一夜限りの幻か
――夜中
皆が酒に酔い潰れ、眠りについた頃。
焚火の前には、一人ぼんやりと炎を見つめる、小次郎の姿があった。
その背中に静寂の中、声が掛かる。
「小次郎」
「…………」
だが小次郎は、何故かその声に振り返る事も、返事をすることもしなかった。
仕方なく声の主は、小次郎の許可を得る事なく、ちょこんと彼の隣に腰を下ろす。
「お主、久しぶりに会ったと言うに、私の事をあからさまに避けおって」
「別に、避けてるつもりはないさ。……久しぶりだな、千紗」
「誠か?そのわりに今も私の呼びかけに返事もなかったが……まぁよい。そうだな、久方ぶりだ。お主が京を旅だって以来、二年ぶりだ。やっと、やっと小次郎と話が出来た」
そう言って、千紗は嬉しそうに笑った。
そんな素直な千紗の笑顔に、小次郎はと言えば、横目で彼女を見ながら悪態を吐いた。
「二年も経ったって言うのに、お前は相変わらずだな。いや、前にもまして奇妙になったか」
「き、奇妙とは失敬な!」
「貴族の姫君が、なんて格好してんだよ」
「ふ、ふ、ふ、聞いて驚け。この着物はなぁ、母上が昔、お忍びで京の町へと出掛ける際に着ていたものを、父上が貸してくれたのじゃ」
「順子様の……?」
千紗の言葉に、小次郎は初めて忠平と順子に出会った日の出来事が思い起こされた。
あの日の順子の姿と、千紗の姿が重なる。
「ふふふ、母上も昔はお転婆だったのじゃな。そして私もその血を受け継いでおると」
「……」
「因みにこの姿は父上の考案ぞ。坂東までの道中、賊に狙われぬようにとのな。ついでに邪魔で仕方なかった髪も、こうして簪を挿して纏めてみたのじゃ。どうじゃ、似合っておるだろう?」
「………」
「聞いておるか小次郎。似合っておるじゃろ、この髪型?実はな、髪に挿しているこの簪はな、秋成がくれたものでな、私の宝物なのじゃ」
「……秋成が?どうして簪なんて」
「まぁ、話せば色々とわけがあるのじゃが、簡単に言えばこれはやつの優しさの表れと言ったところか」
嬉しそうにそう語る千紗。
そんな彼女へと視線を向けながら、小次郎は小さく首を傾げていた。
「覚えておるか?二年前、私が賊に攫われた日の事。あの日、賊にあう少し前に、市で小次郎と喧嘩をしてしまっただろ?」
「あぁ、そう言えば」
「あの喧嘩の後、市でこの簪を見つけての。小次郎を怒らせてしまった詫びに、これを買おうかと悩み見ていたんだ。その様子を隣で見ていた秋成は、私が欲しがっていると勘違いしたのだろうな。小次郎が坂東へ帰り、落ち込んでいた私に、奴がこれをくれた。わざわざお主からの贈り物だと嘘をついて、な」
「……」
「あの時、突然に小次郎がいなくなって、私が寂しがらないようにと咄嗟に嘘をついたのだろう。小次郎が用意したものだと偽った方が、私が喜ぶと思って」
「…………」
「あやつは時々、変な気をつかう。こんなバレバレの嘘、気付かないわけもないのに」
「………」
「だってそうであろう?今の京に、女子が髪を結う風習はない。簪は男が髷を結い、烏帽子と固定するために使うものだ。垂髪が主流の貴族の女子に、わざわざ贈るようなものではない。これは、貴族の風習に無頓着な秋成にしか出来ぬ芸当だ」
思い出し笑いを浮かべながら、楽しそうに語る千紗。
そんな千紗の様子を、小次郎はどこか悲しみを帯びた瞳で静かに見つめていた。
「だがな、私は嬉しかったんだ。この、あやつの優しさの籠もった贈り物がな。だからこそこれは私の宝物。たとえ奇妙と周りに笑われようと、身に付けてやらねばな」
「…………」
「で、どうじゃ?似合っておるじゃろ?」
「…………」
「何じゃ何じゃ、先程から黙り込んで。お主も何も言ってくれぬのか?秋成にも似合っておるかと訪ねたら、話を反らしてうやむやにしおった。未だ誰も褒めてくれぬぞ」
「…………だな……」
「ん、何じゃ?今、何と申した?」
「千紗は、秋成の話ばかりだな」
「?」
「俺なんていなくても、もう……」
やっと口を開いたかと思えば、声が小さ過ぎて、千紗には上手く聞き取れない。
今一度、小次郎の言葉を聞き返そうと、千紗が口を開いた時――
