっと続いている。
「帰りたい?」
隣のベランダから、男が言った。まるで暑さを感じていないように、ケープが風にはためいている。深い色の瞳が、新しい星のようにりん子を見ている。
「帰るって、私の家はここよ」
「ここじゃなくて、もっと涼しいところに」
「涼しいところ?」
男は空を指さした。つうっと一筋、雨のしずくが落ちてくる。追いかけるように、後から後から雨が降る。透き通ったしずくの向こうに、緑の庭と川の流れが見えた。深い井戸と色とりどりの金魚草、野菜畑も見えた。りん子は手すりから乗り出した。あそこへ行きたい、と一瞬だけ思った。
その時、ざわざわと何かが一斉に動く音がした。下を見ると、雨に洗われた星たちが白く光り、浮かび上がるところだった。
その美しさに、りん子は目を疑った。げっそりとしていた顔には明るい笑みがこぼれ、手足は銀の糸に、輪郭は滑らかな球状に変わっている。
「楽しかった」
「また来ようね」
「今度はフランスがいいね」
甘い声でささやき合いながら、星たちが空へ帰っていく。ふと横を見ると、男もベランダから数センチ足を浮かせていた。
「ねえ、りん子もあっちに住もう。おいしい水もあるし、焼き鳥もパンも安いよ」
「どれくらい安いの?」
「天の川ペイで決済すれば20パーセント還元」
その程度で移住するわけにはいかない。どうせ最初の一年だけか、他の有料サービスも一緒に利用させられるに決まっている。
「来ないの?」
男はベランダを離れ、雨の糸に吊り上げられるように浮かんだ。途端に雨が激しく降り始め、みるみるうちに男の姿がぼやけていく。
りん子はカーディガンを脱ぎ、男に投げた。カーディガンは風を含み、羽衣のように大きく伸びて広がった。
「ありがとう。来年は絶対来て。銀河対抗オリンピックと雲ガエル叩き大会があるから」
男はカーディガンを頭からかぶり、雨を弾き飛ばしながら空へ向かっていった。星はぶつかり合ったり離れたりしながら、男に吸い寄せられてカーディガンの模様になった。星を吸い込んだカーディガンは、さらに大きく長くなった。
雨と星と、カーディガンのはためきが、りん子の目の中をいっぱいにした。
男は手を振り、夜の中に溶けて消えた。その笑顔をりん子は最後まで見ていたはずなのに、まばたきをするたびに残像が薄れていく。
「どうして落ちてきたの?」
問いかけた言葉も雨に消された。きらきら光って見えるのは雨のしずく。白く揺れているのは雲と霧。飛んでいきたいと思うのは、風の気まぐれ。
りん子は濡れるのも構わず、ベランダに立っていた。しずくが髪を滑り落ち、服の中を通り抜けていく。遠い昔の空から降ってくるように、雨は記憶を運んでいく。洗い流して持ち去り、そしてまたいつか帰ってくる。
やがて雨は上がり、空には星がまたたき始めた。
「一つ、二つ……わあ、すごい」
りん子は指でたどるのをやめ、上体を反らして真上を見た。柔らかな布のように涼しげに、天の川が浮かんでいる。手を伸ばせばさわれそうなほど、くっきりと白く見えた。
「もっと近くにあったら、このへんも少しは涼しくなるんじゃないかしら」
天の川の星たちが一斉にきらめき、にひひひ、と笑ったように見えた。