静から動へ2
賑やかだった昼間の賑わいからすっかり日も暮れ、普段なら屋敷中が床につき、ひっそりと静まりかえっているだろう時刻、亥の刻――
だが藤原の屋敷では、今日に限り少し様子が違っていた。
屋敷中に明かりが灯され、雅やかな楽の音や、楽しげな笑い声で溢れている。
何故藤原の屋敷が、夜も深い今の時刻まで賑わっているのか?
それは今まさに忠平が娘、千紗姫様の裳着の儀が執り行われているからだ。
今は儀式が終わり、祝いの宴が催されているのだろう、屋敷に仕える女達は料理や酒を手に忙しそうに走り回っている。秋成を始め、屋敷警護の任を受けた武士団の男たちは、普段より多く配置され厳重なる警護で屋敷を固めていた。
祝いの宴が催されているのは屋敷主、忠平の部屋であり、屋敷の中心的建物でもある寝殿。
その向かって左側に位置する西対の前庭で、千紗の特別な日であるはずの今日も、秋成は普段と変わらず屋敷警護の任に就いている。
そんな彼の元へ、彼よりふたまわり以上年の離れた武士団仲間の六助が、仕事中だと言うのに酒を片手に訪ねて来た。
「姫さん、今頃綺麗に着飾ってるのかね~。本音は秋成もその姿を見たかっただろう?」
「……六さん、無駄口叩いてないで早く持ち場に戻って下さい。義父上に見つかったら怒られますよ。俺達は今、警護の仕事中なんですから」
仕事中だと言うのに、少し頬を赤らめた顔で秋成に絡んむ六助を、半ば鬱陶しく思いながら仕事に戻るよう促す秋成。
「おいおい、何ピリピリしてるんだ秋成?」
「別にピリピリなんてしていません。六さんが不真面目だから言ってるだけです。義父上に報告されたくなければ早く持ち場に戻って下さい」
「はぁ~、ったくお前は相変わらず可愛げのねぇガキだなぁ。はいはい、わかりましたよ。戻れば良いんだろ、戻れば。……ったく、なんだよ。普段誰よりも姫さんと一緒にいるくせに、宴には参加させてもらえない、可愛そうなお前を慰めてやろうっていう俺なりの優しさだったのに、目くじら立てて怒りやがって」
ぶつぶつと文句を吐きながら、屋敷の灯りが届かない、暗い庭の奥へと消えて行く六助。
彼を見送った後秋成は、美しい音色と賑やかな笑い声が漏れ聞こえてくる寝殿へと視線を向けた。
近いようでいて、遠い存在に感じるその場所を、ぼんやりと遠目に見つめながら秋成は、千紗と供に過ごして来たこの8年と言う長い月日を思い返した――
千紗との出会い、それは死すらも覚悟していた秋成の、辛い幼少期の中偶然にして始まった奇跡のような出来だった。
そして、この厳しい身分社会の中、貴族の姫と家族のように過ごしたまるで夢物語のような日々。
そんな日々の中、思い返せば腹の立つこともたくさんあった。
我が儘な姫に振り回されて、ほとほと呆れる事もたくさんあった。
毎日のように喧嘩をして、喧嘩の数だけ仲直りをした。
気が付けば、いつの間にか大嫌いだったはずの姫君が、守りたいと思う大きな存在へと変わっていた。
大切な人だからこそ、いつまでも側で、彼女を守り続けたい。
その思いを強く自覚したから今だからこそ秋成は、この瞬間千紗と築いて来た関係性を今後大きく変革する
決意を固める。
静かに目を閉じ、8年間の思い出詰まった景色を秋成は静かに胸にしまった。
ちょんちょんと、一人目を閉じる秋成の肩先に、誰かが指でつついて来る。
そんな感触に秋成は驚き振り返った。
「っ?!」
振り向いた先、秋成の前に立っていたのは、以前は賊として秋成に刀をつきつけられ、数日前からこの屋敷の侍女おなった少女、ヒナだった。
ヒナは突然振り返った秋成にビクンと大きく肩を飛び上がるらせながら怯えた視線を向けていた。
「……なんだお前か。脅かすな」
「………」
秋成の、たったそれだけの言葉でさえも脅え震えるヒナの様子に秋成は苦笑いを浮かべ呟いた。
「怒ったわけじゃないんだが……すまない」と。
そう呟いて、ポンポンとヒナの頭を軽く撫でてやる秋成。
背の低い彼女がどこか小動物のように見えて、何の気なしにただ反射的にとった行動だったのだが、
それさえも、ヒナを怖がらせてしまうらしい。
再びの苦笑いを浮かべながら秋成は、すぐにヒナから手を離した。
この娘は、何故こんなにも怯えながら、苦手な自分の元へとわざわざやってきたのだろうか?
