私はシクラメン〜『七罪のツメアト』シリーズ①嫉妬〜
『私わたくしは一体どこへ向かっているのでしょう』
あでやかな、高貴な雰囲気を放つ少女が夜空を舞っていた。風に乗り、カラスを相手に舞踊するように。
しかしながら、少女の身体――いや、魂はある一点を目指しているかのように、意志とは関係なく流されていく。
月明かりに照らされた白磁色のか細い手を前方へ掲げてみると、その先にある景色――ポツポツと明かりを零す高層マンション――が瞳に映った。
どうやら手が、というよりも全身が半透明になってしまっているようだ。
幽霊みたいに。
『これは一体……』
不思議な点はそれだけではない。
星さえ見えぬ黒紫色の夕闇と、青白い月明かりだけの侘しい夜の世界を、色鮮やかな花々が彩っていた。
それは少女の身を包んでいる幾重もの着物の表層の柄――隙間なくびっしりと、且つ精緻で、美しい、紫色のシクラメン。
そこに咲き誇っているのかと思わず錯覚してしまいそうなまである。
眠りにつく時はそう、確か、さらさらとした感触の心地よい紫色のネグリジェを身にまとっていたのに。
この和装は所謂アレ、古典や日本史、美術の資料で見かけるような、平安時代の貴族文化を表しているものである。
そう、十二単。
写真でしか見たことのない豪奢な代物が何故、今、少女に……。
訳も分からぬまま、風に身を任せていると、大名屋敷のような日本家屋の上空で一時停止した。
石垣で囲まれた敷地には母屋と倉庫があり、周りにある何本もの巨木がゆさゆさと大枝を揺すっている。
『ここは……どなたのお宅かしら?』
と思った途端に天から風が吹き抜け、少女は母屋の周りを旋回するように、渦を巻くようにしながら下降し、窓をすり抜けて部屋の中へと吸い込まれる。
「「スー……スー……」」
板張りの部屋のベッドの上で、二人の男女が安らかな寝息をたてつつ幸せそうな微笑みを浮かべて眠っていた。
『まあ、どうして私はこんなところに……!』
宙に浮き夜空を舞っていることに気付いたときからずっと、大海ように静かで穏やかだった心が、初めてざわついた。何かつっかえるようなものを感じる。
しかも女性――というよりも同世代と思われる少女は、同じく同世代と思われる少年の腕を枕にしながらピトッと肌を寄せている。下半身のほうへと目線をずらすと足と足が妖しく絡み合っていた。
……ここでナニが行われていたのか、なんてことくらいは想像に難くない。
『こ、こほんっ……って、あら? この方々はもしや……』
宙に浮いたまま、すーっと移動して暗闇でぼやけた二人の顔をじっと見つめる。
『そんな!?』
その瞬間少女の世界は硝子のようにパリンッと崩れ去り、破片が心を抉る。
『源二くんに蒼井……!? ……そんなっ、どうしてなのっ……』
『最近は忙しくて一緒に帰れないし、過ごすことも、一夜を共に明かすことも出来ないと仰っていたのは……まさか全てこれ――許嫁のためということなの源二くん?』
『許嫁とか今更どんな時代錯誤だよ、と囁きながら私に滑らせた手を、今度は蒼井の柔肌に這わせたというの……!?』
『それに蒼井も! あなた源二くんのことを相当毛嫌っていらしたのに。源二くんは定められし婚約を頑張って受け入れようと、あの手この手を尽くしたのにも関わらず、頑なに拒んだそうじゃない。それなのに何故、今更……』
『くくく……どうだ? 憎いであろう?』
『……な、何? 今のはどなたなの……っ』
突然、妖しく揺らめく低い声が直接脳内に語りかけてくるようにして聞えてきた。
『その女が、憎いであろう?』
『い、いやっ……』
その声が少女をどこか、いけない領域へと誘ってしまいそうな恐ろしさを帯びていて、寒気が全身を駆け巡る。
『くくく……抗おうなんて無駄なことよ。どうだ、その女が憎いであろう? 憎いであろう?』
『あああっ』
声を振り切ろうと首を激しく振った。すると逃さんとばかりに頭を押さえつけるような痛みが走り、声が無理矢理注ぎ込まれる。
頭に注射針を突き刺されてたっぷりと毒を注入されているような最悪の心地だ。