「帰るんだ。千紗、お前は秋成と一緒に京へ帰るんだ」
小次郎は強い口調で千紗を突き放すような言葉を投げた。
「何故じゃ?何故そのような事を言う?せっかく再会できたと言うのに、何故そんな冷たい事を言うのじゃ?」
「ここは、お前が来るような所じゃない。一日も早く京へ帰るんだ」
ゾクリと背中に悪寒を覚えるような、小次郎の低く冷たい声。
初めて見る小次郎の姿に、千紗は一瞬怯みながらも必死に抵抗を示した。
「小次郎は……喜んではくれぬのか?こうして私や秋成と再会出来た事を。会いたかったのは私だけか?」
「悪いが俺はもう、昔の俺とは違う。京にいた頃のようにお前達と馴れ合うつもりはない」
千紗の必死の訴えに、ぴしゃりと言い放つ小次郎。
彼の冷たい眼差しが千紗に突き刺さる。
人が変わってしまったかのような小次郎の態度に、千紗は言葉を失った。
「……っ」
「分かったな。お前達がこの地に長く留まる事は許さない。京へ帰るんだ」
小次郎からの三度目の忠告。
怯えと戸惑いに震えていた千紗の瞳が、なけなしの虚勢で小次郎を睨みつける。
と、震える声で必死に叫んだ。
「嫌じゃ、私は帰らない!私はお主と、お主の伯父上達との争いを止める為にここまで来た。その戦を止めるまでは絶対に帰らない!!」
「お前に出来る事など何もない。お前は単なる足手まといにしかならない。いいから帰るんだ!」
「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ!!」
千紗と小次郎との平行線な言い争い。
小次郎は小さくため息を吐くと、一度千紗から視線を外し、少し離れた位置にある茂みへ向けて声を掛けた。
「秋成、お前はいつまで隠れているつもりだ?出て来い」
呆れと怒りを含んだ小次郎の呼びかけに、茂みから秋成が姿を表す。
「秋成?!お主、いつからそこに?」
秋成の存在に、全く気付いていなかった様子の千紗は、驚きの声を上げる。
「……申し訳ございません。兄上、千紗姫様」
「謝罪など今はどうでも良い。それより秋成、今の話、聞こえていただろう?千紗を連れて、お前も京へ帰れ」
聞き分けのない千紗に代わって、秋成の説得を試みる小次郎。
小次郎の考えを察して、千紗は必死に秋成に訴えた。
「嫌じゃ、秋成!私はまだ帰らぬ!絶対に帰らぬからな!!」
「秋成、頼む。この我が儘娘を、京へ連れ帰ってくれ!」
「私は帰らぬぞ!絶対帰らぬからな、秋成!!」
千紗と小次郎。二人の視線が秋成に突き刺さる。
「…………」
その視線に耐えきれず暫くの間、無言で俯いていた秋成だった。
――が、不意に顔を持ち上げて、真っ直ぐに二人からの視線を受け止めた。
秋成の顔に、もう迷いはない。
「申し訳ありませんが……」
「私は帰らぬぞ!絶対に帰らぬからな!!」
秋成の口から、今まさに紡がれようとする言葉に身構え、必死に訴える千紗。
秋成は、自分ではなく、きっと小次郎の言う事を聞くのだろうと思っていたから。
今までも千紗の命令は、単なる千紗の我が儘だと、冷たくあしらわれて来たから。
だが、秋成から出された答えは、千紗の予想に反するものだった。
「たとえ兄上のお言葉でも、俺はその言葉に従う事は出来ません。」
「……正気か、秋成?」
秋成の出した答えに、一瞬驚きを見せながらも、小次郎の目が細められる。
「はい、俺の主は千紗姫様です。俺は千紗姫様の命令を最優先に動きます。姫様が帰らぬとおっしゃるのなら、俺はその言葉に従います」
迷いなく小次郎の意に逆らう姿勢を見せる義弟に、小次郎の目は更に細められ、秋成を威圧した。
その鋭く冷たい視線に、秋成は堪らず息をのむ。
「……」
「……俺の知らない間に、立派な主従関係が出来上がったみたいだな。……分かった。ならば好きにしろ。だが悪いが俺はお前達を歓迎しない。坂東は弱肉強食の世界だ。強きが生き、弱きが死ぬ。またいつ戦が起こるともしれん。賊に襲われる事も日常茶飯事。ここにいる間、お前達の命の保証はないぞ。それでも残ると言うのならば、もう止めはしない」
小次郎からの忠告に、秋成は静かに頷く。
