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金木犀の放課後

 奈月ちゃんのお母さんは結局帰ってこなかった。あんなにしおらしく泣いていたのに、奈月ちゃんはお母さんのことを「クソババア」と呼んでいる。ただ、仕事であまり家に帰らないお父さんのことも「クソジジイ」と呼んでいるので、単に口が悪いだけなのかもしれない。

 小学生の頃、奈月ちゃんは教師をはじめとする大人を目の敵にしては小賢しいいたずらをする機会を常に狙っていた。奈月ちゃんの思いつくいたずらは痛快で、ぼくらは本を読んではいたずらを企て、そして実行した。特に、青年会のおじさんを説得して卒業式の終わりに花火を上げてもらったのは最高だった。真昼間の花火を見る機会なんて、きっとこれから一生ないだろう。

 地元の中学に進学してから、大河はサッカー部に入った。奈月ちゃんも初めは陸上部に入っていたけれど、夏になる前にやめてしまった。ぼくは文芸部に入りたかったのだが、なかったのでどの部にも入らなかった。

 夏が終わるころ、奈月ちゃんは突然「一緒に地学部に入ろう」と言い出した。

「地学部って、どんなことをする部活なの」

 と、ぼくが訊くと、奈月ちゃんはけろりとした顔で

「知らないよ、そんなの」

 と言ったのでぼくは呆れてしまった。

奈月ちゃんの話をよくよく話を聞くと、どうも地学部は一、二年生の部員がおらず、三年生が引退してしまうと自動的に廃部になってしまうらしい。

「学校で自由にできる部室があるって良くない?」

 と奈月ちゃんが目を輝かせて言った。カッコウの托卵みたいだ、とぼくは思った。

 こうして奈月ちゃんは一年生にして地学部の部長になった。元々廃部の危機に瀕していた部なので、存続させたところで部員は他にぼくと大河しかいなかった。顧問の山尾先生は先代の頃から積極的に部活動に関わるタイプではなかったこともあり、ぼくらは天体観測はおろか、石や地層の見学に行くでもなく、気の向いた時に部室に行っては、各々好きなことに勤しんでいた。好きなこと、といっても学校でできることは案外限られていて、奈月ちゃんの手伝いをさせられることが圧倒的に多かった。

 裁縫が得意な奈月ちゃんは、ちょっとした端切れで小物を作ってフリマアプリで売っていた。奈月ちゃん曰く、最近は材料費にちょっと色が付くくらいの売り上げはあるらしい。最近やけに足繁く部室に来るようになった大河と、家に帰っても特にすることのないぼくは、相変わらず奈月ちゃんの果てのない遊びに付き合っている。



「あと一週間で一四歳か」

 手芸店から学校に戻る帰り道、たい焼きにかぶりつきながら奈月ちゃんが言った。本当は、学校にお金を持ってくるのも買い食いをするのも校則で禁止されているが、奈月ちゃんはお構いなしだ。そもそも奈月ちゃんは、格好からして歩く校則違反の見本市だった。黒いハイソックスに裾上げしたスカート、キャメルのセーター、そして胸元で揺れる赤いリボン。奈月ちゃんが守っている校則は「肩にかかる髪を地味な色のゴムで結ぶ」というものだけで、それも校則を守っているというよりは、奈月ちゃんが元からその髪型を好んでいたからに過ぎなかった。

「ねえ知ってる? 十四歳までは何か事件を起こしても捕まらないんだよ」

 むきだしになったあんこを見つめて、奈月ちゃんはいかにも深刻そうな顔で言った。十四歳になろうがなるまいが奈月ちゃんはいたずらを止めないだろう、とほくは思ったけれど黙っていた。一応断っておくが、奈月ちゃんは不良ではない。

「あたしが悪いことをしても大丈夫なのも、あと一週間なのか」

「何で?」

 とすかさず大河が訊く。今度は何の小説の受け売りだろう、ぼくが考え込んでいるうちに

「少年法でそう決められているんだよ」

 と、奈月ちゃんが得意げに答えた。もうそろそろいい頃合いだろう。

「奈月ちゃん、それ、もう法改正で『おおむね十二歳以上』になっているからね、悪いことしないでよ」

「えっ、マジ?」

 奈月ちゃんは小さな鳶色の目を丸くしてぼくを見た。

「『エイジ』にそう書いてあったのに!」

 やっぱりそういうことか。

「あれ、二十年くらい前の小説でしょ、今とは時代が全然違うって」

 奈月ちゃんは食い下がる。大河はたい焼きに食らいつく。奈月ちゃんは小物の売り上げで時々ぼくらにたい焼きなんかを奢ってくれるのだ。その代わりに、こうして手芸店で安売りしていた端切れをどっさりと持たされているのだが。

「だって読んでいる最中は時代とかあんまり気にしないし、広末涼子は今でも普通に美人だし……」

「その辺でやめておこうか」

 奈月ちゃんは膨れっ面をして何か言い返そうとしていたけれど、ぼくらの本の話についていけず、持ちて無沙汰になっていた大河が「賛成(さんせー)」と間延びした声で言ったので、奈月ちゃんは黙った。

