主への一途な想い
「噂と言えば……お二人の耳にも、もう届いているのでしょうか? 見ているのも辛くなる程一途に、主の帰りを待ちわびる哀れな飼い犬の話を」
「? 何の話だ?」
うまい具合に坂東の戦話を打ち切ったと思えば、また別の話題を口にする貞盛。
突然の話題転換に、彼がいったい何の話を始めたのか、話題についていけなかった千紗は首を傾げる。
その横で、朱雀帝はと言えば、再び悲しげに顔を歪めていた。
「おや、千紗姫様はまだご存知なかったのですか。貴方様が入内なさる前、貴方様の護衛の任についていた秋成殿の話を」
「っ!秋成が……どうかしたのか?」
小次郎の次は、秋成までもが何か大変な事に巻き込まれているのかと、不安にざわめく心蔵の鼓動を必死に押さえつけながら、千紗は貞盛の次の言葉を待った。
貞盛の口からは、予想もしていなかった驚くべき事実が語られた。
「秋成殿は、千紗姫様の入内後も変わらずあなた様の護衛であり続けようと、大内裏の正門である朱雀門の前から、ピタリと張り付いて、離れようとしないのだそうですよ」
「……秋成……が?」
ふと朱雀門の前に立ち尽くす秋成の姿を想像して、千紗の胸はギュッと締め付けられた。
――『俺の、姫様への忠義を断ち切る事は、何ものにも敵わない。 何があろうと、俺は姫様のお側を離れはしません』――
千紗は懐に忍ばせていたあるものを取り出す。
と、ゆっくりと視線をそれに落とした。
――『………これは?』
『この社の御神木。梛の木の葉です。梛の葉は、“苦難をなぎ倒してくれる”。そう信じられているんですよ』
『………そうなのか』
『はい。きっとこの葉が姫様の厄を、不安を、なぎ倒してくれる事でしょう。それから……この葉をよく見てみてください。葉の脈が横ではなく縦についているでしょ。この葉を引き千切ろうとすると』
『……千切れない』
『はい。どんなに力を入れようと、決してひきさく事は敵わない。これを、姫様と交わした約束の証に』――
それは、約束の証しにと、秋成がくれた梛の葉だ。
貞盛の話に、千紗は思った。秋成はあの時の約束を、今も一途に守ろうとしてくれているのだと。
なのに自分は、秋成に黙って彼の元を離れる事を決めた。
彼との約束を自ら違えた。
こんな身勝手な主を秋成は今も待っていてくれているなんて。
秋成の行動を嬉しいと思う反面、後ろめたさや申し訳なさ、様々な感情に襲われて、千紗の目にはボロボロと涙が溢れ出した。
そんな彼女の動揺をすぐ隣で感じて、朱雀帝もまた複雑に顔を歪めていた。
「雨の日も、日差しの厳しい日も、変わらず彼は朱雀門の前に立っているのだそうですよ。その主への忠誠ぶりには、貴族達ですら感心するものであり、同時に同情するものだとか」
「……」
「いかがでしょうか千紗姫様。ここらで一つ、彼の従者としての任を解いて差し上げたら」
貞盛が語る秋成の様子に、千紗はいても立ってもいられなくなって、今にも秋成の元へと走りだしそうな勢いで立ち上がった。
「千紗っ!」
だが慌てて朱雀帝が強い口調で名を呼ぶと、ギュッと彼女の手を掴んだ。
眉間に皺を寄せ、きつく睨み付けるような、それでいて悲しみの見え隠れする複雑な表情で彼女を見上げる。
「……………」
まるで「行かせない」とでも言うような痛いほどの眼差しに、千紗は迷い固まる。
「……ひらを、忠平をここへ呼べ。奴に秋成を説得させる。
……だから………だから千紗姫、貴方は何も心配する必要などない。この件は、私と忠平に任ておいてくれ。頼む……頼むから……」
千紗の手を握る朱雀帝の手に、更なる力が加えられる。
まるで戒めのようなその力に、千紗は諦めたように再び腰を下ろした。
朱雀帝はほっとした様子で千紗の肩を抱いた。
「も、申し訳ございません。私ごときが余計な進言をしてしまったようで。ご無礼をお許しください」
「いや、良い。よく知らせてくれたな。また何かあったら報告してくれ。臣として今後のお主の働き、期待しておるぞ、貞盛」
「帝直々にそのような御言葉を頂けるとは。この太郎貞盛、光栄の極み。必ずや帝のお役に立てますよう、精進いたします」