秋成の強い覚悟に、小次郎も諦めたように小さく溜息を吐いた。
「分かった。ならば自分達の身は自分達で守れ。自分の大切なものは、自分の手で守り抜いて見せろ。良いな秋成」
「……はい」
「もし、もしも千紗に何かあったその時は……俺はお前を許さないからな」
「……」
“許さない”
そう口にした小次郎の瞳は、殺気すら感じる程に冷たい。
秋成は小次郎の"本気"を感じた。
そして千紗の事を心配するからこそ、わざと突き放すような態度をとっているだろう事も悟った。
小次郎の想いをまっすぐに受け止めて、秋成はコクンと力強く頷いた。
秋成の反応を確認した事で、小次郎は二人に背を向け、二人のもとから離れて行く。
「ま、待て。待ってくれ小次郎」
二人の元を離れて行こうとする小次郎の背中を、千紗は慌てて呼び止めた。
秋成が悟った小次郎なりの気遣いは、どうやら千紗にはまだ届いていない様子で――
「何故急にそんな、私達を冷たく突き放そうとする?この二年の間に、お前は本当に変わってしまったのか?」
急に冷たくなった小次郎へ向かって、千紗は必死に問いかける。
だが、そんな千紗の必死の呼びかけも虚しく、小次郎は歩を止めようとはしなかった。
否定も肯定もすることなく、暗闇へと消えて行こうとする小次郎。
「待て、頼むから何か言ってくれ、言ってくれなければ何も分からぬ。分からぬではないか小次郎!小次郎!!」
兄のように慕っていたはずの小次郎の、初めて見せる突き放すような冷たい態度。
まるで別人であるかのようなその態度に、千紗の脳裏にふっと、貞盛のある言葉が思い起こされた。
――『平小次郎将門。奴は、私の従兄弟であると同時に…………私の父の、仇なのですよ』
とても信じられなかった貞盛の言葉。
けれど今の小次郎ならば――?
千紗の中、小次郎に対して抱いてしまった疑念が、拭いきれない程大きな不安となって膨らんで行く。
そうして不安が大きくなる程に焦りを覚えた千紗は、気がつけば小次郎へ向けて、その疑念をぶつけてしまっていた。
「なぁ小次郎、一つ教えてはくれないか?以前貞盛から、お主が貞盛の父を……お主にとっては伯父にあたる者を殺したと言う話を聞いた。私には到底信じられない話だったが……まさか本当に?」
そんな千紗の言葉に、ついに小次郎の歩みがピタリと止まる。
その後、ゆっくりと振り返った小次郎は、ただ一言。
「……あぁ、本当だ。俺が殺した」
あまりにも冷たい声、冷たい表情で、肯定を示してみせた小次郎。
彼から返された答えに、千紗は衝撃のあまり、思わずその場にへなへなと力なく座り込んでしまう。
「千紗姫様っ」
慌てて駆け寄る秋成。
二人の様子を暫くの間、冷めた目で見つめた後、小次郎はくるりと背を向けて、ついに暗闇へと姿を消して行ってしまった。
「………」
「千紗姫様、大丈夫ですか?」
「知らない……あんな冷たい小次郎など、私は知らない。本当にあやつは、この二年の間に変わってしまったのか……?」
不安、恐怖、悲しみ、苛立ち。
色々な感情に襲われ、困惑した様子で小さく千紗が呟く。
「……姫様……」
そんな千紗を、只傍で見つめる事しか出来ない秋成は、自身の無力さに拳を握りしめた。
もう悲しませたくない。泣かせたくないのに。
昔のように、ただ無邪気に千紗には笑っていて欲しいのに。
力の籠るその手で、秋成は千紗の体を引き寄せると、強く――ただ強く抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫ですよ姫様。兄上は何も変わってなどいない。姫様はただ信じてあげてください。姫様の良く知る兄上の事を――」
*****
――次の日
千紗達は四郎に連れられ、小次郎の屋敷へと招き入れられた。
だが屋敷の主である小次郎は、千紗達と共に屋敷へ帰る事はなかった。
数人の兵を引き連れ、暫くは村に残るらしいと、そう四郎の口から聞かされた。
小次郎との二年ぶりの再会は、一夜だけの呆気ないものに終わった。
●垂髪
結いあげずに垂らしたままの髪のこと。
結い上げない垂髪は平安時代中期から室町時代にかけ、貴族・武家の婦人達の一般的な髪型。




