朱雀帝の意向
「千紗姫様、最近はめっきり大人しくなりましたね。どう言った心境の変化ですか?」
穏やかな午後の一時、千紗の部屋にて――
板東から帰って来てからと言うもの、毎日のように小次郎が小次郎がと騒ぎ立ていた千紗が、まるで人が変わったように大人しくなったその事実に、侍女として見守って来たキヨが、退屈を紛らわせる為の話のネタに、主に尋ねた。
キヨからの質問に千紗は得意気な顔で答える。
「キヨ、言霊と言うものを知っておるか」
「言霊ですか? えぇ勿論知っております。発せられた言葉には魂が宿り、発したとおりの状態を実現する力があるのだとか。良い言葉は良い事を招き、不吉な言葉は凶事を招くと言われておりますよね」
「そうそう、それだ。だからな、もう心配する事はやめたのだ。心配して、後ろ向きな言葉ばかりを口にしていては、それが誠になりかねないからな。小次郎は何も悪い事などしてはおらぬのだから、心配などせずとも私達は堂々としておれば良いのだ」
「……はぁ。それが千紗姫様が大人しくなられた理由……ですか?」
「そうだ。心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん。心さえやましくなければ、ことさら神に祈らなくても、自然に神の加護があるであろう。大丈夫。きっと小次郎は大丈夫。小次郎と、この詩に込められた言霊の力を信じて、私は大人しく待つ事に決めたのだ」
そんな二人の会話を、娘の様子を見に訪ねて来ていた忠平が、偶然にも部屋の外から聞いていた。
小次郎の無実を信じて希望に満ちた千紗とは違って、何故か不安げな表情を浮かべながら。
千紗が詠んだ和歌に、忠平はふと、今は亡きある人物の姿を思い出していたから。
――『心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん』
そう詠んだのは、忠平の古き友、菅原道真その人だった。
言われのない罪に、朝廷での道真の立場が揺らいだ折、彼は焦った様子もなくこの和歌を詠んだ。
彼は信じていたのだ。世の条理と言う物を。
後ろめたい事など何一つ無いのだから、必ず己にかけられた嫌疑は晴らされると。
だが、道真の信じた条理は、人の欲によっていとも簡単にねじ曲げられてしまった。
結局彼は、見に覚えのない罪を背負わされ、太宰府へと飛ばされしまったのだ。
今の小次郎の姿が、あの時の道真と重なって見えて、忠平は言い知れぬ不安に襲われた。
そして、忠平の感じたその不安は、そう時を経たずして現実のものとなろうとしていた――
***
梅も花開きだそうかと言う2月の終わり。
朱雀帝から直々に内裏へと呼び出された忠平は、朝早くから清涼殿にて帝に謁見していた。
そしてこの時、朱雀帝の口から驚くべき言葉を聞かされたのだ。
「忠平、朕も一月で十五になった。そろそろ元服をしなければと思うのだ」
「おぉ帝、ついにご決心なされましたか。元服なされれば、今まで以上に帝としての責務を果たして貰う事になりますが、その覚悟はおありですかな?」
「勿論だ。天皇として、これからは責任を持って帝としとの勤めに励もうぞ」
「あぁ寛明様、ご立派になられて。忠平は嬉しゅうございますぞ。これで私も摂政としての任を終える事が出来ます。帝、是非帝のお力でこの国を良い方向へとお導きくださいませ」
「うむ。では、取り急ぎ朕の元服の儀の準備を進めてくれ」
「仰せのままに」
御簾を挟んで会話を交わした二人。
嬉しい話に忠平は、早速準備に取り掛かろうと、朱雀帝に向かって一礼して見せた後立ち上がり、浮き足だった様子で踵を返した。
だが、そんな忠平の背中に、再び朱雀帝から声がかかった。
「待て忠平、まだ話は終わっていないぞ」
「さようでございましたか。これは大変失礼致しました」
朱雀帝からの指摘に再び元の場所へと膝を折る忠平。
頭を垂れ、朱雀帝の言葉を待つと
「実はな、ここからが本題なのだが、元服をすると言う事は、朕もそろそろ妻を娶らねばと思うのだ。お主は如何思う?」
