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時ノ糸~絆~  作者: 汐野悠翔
第1幕 坂東編

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道真と千紗


――坂東

小次郎の屋敷 四郎の部屋


 

千紗が忠平に宛てた手紙にも書かれていた四郎の師、菅原景行すがわらのかげゆきが四郎を訪ね、小次郎の屋敷へと訪れていた。

彼は週に二回程、四郎に学問を教える為やって来る。

そしていつの頃からか、四郎と共に千紗も景行の教え子として学びの場に参加するようになっていた。

その学びの場で弟子二人を前に静かに語られた景行の過去。

千紗は少し躊躇いながらも師と仰ぐ景行に、こんな質問を投げかけた。



「のう、景行殿。そなたの父は……道真殿は、私の父の事も恨んでいると思うか?」



唐突に成された千紗からの質問に、景行は暫し間を置いた後に目を閉じ、静かな口調でこう返した。



「さぁ、私には分かりかねます。父の最後の姿を見送る事の敵わなかった私には」と。



「……景行殿……」



景行から返された言葉からは、怒っているのか憎んでいるのか、それとも悲しんでいるのか。感情を読み取る事はとても困難に感じられて、何ともはっきりしない答えに千紗は俯く。



俯く千紗達の様子を、秋成はどこか心配そうに、いつもの如く庭から見守っていた。

そんな秋成の元に風に乗って微かな囁き声が届く。


 

「おのれ、道真の息子め。千紗姫様をあのように悲しませおって!」

「……?今の声は……」



どこからともなく聞こえて来た憎しみの籠もった囁き声。

キョロキョロと辺りを見回しながらも声の主の姿を探す秋成。

だが、誰の姿も確認はできない。

首を傾げながらも、四郎の部屋の縁側付近に立っていた秋成は、その場にしゃがみ込み今度は軒下を覗き込む。

すると、いつの間にそこにいたのか、縁側の床下には、地に這いつくばるようにして身を隠す、朱雀帝と貞盛の姿があった。



「……お前等、そんな所で一体何してるんだ?」



珍妙な二人の姿に呆れ顔の秋成は、冷たい視線を向けながら、面倒臭そうに二人に訪ねた。



「むむ、うるさいぞ。私達の事は気にせず、お前はお前の仕事を続けておれ!」



間抜けな体制に似合わぬ朱雀帝の生意気な態度。

秋成はまるで二人を馬鹿にでもするかのような視線を向けながら、「へいへい」と短く返事をしながら、何事もなかったように立ち上がった。


秋成の態度を朱雀帝は、全く気にしていない様子だったが、彼の隣にいた貞盛は違った。

秋成の侮蔑にも似た冷たい視線に、急にいたたまれない気持ちになる。

良い歳をして、帝とは言え子供と一緒にこんな所で、自分は一体何をしているのだろうかと。

それまで朱雀帝のどんな我が儘にも大人しくしたがっていた貞盛だったが、この時ばかりは顔を赤く染めながら、絶望感に頭を抱えていた。



「あの寛明様……失礼ながら私もお尋ねして宜しいでしょうか?私達はここで一体何をしているのでしょう?」

「何じゃ貞盛、急にどうした」

「何故我々はこのような所に隠れて、コソコソと彼らの話を盗み聞かねばならないのでしょうか?そんなにあの景行と言う者の話が気になるのでしたら、帝も千紗様達とご一緒に学びを請えば宜しいのでは?」

「そんな恐ろしい事が出来るか!あの者は我が父を殺した道真の息子ぞ!そんな危ない者に近付いたら私の命が危ない」

「では恐ろしいと言いながらも、ここへ来たがる理由は何ですか?怖いのならばそもそも近づかなければ宜しいのではないでしょうか?それをこのような暗く狭い場所に隠れて、しかもこのような醜い格好をされてまで、あの者の話に耳を傾ける理由はなんですか?」

