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ボヤ騒ぎの中学校

 初めに「異変」に気が付いたのは大河だった。

「何か、焦げ臭いにおいがしない?」

「別に」

 と奈月ちゃんが返事をする。ぼくも気のせいだと思った。ところが、西階段を昇るうちに、ぼくも異臭に気が付いた。紙が焼けるようなにおいがするのだ。

「火事かな」

「まさか」

 軽く一蹴した奈月ちゃんは、二階に差し掛かった途端、その足を止めた。

「まさか!」

 奈月ちゃんが鉄砲玉のように飛び出した。ぼくらもその後を追った。

奈月ちゃんのキャメルの背中、廊下を蹴る靴音。腹の底が冷えて落ち着かない、込み上げる苦さをのみこんだ。

奈月ちゃんが部室の扉を勢いよく開いた。黒い煙がどっと室外に溢れ出てくる。やっと部室にたどり着いたぼくの目に入ってきたのは、日中には不自然なほど明るい焔をあげて燃え上がるアイロン台の影だった。

 火はまるで意志を持っているかのようにうねり、めらめらと踊りながら、今にも辺りのものを呑み込もうとしている。

「水、いや消火器を持ってきて、早く!」

 奈月ちゃんが叫んだ。

「布があるから火事になっちゃう!」

 やにわに大河が走り出した。その間にも黒い煙がどんどん廊下に流れ出していく。「火事だ!」と叫ぶ大河の声が聞こえた。奈月ちゃんがセーターを脱いでアイロン台に近づこうとした、その時だった。

「馬鹿!」

 という大声がして、突然目の前が真っ白になった。

煙越しの光は、何だか影絵でも見ているかのようにどこか現実味がなかった。化け物のように揺らめいていた火は、煙の向こうで少しずつ小さくなり、やがて見えなくなったが、その人はホースをアイロン台に向け続けていた。消化剤の噴出が治まったとき、ぼくは初めて、肩で息をしているその人の顔を見た。

彼女は志村先生という、今年入ってきたばかりの若い家庭科の先生だった。いつも目の下に隈を作って怠そうな顔をしている印象が強くて、咄嗟に消火器を持ってきて火を消すような行動力のある人物像とはなかなか結び付かなかった。

「消えた……ね」

 志村先生が呟いた。ぼくは何を言っていいのかわからずに黙り込んだ。

「どうしたんです、志村先生」

 学年主任の佐藤先生がやってきた。いつの間にか地学部の部室の周りには人だかりができていて、その隙間から大河が少し居心地の悪そうな顔をして覗き込んでいた。

「ボヤが起こったようです。火は消し止めましたが、念のために消防署の方にも連絡をしてもらえませんか」

 志村先生が毅然とした声で言った。輪の端にいた先生が職員室に向かって走り出す。

 佐藤先生はセーターを握りしめたまま床に座り込んでいる奈月ちゃんと、ぼくを一瞥して、「またお前たちか」とでも言いたげな顔をしたので、ぼくは居たたまれなくなってそっと目を逸らした。先生の視線が、見えない針になって体の表面に刺さる。肩が、背中がじんわりと熱い。

「どうして火が出たんだ、大岡。今井」

 佐藤先生の声は淡々としていたけれど、ぼくは言外にある断罪のにおいを感じずにはいられなかった。奈月ちゃんの手がセーターの裾をぎゅっと握りしめる。

「責めているわけじゃないんだ。ただ、事情を説明してくれないことには先生たちも対処のしようがない」

「……知らない」

 奈月ちゃんが俯いたままぽつり、と呟いた。実際にそうとしか言いようがなかったけれど、佐藤先生はそれを反抗と取ったらしい。

「自分がどんなことをしたのかわかっているのか? 一歩間違えたら火事になるところだったんだぞ!」

「知らない、って言っているだろ!」

 奈月ちゃんが吠えた。目が鷹のように鋭く光り、ぎらぎらと燃えている。

「アイロン台が燃えたようなので、アイロン火災かと思います」

 横から志村先生が言った。

「アイロンだって? そんなものがどうしてこんなところにあるんだ」

 怪訝そうな佐藤先生の声の下で、奈月ちゃんは露骨に顔をしかめて溜息をつく。

「その辺りは……私が大岡さんたちから話を聞いてみます」

 だんまりを決め込んだ奈月ちゃんの代わりに志村先生が応えた

「私、一応は地学部の顧問なので」

 それを聞いて、ぼくも奈月ちゃんも思わず志村先生を見た。そんな話は聞いたことがない。

「いえ、話は私が聞きましょう。志村先生は消防の方に説明をお願いします」

 それについて考える暇もなく佐藤先生は言った。

「大岡。今井、そして嶋田もか? 生徒指導室に来なさい」

 最悪、とでも言いたげに奈月ちゃんは口元を歪めた。生徒指導室に向かう角ばった白シャツの後ろ姿を見つめながら、ぼくは気が重くなった。

今日は久しぶりに、長い放課後になりそうだ。



 生徒指導室はどことなく暗い印象があるのだけれど、ご多分に漏れず、今日もやっぱり薄暗かった。秋も深くなって、日が落ちるのが早くなったからだろうか。部屋の片側の壁は一面本棚になっていて、陰影の濃くなった今はまるで廃屋敷の調度のように見えた。佐藤先生が部屋の蛍光灯をつけると、本棚は最早気にも留めないような景色の一部になり、窓ガラスは鏡のように、二つの移動式長机とパイプ椅子しかない殺風景な部屋を写しだした。