『憎いであろう? 憎いであろう? 憎いであろう?』
『っ……憎いっ、のは……あな……たよっ――あああああああああああああっ』
『なんじゃと? もう一度申してみぃっ』
『あああ、あああっ』
『くくく……その姿に身をやつしている時点でそちはもうこちら側よ』
『そん、な……。私は、私は……』
『さあ、正直に申してみぃ生霊。その娘が憎いであろう?』
『私、は……っ』
『そちはその娘が憎い……。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い』
『あっ、ああ、ああああっ、あああ、あっ、あああああああああああああ――――――――』
『憎いであろう? 憎いであろう? 憎いであろう? 憎いであろう憎いであろう憎い憎い憎い憎い憎い。――相違か?』
抵抗しようとする意志を激痛を以てねじ伏せられ、無理矢理空っぽにされた脳内を埋め尽くさんとばかりに植えつけられる『憎い』の文字。少女からはあらゆる雑念が取り払われてしまった。
だから――
『……憎、い。…………私は……蒼井、が……憎いっ』
『くくく……そうであろう、そうであろう。その女は数々の厚意と好意と行為を己が意地故に全て突っぱねておった。故に男は愛情を失い、そちへと惹かれていった。そうであろう?』
『ええ……そうね……っ』
『だが、今になってその女は……そちに何をした?』
『大嫌い……話したくない……近づかないで欲しい、などと言っていたのに』
『ふむ』
『――私から源二くんを、奪った』
『そうだ。その女はまさしく泥棒猫だ。憎くはないか?』
『……憎い。……憎いわ。……ええ、憎くてよ。……憎くないわけないじゃない……っ』
『くくく……ならばそちのすべきことはただ一つ。分かっておろう?』
『すべきこと……』
『なんじゃ、分からぬか。……ところで、そちよ。その女の首筋を見てみぃ』
『首筋?』
『……絹のように上品で滑らかで美しい白色であろう』
『ええ……そうね』
『それに心なしかツヤツヤしておる。光沢のある何かで繰り返し拭いた後のようではないか?』
『……?』
『……男は幾度、その女の首筋に舌を這わしたのであろうな?』
『……!』
『それでいて傷一つ見当たらぬ。男は、その女をいったいどれほど優しく、丁重に扱ったのであろうな?』
『……っ。ずるい、わ。どうして、どうして源二くんは蒼井だけに……!』
『くくく……どうだ? そちのすべきことが、自ずと見えてきたであろう?』
その時、蒼井は寝返りを打った。露わになるのは、窓より微かに射し込む月明かりを反射して、白く美しく慎ましく照りを放つ首筋。
『くくく……どうやら時は満ちたようだ』
言われるまでもなく、本能に突き動かされた少女は蒼井の胸の上へと移動した。
そのまま吸い込まれるようにして首筋を注視。
はっ、と気付いたときには掌全体に確かな触感があった。ほんの少しべたつきがあるものの、きめ細かくてスベスベとした柔肌――首の感触が。
『私は今、首を絞めている』
実感しても、感情など湧かなかった。
ただ一つ、『憎しみ』を除いて。
それに身を任せ、少女は力を強めた。
疑念が頭を過ぎることすらない。夜空を舞う自分を認識してからずっと、全てのものがすり抜けていた。そんな自分がどうして今、首を絞めることができるのか。力を込めることができるのか、という疑念が。
「……んっ……あ……ぐっ、うぅ」
蒼井が目を覚まし、ジタバタと暴れる。手を引き剥がそうとしても、蒼井の手は空を切ってすり抜けてしまう。蒼井は驚愕のあまり目を見開いた。視線をやや上に向けると半透明な少女――六花がこれまで誰にも見せたことのない般若の形相をしているものだから、さらに驚いて一瞬身が固まる。
引き剥がせないと悟った蒼井は横で幸せそうな笑みを浮かべながら眠りこける源二を起こそうと必死に叩き続ける。
「……んにゃ。……いたいよ~」
「どーしたんだよーあおいー…………ん、なにか匂う?」
「ぐ……ん、あっ……ぁぁ、ヴッ」