不思議に思いながらヒナをじっと見つめていると、ふと彼女が手にお盆を持っている事に気付いた。
そのお盆の上には、にぎり飯が数個、乱雑に乗っている。
「あぁそうか、警護にかり出されてる奴らに、夜食を配って歩いてるんだな?」
秋成の言葉にヒナはコクンと小さく頷いた。
「そっか」
秋成のことを怖がりながらも、彼女は必死に与えられた仕事をっやりとげようとしているのだと理解した秋成。どこか小動物のようで、可愛い様子の彼女の頭に、ついつい無意識に手を伸ばしてしまうのだが、今度もやはり怯えを示したヒナに秋成は急いでそれを止めた。
ギュッと目を瞑り、秋成が与えるだろう衝撃に備えていたヒナだったが、なかなか降ってこない感触に恐る恐る目を開ける。
やっと目を開け視線の合ったヒナに向けて、頭を撫でる代わりに「ありがとう」の言葉を贈った秋成。
間近で初めて見る秋成の穏やかで優しい微笑みに、ヒナは一瞬見惚れながら、ポッと頬を赤く染めていたのだけれど、庭に灯る松明の灯りに紛れて、秋成はそれに気付かなかった。
「これ、全部お前が作ったのか?」
秋成からの問いかけ。
彼の笑顔に見惚れていたヒナが慌てて首を左右に振る。
その後で、両手で持っていたお盆を片手で持ち替え、ある一つの握り飯を指刺した。
一つだけ、どこが不格好な形をしたにぎり飯。
きっとこの一つだけが、ヒナの作ったにぎり飯なのだと伝えているのだろう。
秋成は、その不格好な一つをひょいと掴み上げて、ぱくんと一口かぶりついた。
「っ………」
まさか秋成が、自分の作った不格好なにぎり飯を食べると思っていなかったヒナは、声にならない声を上げ驚いた。
「うん、旨い。形は悪いが味はなかなかだ」
一言、それだけ呟いて、もぐもぐと美味しそうにヒナの作ったにぎり飯を食べきった秋成。
始めは秋成の食べる様子をオロオロしながらで見守っていたヒナだったが、秋成から出た旨いの言葉に、どこか照れた様子で嬉しそうに微笑んでいた。
***
その頃、千紗の裳着を祝う宴が行われていた寝殿の広間では――
大分酔いの回った大人達の目を盗んで、宴の席から抜け出そうと席を立つ千紗の姿が。
「姫様どちらに?」
誰にも気付かれずこっそり抜け出すはずが、思いがけず後ろから掛けられた侍女の声に、ギクリと体を強張らせる千紗。
「…………ちょ、ちょっと厠へな。恥ずかしい事を、いちいち言わせないで察してくれ」
「そうでしたか。それは大変失礼いたしました。私、てっきり姫様が宴を抜け出すおつもりなのかと思いまして」
全くもってその通りなのだが
「な、何を申す。そのような事、全く考えてはおらぬよ」
引きつった笑顔で千紗は嘘を突き通した。
「ならば宜しいのですが、今日の主役は姫様なのですから、早く戻って来て下さいましね」
「うむ、分かっておる」
怪まれながらも、何とか誤魔化し宴の席を抜け出した千紗は、腰に裳を巻き、簪や櫛で前髪を上た
、大人の女性の仲間入りを果たした新たな出で立ちで、今までと全く何ら変わらず屋敷の中、秋成の姿を探し彷徨い歩いた。
その後ろを、人につけられているとも知らずに――
「秋成~どこにおるのじゃ~?」
宴の部屋を出て、秋成の名を口にしてはいくつか屋敷内の場所を訪ね歩いた千紗だったが、自室である西対へとやってきた所で、庭に立つ秋成の姿をやっと見つける事ができた。
秋成の隣には、彼と共に嬉しそうに微笑むヒナの姿も。
「ん?あやつら、いつの間に仲良くなったのだ?」
庭に設置された松明の火に照らされ、何とも仲の良さげな秋成とヒナ。
