歪んだ愛情
「では忠平様、次こそは本当に行きますね。失礼いたします」
「あぁ。またいつでも遊びに来なさい。秋成、荷物が多くて一人では大変そうだ。小次郎を送って行って上げないさい」
「かしこまりました」
久しぶりの主従の再会を喜びあった後小次郎は、秋成を共に連れ、忠平に深々と頭を下げて見せながら忠平の元を後にした。
門を出た所で、一人中年の女人とすれ違う。
「お、お待ちください隠子様っ!」
その女人は供の者の静止も聞かずに、慌てた様子で忠平の屋敷の中へと駆け込んで行く。
あまりの取り乱し方に、小次郎と秋成は互いに首を傾げながら、どちらからともなく女人が駆けて来た方向へと視線を向ける。
するとそこには一台の豪華な牛車が停泊していて、牛車の装いから察するに、どうやらかなり高貴なお方のようだと分かった。
高貴な家柄の女人であれば、人前に姿を晒す事など滅多にないはずなのに、人目も気にせずあの取り乱しよう。はて、一体何事があったのだうか? と、女人の事が妙に気になりながらも、小次郎は彼女が消えて行った忠平の屋敷を今一度振り返りながら後ろ髪を引かれる思いで屋敷を後にした。
***
「……きら……寛明っ!」
小次郎達が忠平達の元を去ってから、さほど時間を空かずして“ドタバタ”と慌ただしく近付いて来る足音があった。
と同時に女性特有の金切り声が屋敷に響き渡った。
「何だ何だ、何事だ??」
突然の騒がしさにキョロキョロと辺りを見渡す千紗。そのすぐ隣で、何故か朱雀帝は身を強張らせながら、千紗の着物の袖の端をギュッと震える手で掴んでいた。
「チビ助?」
まるで怯えているかのような朱雀帝の姿に、千紗は不思議そうに声を掛けるも、その声は突然部屋に飛び込んできた金切り声の主に書き消されてしまう。
「寛明っっ!!!」
「…………母上……」
朱雀帝に母と呼ばれたその女、隠子は部屋へ入ってくるなり千紗の背から覗く朱雀帝の元へと、千紗を押し退け涙ながらに抱きついた。
「おっっとっと」
隠子によって弾き飛ばされた千紗は、ヨロヨロと体制を崩しながら忠平の元へと倒れ込む。
「大丈夫か、千紗」
「はい、なんとか。ですが父上、これはいったい何の騒ぎでございましょう? 突然現れたあの女人はいったい?」
忠平に支えられながら、目を丸くして千紗は訪ねる。
「あの方は帝の母君だ。お前も何度か会った事があるだろう。直近ではお前の裳着の儀式の時にも会っていたはずだが、覚えてないか」
「あぁ、あの時の。たしか父上の妹君でもあられましたよね」
「あぁ、そうだ」
忠平の説明に、千紗は成る程と納得した。久しぶりに帰って来た我が子を心配して、あのように取り乱していたのかと。
だが、母と子と言うには何処か奇妙に感じられた。何故母を前にして、朱雀帝はあのように表情を強ばらせているのかと。
裳着の儀の際には仲の良い親子に見えたのだが。
「皇太后様、久しぶりの再会が嬉しいのも分かりますが、そろそろ帝を解放してあげて下さい。過保護が過ぎて、また帝に怯えられておりまするぞ」
「あら私ったら、寛明の事が心配で心配で、つい取り乱してしまいました。ごめんなさい寛明。怖がらせるつもりはなかったのよ」
忠平が隠子を朱雀帝から引き剥がしながらやんわりと諭すと、隠子は意外な程素直に謝った。
「……わかっております、母上……」
隠子の謝罪に朱雀帝は、未だ微かに顔を強ばらせながら、俯きがちに言葉を返した。
朱雀帝が抱えるトラウマを察しながら忠平は二人の間に割って入る。
「さて隠子様、何故貴女様が我が屋敷にいるのかお聞きしてもよいですかな?」