「蒼井? ……蒼井? ……どうしたんだよ、蒼井!?」
源二はガバッと起き上がり、どこか様子のおかしい蒼井を視界いっぱいに映す。
右手で首の上にある何かを掴もうとしていて、左手と両足をバタバタと敷布団に叩きつけて、何かに抵抗しながらもがき苦しんでいる。まるで首を絞められているかのような動きだ。
だが、源二には首を絞める腕なんて見えないし、ましてやそれが生霊と化した彼女であるなんて想像できるわけもない。
「蒼井! 大丈夫か! 蒼井!?」
『……源二くん、どうしてそんなに心配そうにしているの』
『その女がその男をたぶらかしたからであろうな。くくく……まったく、罪な女よ』
「そ、そうだ! 救急車……! 救急車を呼ばなければ!」
『……ますます許せないわ』
六花は握りつぶさんとばかりに力を込める。すると、抵抗する動きが徐々に弱々しくなっていく。
「スマホ……! あれ!? スマホはどこいった!? 嘘でしょ! ねえ!」
実はすぐ近くに置いてあるのだが、動転した源二はなかなか見つけられずにいた。
その間にも蒼井の動きはさらに弱々しくなり、顔も青白くなっていき――。
「あった! よし、今から救急車を呼ぶからね! 蒼井頑張って! …………蒼井!?」
――蒼井は完全に、停止していた。
おそるおそる頬に触れてみると、温かさを感じられるのだが、全身は月のように青白く、だが首筋には絞殺された証である紫斑が、くっきりと浮かび上がっていて…………。
「……う、そ……でしょ。蒼井……蒼井……蒼井っ」
『大丈夫よ、源二くん。私がいるじゃない……ふふ』 そう思いながら半透明な生霊と化した六花の意識は薄れていき――――。
「……ん」
早朝。いつもの通り六花は自宅の自分の部屋で目を覚ました。 ただし、多量の汗と花の芳香と共に。
下を見ると、びっしりとシクラメンが描かれた豪奢な十二単ではなく、昨晩眠りについた時と同様、さらさらとした感触の心地よい紫色のネグリジェを身にまとっていた。
「……嫌な夢ね」
バスタオルと着替えを用意し、お風呂場へと向かった。
温かいシャワーで汗を流しながら。昨晩見た夢を思い出していた。
『まさか、夢の中であるとはいえ殺人の罪を犯してしまうなんて……。しかも相手は蒼井さん。どうして、彼女を……。そんなに病んでいたのかしら。そんなに嫉妬深かったのかしら、私は……』
人間の秘かな願望が、深層心理が夢に表れるという。
『それにしても、源二くんと蒼井さんが婚約に前向きになってお付き合いを始めた。だから、私と疎遠になった。そんなことは実際、ありえるのかしら……?』
お風呂場から出てある程度の身支度を終えてから居間へ向かうと父が黙々と朝食を摂っていて、母はキッチンでお弁当の用意をしていた。
「おはよう」
「ああ、おはよう。……ん? 六花、ちょっと匂わないか?」
「臭う? お風呂から出てきたところよ」
「違う違う。臭いという意味ではなくてな」
「どういうこと?」
「高校生にもなって色めき立って、高貴な雰囲気を醸し出そうとするのはまあ、仕方ないとは思うが。香水はほどほどにしときなさい」
「香水は買ったこともないよ」
「お父さんそういう嘘は嫌いだなあ。別に香水がいけないとは言うつもりはない。ただ、物事には限度というものがあるからそこをきっちり守ってもらいたいだけなんだ」
「本当だってば!」
「じゃあなんで玄関にある花の匂いがするんだ?」
「え、なにそれ」
「名前は、えっと……まあ忘れてしまったが」
そう言って、六花の父は食事を中断して玄関へと向かった。
数十秒後父は玄関にある、シクラメンが活けられた花瓶を持ってきた。
「うむ、やはりこれと同じ匂いがする。六花もそれぞれ嗅いでみなさい」
指示に従い、自身の匂いを嗅いでからシクラメンの匂いを嗅ぐと確かに同じ香りがした。
余談だが本来は無臭の花であるのだが、品種改良によって芳香シクラメンがつくられ、流通している。
「本当だ……どうして」
「だから香水を使ったのだと思ったのだが……まあいい」