朱雀帝の口から飛び出した思いもよらなかった話に、忠平は自身の背中に汗が流れるのを感じた。
以前彼から、千紗を嫁に欲しいとせがまれた記憶が不意に甦って。
何故か言い様のない不安に襲われた。
「……は、はあ。た、確かにそろそろ考えてもおかしくない年齢かとは思います……」
「そうであろう」
「で、ですが、帝の妃となられるお方は、この国にとっても国母となられる大事なお方。候補者選びは慎重に行わねばなりますまい」
「私が考える候補者はただ一人。お主の娘、千紗姫様だ。この国で我の次に位の高い太政大臣の娘であれば、我が妃にも相応しかろう。誰からも文句はでまいて」
「た、確かに身分だけて言えば、我が娘でも帝の妃になれなくはない……とは存じます。存じます……が、あの子の性格や器量を考えればとてもとても、国母など勤まるとはとても思えません。帝に恥をかかせてしまうだけかと思いますが」
「実の娘にも手厳しいな。だが心配せずとも器量など今からいくらでも身につける事ができよう」
「しかし……我が娘よりもっと評判が良く、才女と噂される娘はこの京には沢山おられます。帝の妃には、才女と評判高い娘達の方が相応しいかと……」
「我は千紗姫が良いのだ。千紗姫意外のおなごになど興味はない」
「帝……」
朱雀帝のまっすぐなまでの想いを聞かされて、忠平は素直に嬉しいと思った。
だが千紗の気持ちを考えると、どうしても首を縦に触る事は出来なくて……忠平は、ただただ困った顔を浮かべるしかなかった。
「忠平、お主が我と千紗姫との結婚を反対する理由は何だ?」
「……それは……」
「お主と我との仲だ。遠慮せずに申してみよ」
「……では、恐れながら申し上げますれば、我が娘は、心から愛した者と結婚したいと申しておりまして……私は、娘の意思を尊重したいと思っているのです」
「なるほど、そう言えば以前も同じ理由で断られたな。だがな忠平、朕は千紗姫を心から愛しておるぞ。この気持ちは誰にも負けまいて。だからな、夫婦となり共に過ごす時間を重ねて行ければ、いつの日かきっとこの気持ちが千紗姫にも届いて、私の事を好きになって下さると、朕はそう信じておるのだ。故に朕は千紗姫様を我が妻に迎え入れたいのだ」
「…………しかし……」
どうしても首を縦に降らない忠平に朱雀帝は、ならばとある提案を持ちかけた。
「ではこうしよう。千紗姫に朕の想いを直接伝えさせてくれ。もし千紗姫様が朕の想いを受け入れてくれたその時は、千紗姫を我が妻に迎える事を認めてくれるか?」
「……まぁ、千紗本人が了承した事ならば……私はこの事に何も口出すつもりはございませんが……」
でも千紗が朱雀帝の想いを受け入れるとは、到底思えません。と、喉まで出かかった言葉を忠平はぐっと呑み込んだ。
「よし、決まりだな。では今度千紗姫を、内裏に連れて来てくれ。頼んだぞ忠平」
嬉しそうにはしゃぐ朱雀帝の前ではそんな事、とても言えなかった。
「……は、はぁ。……仰せのままに………」
半ば押しきられる形で、渋々承諾させられた忠平は、不安を拭い切れないままに頭を下げて一礼すると、重い足取りで清涼殿を後にした。
忠平が去った後朱雀帝は、忠平が座していた場所より更に失う、庭に向かって声をかける。
「貞盛」
「はい、帝」
朱雀帝の呼び掛けに、庭を彩る木々の陰から小綺麗な格好をした貞盛が姿を表した。
そして朱雀帝の前で地面に手と膝をつくと、彼に向かって深く深く頭を下げて見せた。
「これで良かったのか?」
「はい。十分でございます。千紗姫様を帝の元へと呼び寄せられれば、もう姫様を手に入れたも同然にございますよ」
「そうか。これでやっと……やっと千紗姫様と――」
「はい。帝の望みである千紗姫様も手に入って、そして千紗姫様の“小次郎を助けたい”と言う願いも叶えてさしあげられる。一石二鳥とはまさにこの事」
頭を下げ続けたまま、そう返した貞盛。
伏せられた顔には、不気味な笑みが浮かべられていた。