「座りなさい」

 先生が静かな声で言った。ぼくと大河はそれに従ったけれど、奈月ちゃんはパイプ椅子の背に手をかけたまま突っ立っていた。

「大岡、座りなさい」

 名指しで促されて、奈月ちゃんはキッと先生を睨んだ。

「話すことなんてない」

 先生はまっすぐ奈月ちゃんを見て、もう一度静かな声で、座りなさいと言った。

「何で?」

 そう言った奈月ちゃんの声もまた、静かだった。窓の外はまるで海の中のように均一で透明な青色に染まっていて、なんだか潜水艦の中にでもいるような気がした。

「でも、本当に話すことはないんです。学校に戻ってきたらこうなっていて……」

大河の声がボリュームを下げるように少しずつ小さくなっていく。いたずらを仕掛けるときや大人に叱られるときは、大抵は大河が話す。明るくて人懐っこい大河は、人の懐に入るのがとても上手で、しょぼくれた顔をして謝ると大抵の人は許してくれた。だからきっと、今回もきっとどうにかなるのだろう。ぼくは少し視線を伏せるふりをして、本棚に並べてあるファイルの背表紙を左から順に眺めていた。

「……だから俺たちは、火事を発見しただけで、原因とかそういうのは全然わからないんです」

 そう、ぼくらは何も知らないのだ。埒が明かないし、そろそろ先生も諦めるだろう、そう思った矢先だった。

「そういうことを聞いている訳じゃないんだ」

 少し高くなった先生の声を聞いて、ぼくは本棚を眺めるのに費やしていた集中力を少しだけ耳の方に向けた。白いシャツの腹が机の下でなだらかな弧を描いている。先生、実は太っているんだなと、どうでもいいことばかり考えてしまう。

「いいか、お前たちは学校で火器を使った。一歩間違えたら火事になるところだった」

「使ってないし」

 全く小憎らしい口調で奈月ちゃんが口を挟む。

「そうなのかもしれない。けれど今までお前たちがしてきたことを考えると、こちらも簡単に『はいそうですか』で済ませられない」

 何だか、雲行きが怪しくなってきたようだ。

「だから、今回は叩いたって何も出てこないよ。寧ろこっちが知りたい位だもの」

「その前の段階で問題がなかったと言えないのか、大岡」

 先生は立っている奈月ちゃんを上から下までじろりと眺めた。

「わからないのか? お前はその服装で信用を失っているんだ」

「は?」

「お前ら、目が行き届かないのをいいことに煙草でも吸っていたんじゃないか?」

「はあ⁉ バッカじゃないの!」

 奈月ちゃんは激高して、吠えた。そんな奈月ちゃんを、佐藤先生は人ではないものでも見るような目で見た。その優しさが欠片もないような目に、ぼくは心臓の温度がみるみる下がっていくのを感じた。駄目だ、この人は、もう……。

「でも、話も聞かないで、俺たちがやったって決めつけないでよ!」

 大河が叫ぶのが聞こえた。佐藤先生は大河を一瞥して、

「最低限のルールも守れない奴を、学校は救えないんだ」

 と先生は吐き捨てるように言った。そこにあるのは異質なものに対する敵意だけだった。ぼくらはまるで水族館の水槽の中と外にいるかのようにお互いを見ていた。ヒトは水の中では生きられないし、魚は空気の中で生きられない。ただ、この場合、どちらが魚なのだろう。どちらが、正義なのだろう。

「子供を守るのが大人の責任でしょ」

「校則を守れないのなら、授業は受けさせない」

「何言っているの、義務教育なんですけど。こっちは教育を受ける権利があるんですけど」

「出席停止だ。火事の原因がわかるまで自宅で謹慎していなさい」

「インフルエンザでもないのに出席停止ってないわ」

「お前たちが、インフルエンザなんだよ」

 そう言った先生の声は震えていた。奈月ちゃんは微かに目を見開いて、二、三秒まっすぐ佐藤先生を見つめた。ぼくは視線を逸らしている先生のまだ豊かな髪のつむじに、幾筋かの白髪が混じっているのを認めた。

「幾ら何でも言い過ぎだろ!」

 伸び掛けた大河の手を、奈月ちゃんが止めた。帰ろ、と奈月ちゃんは低い声で言った。

「どうせあたしは、『腐ったミカン』だよ!」

 奈月ちゃんは、歯をむき出しにして、笑った。笑っていたのに、その声は氷のように澄んだ、哀しい響きがした。


「腐ったミカン」というのは金八先生に出てくる有名な例え話です。

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