「……それは……怖いけど……気になってしまうのだ。あの者の話が……」



朱雀帝は貞盛からの質問に、自分でも理由が分からないと言った様子で呟きながら、再び上から漏れ聞こえる千紗達の会話へと意識を集中させた。




 ***




「のう、景行殿。そなたの父は……道真殿は、私の父の事も恨んでいると思うか?」

「さぁ。私には分かりかねます。父の最後の姿を見送る事の敵わなかった私には」

「……景行殿……」

「……でも、ただ一つ言える事は――」



その頃、上では――

先程の千紗の問いに、長い時間をかけて考え込んでいた景行が、自身の中で導き出した問いの答えを語ろうと再び口を開きかけていた所。



「生前父は、忠平様の事を友として信頼していた。それだけは、紛れもない事実です」

「……信頼?」



景行の口から出た“信頼”の単語に千紗は、ゆっくりと顔を上げる。

上げた先には、穏やかに微笑む景行の顔があった。



「はい。父は、忠平様に二つの大事なものを預けました。一つは、この国の行く末を。そしてもう一つは……貴方の母君を」

「……母上を?それは一体……どう言う意味じゃ?」



景行の言葉の意味がわからず、キョトンとした顔をする千紗。



「おや、千紗様はご存じありませんか?貴方の母君は、我が父道真にとって娘にあたるお方だと言う事を。私にとっても腹違いの姉にあたります。……と言っても、幼少の頃に宇多天皇の養女となり皇室に入られましたので、実際に会った事はありませんが」




初めて訊く話に、千紗は驚いた様子で首を横に振った。



「……そうでしたか、娘の貴方にも知らされていませんでしたか。まぁ……そうですよね。ただの学者である中級家系の菅原から、天皇家の養女を取ったとあっては天皇家の威信にかかわりますからね。世間的にはあまり知られたくない事だったのでしょう。ですがそれ程までに宇多天皇は父を可愛がり、身分の低かった父に箔をつけようと動いて下さっていました」

「なる程、道真公に向けられたその天皇の信頼が、逆に周囲からは嫉妬や妬みの対象となってしまったわけですね」



景行が語った話に、不意に四郎が横から口を挟む。

彼の予想は的を射ていたのか景行は苦々しく笑っていた。

千紗はと言えば、未だ驚きに目を見開くばかりで、二人の会話もなかなか頭には入って来ていない様子だった。





そしてもう一人、景行の語った話に千紗と同様驚きを隠せない人物が、床下にも――



「寛明様?寛明様、どうなされたのですか?」



景行の話を盗み訊きながら、突然小刻みに震え出した朱雀帝。

彼の異変に気付いた貞盛が彼に呼びかける。

だが、朱雀帝にはもう、貞盛の声は届いていない様子で、焦点の定まらない虚ろな瞳で譫言のようにブツブツと何事かを呟き続けていた。



「……だ。嘘だ………。千紗姫様が………道真の血縁者?……嘘だ……嘘だ……嘘だ……嘘だ……嘘だ………………」

「寛明様?……寛明様?一体どうされたのですか、寛明様?」

「嘘だぁぁぁ~~~!!」



そしてついに朱雀帝は、狂ったように叫び出した。



「な、何じゃ?何事じゃ?」



突然に、どこからか聞こえてきた叫び声に、千紗はビクンと肩を跳ね上げて驚いた。



「寛明様?!寛明様っ?!どうなされたのですか??しっかりして下さい!!」



そして叫び声の後、次に焦りの含んだ呼びかけ声が聞こえて来たかと思うと、朱雀帝を抱き抱えて、貞盛が床下から姿を表した。



「貞盛?!お主、そのような所でいったい何を?!」

「申し訳ございません。千紗様達の話を盗み聞いていた詫びは後ほど致します。それよりも今は、寛明様が……」

「チビ助がいったいどうしたのじゃ?」

「分かりません。急に小刻みに震え出したかと思ったら、突然狂ったように叫ばれて、そのまま気絶なされてしまいました」

「……その方をこちらに」



顔を真っ青に染めながら、落ち着かない様子の貞盛に、景行が冷静に声をかける。

貞盛は景行の指示に素直に従い、朱雀帝を抱えたまま屋敷へとかけ上がると、景行の元へ朱雀帝を預けた。

景行は、朱雀帝を一度横に寝かせると、口元に耳を当て呼吸を確認する。



「寛明様は……大丈夫ですか?もしや本当に、寛明様が恐れていたとおり道真公の呪いにかかってしまわれたのですか?」

「馬鹿を申せ!何でもかんでも道真公の呪いのせいにするでない」



景行の前で、あまりにも失礼な貞盛の発言に、千紗は強い口調で窘める。

 