「何故って、寛明が京へ戻って来たと耳にしたものですから」
「帝の事は私が責任を持って内裏へお連れしましたものを。貴女は今の自分のお立場をお忘れですか?」
「だって……待てなかったんですもの。我が子が帰って来たと聞いたら、いても立っても要られず、早く会いたい一心でここまで駆け付けてしまいました。この半年、私がどれ程心配していたか、兄上だって御存知でしょう?」
「お気持ちはわかります。ですがご自分の立場をお考え下さいと」
「あら、言わせてもらえば兄上もいけないのですよ。兄上が早く寛明を内裏へお連れくださらないから」
「それは申し訳ございませんでした。しかし帝がこちらに来られたのも、ほんのつい先程の事でして」
「言い訳は結構です。全く、兄上が甘やかすから寛明も我儘を口にするようになってしまったのですよ。昔はあんなに従順で良い子だったのに」
隠子を諭していたはずが、次第にグチグチ反論を口にし始める隠子。
忠平を押し退け、再び愛おしげに愛息子を抱き締めると、彼の存在を確かめるかのように何度も何度も頭を撫で、愛で始める。
「あぁ寛明、無事に帰って来てくれて良かった。この一年、母がどれ程心配していたか……」
「母上、苦しい……離して下さい……」
「いいえ離しません。一年もの間、ろくに連絡もよこさず、本当に、本当に母は心配していたのですよ」
「……誠に申し訳………ございませんでした……母上……」
「もしこのまま、貴方まで母のもとからいなくなってしまったらと、そんな考えばかりが頭をよぎって、母は生きた心地がしませんでしたよ」
「………………ごめんなさい…………」
「お願いです寛明、もう二度と母の側を離れないでくださいね」
端から見たら狂気にも似た愛で方に、朱雀帝からは表情が消えていた。
千紗や秋成といる時には、喜怒哀楽、様々な表情がクルクルと変わっていた朱雀帝が、今はまるで人形のように感情がない。
そんな彼の初めてみる姿を、側で見ていた千紗はただただ不思議そうに、そして不安そうに見守る事しかできなかった。
「あぁ愛しい子、もっと母に貴方の顔を見せておくれ」
「………」
いとおしいげに何度も何度も、頭を撫でつける隠子。
まるでもののけにでもとり憑かれているかのように執拗な程、何度も何度も。
ふと一年前とは違う我が子の変化に気付く。
「あら寛明、貴女何だか随分と大きくなりましたね。そう言えばあと半年もすれば、貴方も15になるのでしたっけ」
そう。頭一個分低かった身長も、気づけば母と同じ高さに目線があるのだ。
京を旅立った頃にはまだ13歳だった我が子も、あと半年もすれば15になる。そんな息子の成長を目の当たりにして、嬉しいような寂しいような、そんな複雑な気持ちがふと隠子の胸に込み上げる。
「やはり男の子は成長が早い」
「はい……母上。私もいつまでも子供ではありません。………だから――」
「そうですね。貴方ももう立派な男子。そろそろ元服も視野に入れなくてはなりませんね」
朱雀帝が何かいいかけた言葉を遮って母が言う。
――『だから、もう子供扱いはやめて下さい』
朱雀帝はそう言いたかった。
だが、母の前では言いたい事も言えず、朱雀帝の顔がどんどんと曇って行く。
「………チビ助?」
朱雀帝の様子にたまらず千紗が声を掛ける。
千紗に呼ばれて朱雀帝は儚げな瞳で振り返る。
まるで千紗に助けを求めているかのように。
だが
「さぁ、寛明、内裏へ帰りましょう。弟の成明も貴方の帰りを今か今かと待っていますよ」
「………………」
「では兄上、私達はこれで」
「……………」
朱雀帝の必死の叫びに千紗が応えるより先に、朱雀帝は隠子によって半ば強引に連れ去られて行ってしまった。