父はリモコンでテレビをつけ、いつものニュース番組に替えてから再び席についた。六花も父の正面の席に座り、座卓の上に用意されていた朝食を摂り始めた。
『次のニュースです。京都府京都市で男子高校生同級生の女子殺害か、です』
「……ぶっ」
映像がスタジオからVTRに切り替わった瞬間、六花は飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
「どうした? 行儀が悪いぞ」
「こほんっ、こほんっ、ごめんなさい」
殺害現場として映されたのは、上空から撮られた大名屋敷のような日本家屋……夢で向かった蒼井の家であった。テレビ画面に映ったものと目で見た景色がリンクした。
『どうして……』
『昨晩午前二時過ぎ、京都府京都市の一軒家から百十九番通報があり、救急隊員が直行したところ、女子高生、蒼井深怜さんの遺体が見つかりました。通報したのはこの女子高生の同級生であり、婚約者を名乗る男子高生。その後現場に駆けつけた警察によると、蒼井さんの首には紫斑があり絞殺されたものとみられます。男子高生は以下のように供述しております。深夜に強く叩かれ、シクラメンの匂いが強烈にしていため目を覚ましたら、横で寝ていた蒼井さんが何かに抵抗するようにしながらもがき苦しんでいた。救急車を呼ぼうとして慌てているうちに息をしなくなってしまった、とのことです。警察は証拠が揃い次第この男子高生を逮捕する方針です』 「……うそ……こんなことって……」
「ウチの市内でこんなこと起こるなんてな……。六花も気をつけろよ? 同級生だからと言って油断せずに何かされそうになったら警察を呼びなさい」
「…………そんな、まさか……でも」
父の言葉など耳に入ってこなかった。それどころか、父が口を開いたことにすら気付いていない。
蒼井が亡くなった。
もがくように抵抗しながら。
現場には強烈なシクラメンの香り。
六花からも強烈なシクラメンの香り。
絞殺。
紫斑。
婚約者を名乗る男子高生ってことは、源二くん……が逮捕?
…………おかしい。
こんなこと起こりえない。
しかしながら何もかもが合致しすぎている。
夢の中での出来事と、現実の出来事が。
『あれは……本当に夢?』
正夢、にしては良くできすぎている。
『もしかして、私は本当に……』
『もし私があの声に屈しなければ……蒼井さんは』
『……でも生きた人間が幽霊みたいになるなんて……』
「だいたい高校生ごときが一晩を共にするなんて実にけしからん。被害者には悪いがなんて不潔n――」
「――ねえ、お父さん」
「どうした?」
ふと意識を外に向けると父はブツクサとニュースに対する批評をしていた。
「生きた人間が幽霊なって、人を殺してしまうことって……ある?」
「急にどうしたんだい?」
「いいから!」
「ふむ……今から千年以上前、平安時代の物語としては聞いたことがある。最も有名なのは『源氏物語』の『六条御息所』だな。彼女は嫉妬のあまり生霊と化して、光源氏の妻である葵の上を呪い殺してしまった。まあ、普通は死んだ人間が物の怪となって生きている姫を妬んで取り憑いていたらしいんだが。……そうそう、確かシクラメンの花言葉の一つに嫉妬があったような気が」
「……そ、んな……じゃあ……」
「ん? 六花? 大丈夫か? 顔色が悪いぞ。具合、悪いか? 恐ろしい事件もあったし、無理して学校行くことはないぞ。休むか?」 「…………」
『じゃあ、私は……嫉妬心のせいで……』
『生霊と化し、物の怪に唆されて……』
蒼井さんを……殺めてしまった、というの……?』
『私のせいで……死んだ』
『私の源二くんへの愛が重いせいで……死んだ』
『私が源二くんと一緒に誰かがいることを嫉妬したせいで……死んだ』
『私が……殺した』
『私が……私が……私が……』
『私の嫉妬が、二人の未来を、契りを、千切ってしまったというの……?』
『こんなつもりじゃ、なかったのに!』
『それなのに、これではまるで……アレじゃない』
『私は……私は……』
『……私は、シクラメン……なの?』