貞盛はそれはそれは嬉しそうに笑顔を深めながら、深々と頭を下げて見せた後、二人の元を後にした。
それから暫くとしないうちに、今度は忠平が訪ねて来る。
「お呼びでしょうか、帝?」
「ち……父上っ……」
久しぶりに見る父の姿に、千紗は御簾をくぐると、幼子のように父の胸へと抱きついた。
「ど、どうした千紗? ……いや、皇后様。何があったのですか?」
「父上……秋成を……秋成を助けてやって下さいませ」
「秋成を? どう言う事ですか?」
娘の言葉の意味が分からず聞き返す。
だが千紗はただ泣きじゃくるだけで、いくら待っても疑問の答えは返ってこなくて
「忠平。お主、元千紗の護衛である秋成の噂は存じておるな。朱雀門に張り付いて離れないと言う」
見かねた朱雀帝が千紗に変わって話し出した。
「はい、存じております」
「ならば話は早い。早くあやつを朱雀門から解き放ってやれ。千紗姫の護衛の任から解いてやるのだ」
「勿論です。そのように秋成には話しました。何度も説得して、あの場から離れるようにと伝えました。ですが……」
「聞かぬと申すのか?」
「……はい。あの子は、私の話には耳を貸そうとはせず、ただ黙ってあの場に立ち続けるばかり。私もどうしたら良いのかと思案していた所です」
忠平の話に、千紗は驚いた顔で父を見上げる。
「何故だ!何故そうまでしてあの男は大内裏の前に立ち続ける?」
千紗と同様、朱雀帝も驚いたらしく、千紗が聞くより先に朱雀帝が忠平に問うた。
「………約束したからと。娘と約束したから、約束を果たす為にあの場に留まるのだと」
「約束?」
「はい。秋成は、そう申しておりました」
忠平と朱雀帝、二人の視線が千紗に注がれる。
だが千紗は、二人の視線にも気付かずに、何かを考え込んでいる様子。
そんな娘の姿に、忠平は躊躇い気味にある提案を口にした。
「帝、これは提案なのですが、一度千紗を秋成に会わせてやってはくださいませんか?」
「……何?」
忠平の提案に、朱雀帝が不機嫌そうに聞き返す。
「情けない話、私の言葉では秋成には届きません。この子の……千紗の言葉しか、きっと今の秋成には届かない。お願いします。今一度、秋成とこの子に会わせる機会を……」
「ならん!それはならん!」
「ですが、このまま秋成があの場に立ち続けたら、いつ体を壊すともしれません。あの子は寝食もろくにとらぬまま、ずっと主の帰りを待って、あの場所に立ち続けているのです。見ているこちらが辛くなるほど一途に、千紗と会える日を待ち望んでいるのです。どうか、どうか帝のお慈悲を……」
忠平が語る秋成の姿に、千紗の頬には大粒の涙がつたう。
雨の日も、風の強い日も、日射しの強い日にも、昼夜を問わず、ただじっと待ち続けている秋成の姿を想像すると、後から後からポロポロと涙がこぼれ落ちていく。
秋成を何とかしてやりたいのに、何もしてやれない今の自分がもどかしくて。
どうして、何も言わずに彼の元を離れてしまったのだろう。
一言別れの言葉を伝えていれば、こんな事にはならなかったかもしれない。
己の勝手さが招いた結果に、千紗はただただ涙を流す事しか出来なかった。
そんな彼女の姿に、朱雀帝の胸は心臓を鷲掴みされたかのように、きつくきつく締め付けられていた。
やっと彼女を手に入れられたと思ったのに、彼女の目には今も昔も小次郎や秋成、従者だった二人の男の姿しか映ってはいない。
今一番側にいるのは自分のはずなのに、彼女の心が自分に向けられる事は、たとえ結婚しようとも、ただの一度だってありはしないのかと。
「駄目だ! どんなに頼まれてもそれはならん!忠平、あの男はお主の飼い犬であろう。ならば飼い犬の躾はお主の力で何とかしろ!」
膨れ上がる嫉妬心から、朱雀帝は堅くなに忠平の申し出を拒み続けた。
「話は以上だ。今日はもう帰って良いぞ」
「お待ちください帝! ですが……」
「さぁ千紗姫、私達も部屋へ戻ろう」
忠平の呼び止めも虚しく、朱雀帝は乱暴に千紗の腕を掴むと、強引に引っ張って忠平の元から連れ去って行ってしまう。
「帝っ、帝っっ!!」
誰もいなくなった広く薄暗い部屋の中、忠平の声だけが虚しく響いていた。