普段無愛想な秋成が自分以外の女子と話し、笑顔を向けている姿は珍しくて、何故だか千紗は一瞬、胸がチクんと突き刺さるような痛みを感じた。
「?」
胸のあたりを摩りながら、初めて感じる痛みに一人首を傾げる千紗。
だが、さほど気にする事もなく千紗は秋成へと声を掛ける。
「お~い、秋成~!見よ、裳着を終えた妾の姿じゃ。お主にも見せてやろうと思って来てやたぞ」
予期していなかった突然の千紗の来訪。
秋成はヒナをその場に残し、慌てた様子で彼女の元に掛けよって行く。
若干の怒気を含んで駆け寄ってくる秋成の形相に、また昼間のように小言を言われるのかと、身構えた千紗だったが、千紗の予想に反して、秋成がとった行動は意外なものだった。
「これは千紗姫様。裳着の儀、お疲れ様でした。心からお祝い申し上げます」
地面に片膝を付き、千紗に向かって深々と頭を下げ、畏まった口調で祝いの言葉を口にした秋成。
彼らしからぬ行動に、ぎょっとした顔で千紗は秋成を見下ろし固まる。
「……お主、どうしたのだ?そんなに畏まって。もしかして、熱でもあるのか?」
「そのような心配には及びません。俺はいたって平静ですし、熱もございません」
「ならば何故そのうような気持ち悪い口調で話す?」
「恐れながら申し上げます。今は宴の時間。貴方様がこのような場所におられるのは似つかわしくないかと存じますが」
「それは妾の問いの答えになっておらぬ!今すぐその話し方を止めろ!お主には似合わない!」
「申し訳ございませんが姫様」
「これは命令ぞ、今すぐその口調を止めろ!それから姫などと……お前がそんな他人行儀な呼び方をするな!一体どうしたと言うのだ秋成?」
突然の秋成の変貌に、千紗は戸惑い罵倒する。
だが秋成は、千紗へ対しての畏まった口調と態度を、決して止めることはしなかった。
ゆっくりと、だがしっかりした口調で、千紗が裳着の儀を行う間に己が心の中で固めた決意を語り始める。
「………千紗姫様、覚えておいでですか?貴方が賊に誘われ大騒ぎとなった日、俺は貴方と約束しました。俺はこの先も貴方様の側に寄り添い、貴方様を守り続けて行くと」
「勿論覚えておる。お主は……お主だけは、変わらずに妾の側に居てくれるとあの日約束したな。そしてお前はこうも言った。周りが変わって行ってしまう中で、世の中には変わらないものも確かに存在するのだとと。妾との約束を守り続ける事で、お主はそれを証明してくれるのだと。なのに……その態度は何だ?お主の方こそ、その約束を忘れたのか秋成?」
「いいえ、忘れてなどおりません。勿論生涯を掛けて、貴方様との約束を果たし続けていく覚悟です。だからこそこれは、俺なりのけじめです。」
「けじめ?」
「はい。あの約束は、俺が貴方様の従者となる事を決意し、誓った現れでもあるから……」
「主従関係など、私はそんな関係望んではいない!私はお主の事を、友と思っているのだぞ秋成。お主とは今までのように友として側にいて欲しいのだ!」
「勿体なきお言葉。ですが姫様、それは出来ません」
「何故だ?何故出来ぬ?」
「俺と貴方では、身分が違うから」
秋成が口にした言葉に千紗は絶句する。
秋成もまた、小次郎と同じように身分を言い訳にするのかと。
「……どうして……どうしてみんなして、身分身分と……身分など関係ない。今までお主と築いて来た関係は、そんなくだらぬ言い訳で無くしてしまえる程薄っぺらなものだったのか?」
「いいえ。俺も貴方様の事を、かけがえのない友だと思っております。だからこその決意でありけじめなのです。裳着をなされた今、貴方様は世間から大人としてみられましょう。今まで子供だからと許されて来た事柄も、きっと許されなくなる」