 川沿いではすすきが風に吹かれて揺れていた。奈月ちゃんの栗色の髪は、まるで透き通ったセピア色の糸のように見えた。奈月ちゃんの体は華奢で、人より短いスカートから伸びる脚はまるで小枝のように細かった。

 中学校生活もそろそろ折り返し地点が近づいていてた。特に示し合わせたわけではないけれど、高校もきっと同じところに進学するだろう。五年前に越してきた母親の故郷は本当に何もない田舎で、高校はぱっとしない偏差値の公立高校の他には工業高校と偏差値の低い私立高校くらいしかなかった。

 こんな田舎でできることは限られている。才能も野望もないぼくは、鉛筆で下書きされたような未来が見えてしまっていた。同盟なんかなくても、ぼくらはきっと、この町で一生顔を突き合わせて、気の遠くなるような未来を生きていくのだ。

ぼくらはただ、一週間単位の日常を繰り返しているだけなのに、目に見えないスピードで、何かが少しずつ変わっていく。「子ども」としての特権が一つ、また一つと奪われて、ぼくらは最早子どもとは呼べないようないびつな形をしているのに、大人の仲間にも入れてもらえない。ぼくらには無限の未来がある、と大人は言うけれど、ぼくの前に広がっているこの茫漠とした暗闇が青春だというのなら、大人はなんて残酷なのだろう。

「大人になりたくないな」

 奈月ちゃんがそう呟いた時、ぼくは心を読まれたような気がして思わずどきりとした。奈月ちゃんを取り巻く世界の色が消えて、ぼくは奈月ちゃんと世界に二人きりで取り残されたような気がした。

そうかぁ? と大河が間延びした声で言う。

「奈月たちはいいさ、俺なんて早生まれだから、早く誕生日が来ないかな、っていつも思っているのに……」

 大河の言葉があまり意味を持たずに流れていく。けれど、大河と笑いあっている奈月ちゃんの姿に、淡い妄想は自ずと掻き消えた。そしてぼくは、学校前の坂道から阿部さんが隣のクラスの藤原と連れ立って歩いてくるのが見えた。

「あ、誠吾と雪乃じゃん」

 おおい、と大河が大きく手を振った。二人は同時に顔を上げ、藤原が大河に向かって軽く手を上げる。坂道を駆けのぼる大河の背中を、奈月ちゃんは恨めしそうな顔をして見上げた。

「あのバカ」

「仕方ないよ、大河は同じ部活で仲良いいんだから」

「でもさ……」

 と奈月ちゃんがごねているうちに、遂にぼくらは落ち合ってしまった。

「奈月、校則違反だよ」

 目の前に来るなり阿部さんが言う。顔を見る度にそう言うので、奈月ちゃんは彼女を煙たがっていた。

「というか、鞄はどうしたのさ」

「どうだっていいでしょ」

 手芸店は学校のすぐ傍にあるのと、生地が意外と重いため、ぼくらは部室に鞄を置いて来ていたのだ。

「で、何を買ってきたの」

「暗幕用の布」

 奈月ちゃんはしゃあしゃあと嘘をついた。

「部室でプラネタリウムを作るの」

 あまりにも稚拙な嘘だったので、ぼくはちょっと冷や冷やした。けれど阿部さんは「ふぅん」とあっさりそれを信じてしまった。

「暗幕なら生徒会室にあるけど」

「それはどうも」

 奈月ちゃんはちっとも有り難くなさそうに言った。

「月曜から服装強化週間だから。全部直してきなさいよ」

 言いたいことを言ってしまうと、阿部さんはすたすたと坂道を下りはじめた。そのため藤原は大河との会話を切上げなければならなかった。

「大河!」

 背中越しに藤原が叫ぶ。

「ミーティングくらいは来いよ!」

 大河はいつものへらっとした調子で「気が向いたらねー」と返していた。二人ともサッカー部なので、きっと部活の話でもしていたのだろう。

「全く、生徒会長ってよっぽど暇なんだね」

 遠くなっていく阿部さんの背中に向かって奈月ちゃんは悪態をついた。

「雪乃も懲りないよな、小坊の頃から」

 と大河が言う。田舎なので、ほとんどが小学校からの付き合いなのだ。

「藤原って、雪乃の何が好きで付き合っているんだろ」

「しっかりしているからじゃないの」

 こういう時にすかさず返事をするのはいつも大河だ。

「それにしてもみんなよく付き合ったりできるよね、全員幼馴染みたいなものなのにさ」

 心から呆れた、という調子で奈月ちゃんが言った。

「中学生になったからって、今更みんな恋愛対象として見られないんだけど」

「それな」

 と大河は自然に同調する。普通はそうだよな、と思ってぼくは何も言えなかった。そっと息をついた反動で吸い込んだ息の中に、微かに金木犀の香りを感じて、ぼくは思わず顔を上げた。いつの間にか近づいていた校舎のうしろには、まるでおばけのような入道雲が立ち上っているのが見えた。

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