朱雀帝へ向け、伸ばされていた千紗の手は行き場を無くし、虚しく中を漂っていた。
「………父上」
「なんだ千紗?」
「チビ助はどうしたのでしょう。久しぶりに母に会えたと言うのに、人形のように空っぽな顔をして。チビ助のあんな顔、私は初めて見ました」
「そうか。お前は初めてか」
「え?」
「昔はな、よくあのような空っぽの表情をされていたんだよ」
「……チビ助が?」
「あぁ。あの子は感情の起伏に乏しい子でな、いつも無表情にぼんやりと外の世界を眺めていた」
「本当ですか? 信じられません。いつもキャンキャンわめき散らしては、ちょっとした事ですぐにふてくされたり、落ち込んだりしているあのチビ助が?」
「ははは。随分と感情表現が上手になられたものだな。だがな、それが出来るようになったのも、ほんのつい最近の事なのだよ」
「…………どうして? どうしてチビ助は感情を表に出せなかったのですか?」
「……それはきっと……我が妹、隠子のせいなのだろうな」
先程の二人のやり取りを思い出す。
怯えるように自分の袖を掴んだ朱雀帝の姿を。
母親に抱かれながら、人形のように表現が消えた朱雀帝の姿を。
「“せい”と言っては聞こえが悪いか。あの子が過保護になってしまう理由も、同じ“親”として理解は出来る」
「?」
「隠子はな、腹を痛めて生んだ大切な我が子を一度失っているんだ。帝にとって兄にあたる方なのだがな」
忠平の話に、千紗は坂東へ旅立つ日。貞盛から聞いた話がふと頭に浮かんで来た。
――『朱雀帝の父君、醍醐帝は、あの清涼殿事件を目の当たりにして以来、体調を崩されたそうです。そして醍醐天皇の崩御はあの事件の三ヶ月後。帝の兄君もまた……当時、皇太子の身でありがら21の若さで突然にお亡くなりになられました。またそのお子。皇太孫様も5歳でお亡くなりになったとか』
「そう言えば、貞盛から聞いた事があります。確かその方のお子までもが立て続けに亡くなったと。そしてチビ助の父上であり、先の帝でもある醍醐帝も亡くなった。それは道真公の呪いだと噂されたとか」
「あぁ。息子と孫を立て続けに亡くした事で、隠子は当時、精神的に不安的になっていたのだ。そして、兄の死と引き換えに産まれてきた子、寛明様までもを道真に奪われまいと、幾重にも張られた几帳の中へと大切に閉じ込めた」
「閉じ込めた?」
「あぁ。帝はな、5歳になるまでただの一度も館の外に出る事は許されなかったのだ」
「……ただの一度も?」
驚く千紗に忠平はコクりと小さく頷く。
「館の中のごくわずか、限られた者としか関わる事も許されなかった。そのせいで帝は、感情の発達が遅くてな」
「だから表情もなかったと?」
再びコクりと小さく頷く忠平。
「そんな帝が、いつの頃だったか、ご自分から外へ出たい、外の世界に触れたいと望まれるようになった。その頃には、帝の弟であられる成明様もお生まれになって、精神的に隠子も安定しはじめていた頃だったからな、帝の願いが聞き届けられ、少しずつ外の世界へ触れる事で感情を表すようになっていった。最近では、素直に感情を表現されるようになって安心していたのだがな、やはりまだ隠子の過剰な愛情の前ではそれも難しいようだ」
「……………」
初めて知る帝の一面に、千紗は衝撃を受けていた。
だが、今の話で全て合点がいった。そんな気がした。
朱雀帝が、大袈裟なまでに道真に怯える理由。隠子を怖れる理由。
全てはその幼い頃の出来事が、朱雀帝の中で今も心の傷となって残っているのだろう。
初めて知る朱雀帝の過去は、千紗の心に僅かなしこりを残した。