「そうだよ太郎さん。ちょっと落ち着いて。先生に任せておけば大丈夫だから」



加えて四郎が貞盛を落ち着かせようと千紗に加勢した。

その間、テキパキと朱雀帝の様態を調べた景行は、ほっと小さく息を吐くと、穏やかな口調で診断結果を語り出した。



「大丈夫。体には何の異常も見当たりません。それから、これは呪いでも何でもない。理由は分かりませんが、精神的に追い詰められて一時的な錯乱状態に陥ったのでしょう。このまま静かに、寝かせていれば大丈夫ですよ」

「……良かった」



景行の診断に、貞盛はへなへなと力無くその場に座り込んだ。




「全く人騒がせな。秋成、こやつを部屋まで運んでやれ」

「仰せのままに」 


 

言葉とは裏腹に、秋成に抱え上げられた朱雀帝を見つめながら、千紗もまた安堵の溜め息を漏らしていた。



こうして朱雀帝の無事に、事なきを得たかに見えた。

だが、この時はまだ誰も気付いて居なかったのだ。

朱雀帝の心に巣くっている闇の深さに。




 ***




――数刻後



「…………ん……」

「目を覚まされましたか、寛明様。お加減はいかがですか?」



眠っている間、ずっと彼の傍に付き添っていた貞盛が、朱雀帝の目覚めに気づき優しく声を掛ける。



「……貞盛?私は……いったい………」

「暫くの間、気を失っておったのだ。全く迷惑をかけおって」

「…………」



そんな貞盛の後ろからヒョッコリと顔を覗かせた千紗が貞盛に代わって答えた。

突然目の前に現れた千紗に、朱雀帝の顔がみるみると青ざめて行く。

そして――



「うわぁぁぁ~~~~~…………」



朱雀帝は再び、狂ったように叫び出した。



「なんじゃ、なんじゃ??また、急にどうしたと言うんじゃ?」



朱雀帝の様子に、一体何事かと困惑しながらも彼を落ち着かせようと朱雀帝に向かって手を伸ばす千紗。

だが、それは全くの逆効果だったようで、朱雀帝は落ち着くどころか更に錯乱した様子で、千紗の手を強く払いのけると、まるで千紗から身を守るかのように地にうずくまり、頭を抱えた。

そして、まるで命を狙われているウサギのように小刻みに体を震わせていた。



「……………」



朱雀帝のその態度に、周囲はやっと理解する。

朱雀帝が何に怯えているのか。

そう。あれ程までに懐いていたはずの千紗に怯えていたのだ。



「………チビ助?」



朱雀帝に払いのけられた手を宙にさ迷わせながら、千紗はただただ戸惑うしかなかった。



そしてこの日を境に、朱雀帝は床に伏せる事が多くなり、部屋に閉じ籠り気味の生活を送るようになって行った。

京にいた頃の、幼かった日々のように――







宇多天皇うたてんのう


第59代天皇。在位887~897。

宇多天皇は一度臣籍に下ってから皇籍に戻り、即位したというレアな経歴を持つ天皇です。その裏には当時関白だった藤原基経の思惑があっての事。

宇多天皇は藤原氏との折り合いが悪く、後に藤原基経と衝突し、阿衡事件と呼ばれる政治的いざこざを起こします。この事件の仲介に入ったのが菅原道真で、宇多天皇は道真に絶対的信頼を置くようになりました。

事件の背景には当時藤原氏の権力が大きくなりすぎていた事への危機感があり、この事件を機に宇多天皇は藤原氏を遠ざけ、逆に道真のように藤原氏と関係のない氏族を可愛がるようになりました。

道真が出世できた理由には、この宇多天皇の存在が大きく関わっています。


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