「そんな事は……」
ないと続けようとした千紗の言葉を遮って秋成が言った。
「ありますよ。現に今、あなたは供もつけずにここへきた。それは何故ですか?後ろめたい事柄だからではありませんか?周りの大人達に怒られる事だと、自覚しているからではありませんか?」
「っ……」
何か反論しなくてはと口を開くも、秋成の言う通りであったから千紗は、何も反論する言葉が出てこなかった。
「だからこそ俺は、従者となる決意をしたのです。この先も貴方の側に居続ける為に……貴方との約束を果たす為に。従者としてなら、この先も俺は貴方の側にいることが許される。逆に従者としてしか、俺には貴方を守る事が出来ない」
そこまで言って、やっと秋成は顔を上げた。
そして千紗に向かってふっと微笑み優しい口調でこう言った。
「大丈夫。そんな悲しい顔をなさられないで下さい。形は変われど、俺たちの絆は変わりません。違いますか千紗姫様」
今までと変わらない秋成の温かく優しい言葉と笑顔に、不安で押しつぶされそうになっていた心にも、少しだけほっと安心するような気持ちが戻ってくる。
でも、それでもまだ突然の秋成の変貌に、頭の中整理しきれていない様子の千紗は、不安と哀しみに眉を歪めていた。
つい数日前まで、小次郎と秋成と、三人でいる事が当たり前だった。
それが、小次郎がいなくなり、続いて秋成までもが、正式に主従となる道を選ぶと言う。
急速に変わり行く周りの変化に、いくら頭で理解しようと努めても、15歳と言うまだ幼い千紗の心までもは追いついて来ない。
秋成と小次郎、幼い頃共に時間を過ごし、友とも家族とも思っていた大切な二人との関係。
この先も思い描いていたはずの未来が手のひらの中から零れ落ちていく。
何故、こんな事になってしまったのだろうか?
何処ですれ違い、何を間違えたと言うのだろうか?
哀しみに打ちひしがれる千紗は、秋成の覚悟とは対照的に、もう戻る事のできない過去を嘆き、一人哀しみに震えていた。
「これはこれは千紗姫。このような所でそのような下賎の者と何をしているのですか?」
千紗が、突然の秋成からの宣言に戸惑い、葛藤していたその時、不意に後ろから千紗に声が掛けられる。
予想もしていなかった事柄に驚き振り向く千紗だったが、不思議な事に千紗が振り向いた先、そこには誰の姿も確認できなかった。
「……?空耳か?」
「失礼な!千紗姫様、ここですよ、ここ!」
空耳かと、危うく無かった事にされかけた己の登場を必死に千紗に認めさせようと、声の主はピョンピョン跳びはねその存在をする主張する。
「……子供?」
飛び跳ね主張した人物は、身長が千紗の胸元程の高さの男の子で、歳は、10歳前後と言ったところだろうか。こんな子供が、こんな遅い時間に、我が藤原屋敷で、一体何をしているのだろうか?千紗はい訝しむ。
身なりからして、それなりに格式ある家の者ではある事は分かった。が千紗は先程この子供が秋成の事を下賎と蔑んだ事に腹が立って、格式ある家の子であろうと、冷たくあしらう事を決めた。
哀しみ、落ち込んでいた感情を一時手放し千紗は秋成に言う。
「秋成、屋敷にこのような生意気な小童の侵入を許しおって。お主はちゃんと警護の仕事をしておったのか?」
「も、申し訳ございません、姫様。」
「だからその話し方はよせと……まぁ良い。その話は今は横に置いて、それよりもこのクソ生意気な小童を早く妾の前から消してくれ」
子供の着物の襟をぐわしっと掴み、庭先の秋成に向けてつまみ上げる千紗。
「承知致しました」
主の命に、秋成は一礼すると、千紗から子供を引き取り、庭へと投げ捨てる。
その間、二人にぞんざいに扱われた子供は顔を真っ赤にして暴れ回った。
「何をする、この無礼者!我を誰か知っての狼藉か?!聞いて驚け、我が名は――」
「お前がどこの誰かなんて興味はない。誰であろうと俺は、姫から受けた任務を遂行するまでだ。良いから大人しくしろ」
なかなか大人しくならない男の子の頭をポカンと軽く殴る秋成。
あまりの仕打ちに男の子は驚き、頭上の遙か上にある秋成の顔を睨み上げた。
睨んだ所で全く怖くはない。
だが、威勢と口だけはいっちょ前で――
「お前!!我に対してなんたる無礼な振る舞いを。このような事をして許されると思っているのか?!覚えておけ、後で必ず後悔させてやるからな!!」
大声でキャンキャン吠える子供の金切り声に、ついには騒ぎを聞き付け、武士団の者達から宴に招かれた客人達まで、多くの者がわらわらと集まってくる始末。
「何だ何だ、いったい何の騒ぎだ?」
「うるさいぞぉ、せっかくの旨い酒が台なしだ」
真っ赤に顔を染めながら、よろよろと覚束ないあしどりで野次馬に来た貴族の殿方達。
だが、秋成とその子供の姿を目に写した瞬間、赤かったはずの顔が皆一気に青ざめて行った。
「……こ、これは……」
悲鳴にも似たどよめきを上げながら、子供を指さし、わなわなと恐怖に震え始める貴族達の反応に、一体何事かと秋成は子供を見る。
だが秋成から見たら、やはりどこにでもいそうな普通の子供。
それなのに、大人達のこの反応は?
意味がわからずポリポリと頬をかく秋成の頭に、次の瞬間、もの凄い威力でげんこつが落とされた。
「秋成~~~!お前は……なんと言う事を……」
「痛っっ……て、義父上?突然何を」
「何をじゃない!今すぐこの方に謝罪しろ!!」
「???」
わけもわからず強引に、義父であり藤原家が雇う武士団の頭領であり総司令官でもある男に座らされ、頭を押しつけられ謝罪を強要される秋成。
秋成を押さえつける義父もまた、彼と同じように地面に膝を付き、頭をこすりつけ謝罪する。
普段、武士団の者達に恐れられながらも慕われている義父の、威厳のかけらすら感じられぬ姿に秋成はわけが分からず抵抗を示した。
「何故謝る必要があるのですか、義父上?俺はただ姫様の命を受け、その子供を屋敷の外に連れ出そうとしただけですよ」
「馬鹿者が!何があろうと御上に対して無礼を働くなど許されぬわ!!」
「…………御上?」
義父の口から出た、“御上”の言葉に、秋成もやっと大人達の青ざめた理由を理解した。
御上とは言わば、天皇の事。
天皇がこの国において一番偉い人物であると言う事は、流石の秋成も知っていたから。
「……ってこいつが?!」
驚き声を上げる秋成。
「だから口を慎め、この馬鹿息子が!!」
義父によって再び落とされたげんこつ。
自分を蔑み、ぞんざいに扱った男の制裁を受ける姿を満足気に見下ろしながら、御上と呼ばれた男の子は勝利に満ちた笑顔で微笑んだ。
「よいよい。知らぬ事とあらば仕方あるまい」
「これは……慈悲深いお言葉、心から感謝いたします」
「我は心が広いからな、感謝しろよ秋成とやら。それよりも千紗姫」
そして、意外にもあっさりと秋成の無礼を許した帝はすかっり上機嫌で、くるりと体を千紗の方へと向けたかと思うと、ニコニコと嬉しそうにこう続けた。
「お久しぶりです、千紗姫。今日は従兄弟として貴方の裳儀を祝うべくお邪魔しました」
「……悪いが、久しぶりなどと声を掛けられるいわれはない。お主の事など妾は知らぬ」
「千紗様、帝にそのような言葉使い……」
帝と千紗のやり取りを、はらはらした様子で見守っていた一人の侍女が千紗を窘める。
だが帝は、千紗の無礼には秋成の時とは違い、全く怒る様子を見せなかった。
「よいよい。千紗姫ならば、どんな無礼であっても我は許すぞ。なにせ姫と我は……ふふふふ」
「おい、何を気持ち悪く笑っておる。だからお主の事など妾は知らぬと言っているだろう。なれなれしく話しかけるなこのチビ助が!」
「チ、チビ……」
千紗が言い放った言葉に流石の帝もピキピキッと額に筋が立つ。
その場にいた皆までもが凍り付いた。
「チビ助と言われて怒ったか?だが悪いが妾は謝らぬぞ。生意気なガキを妾は好かんのだ。さっさと妾の前から失せろ」
「なっ……人が下手に出ていれば……酷いではありませんか千紗姫!」
「お前だって先程秋成の事を下賎の者だと愚弄したではないか」
「それは、本当の事なのですから仕方がありません」
「ならばお主もチビなのだからチビと呼ばれても仕方ないな」
「我は天皇なのですよ。この国で一番偉い天皇!」
「ならば余計に民を愚弄する呼び方は許されぬのではないか?」
「何故に?」
「お主はその民達が収める税で政を行っているのでだろう。ならばお主にとって民は感謝すべき相手ではないのか!」
「ぐっ……」
ついに、千紗に反論できなくなった帝は悔しげに口をつぐんだ。
そんな帝に対して千紗はふんと鼻息を荒くする。
そして更に帝を窘め、千紗に見方する声が外野からも加えられる。
「これ寛明、せっかくの千紗殿の祝いの席でおよしなさい。そのよな事を申していると、千紗殿に嫌われてしまいますよ」
突然の割り込みに、その場にいた皆が一斉に声の主へと視線を向ける。
皆の視線が集まる先には、千紗の見知らぬ、高貴な出で立ちの女人と、父忠平の姿。
「父上……」
「母上~」
千紗が忠平を呼ぶ声と、ほぼ同時に重なった“母”と叫ぶ声。
叫んだのは帝だ。
千紗に言い負かされた帝は、突然二人の間に割って入った“母”と呼ぶ女人の元へと掛けて行く。
帝の母と言うことは、皇太后と言うことか。
追いつかない思考で呆然と帝と皇太后、二人の姿を眺めていた千紗だったが、女人の隣に立つ忠平と目があった時、千紗はギクリと反射的に視線を反らした。
父の表情が、呆れているような、静かに怒っているような、そんな顔をしていたから。
「千紗姫、ごめんなさいね。見ての通り、この子はまだ子供だから、教育がなってなくて。どうか今日のことは大目に見てあげてくださいな。この子は昔っからあなたの事が大好きだったから、あなたの気を引きたくて必死だったのよ」
「……な……は?すっ?!」
皇太后の登場に、千紗は己が無礼を咎められるかと思いきや、まさかの事を言われてポカン拍子抜けする。
反対に帝は、狼狽え顔を真っ赤にして怒った。
「は、母上、何故今、このような場所で言ってしまうのですか!」
「あら寛明、あなたが千紗姫に誤解されそうだから助けてあげたのではないですか」
「だからって、こんなにも大勢の人が居る前で……」
「あらあら、そんなに顔を真っ赤にして、可愛い子」
「子供扱いするのは止めてください!」
「そうです、皇太后様。そのお話はお断りしたはず」
「あら兄上、今は婚約をしてくれとは言っていないでしょう?ただ、この子が千紗姫の事を好きだと申しただけ。人を思う気持ちは自由。私は寛明の応援をしたにすぎませんわ。千紗姫の気持ちが、寛明に向けば先日お願いした婚約の話だって何の問題もなくなるのでしょう?」
「それは……」
帝と忠平、二人の権力者をタジタジにさせながら、一人帝の母であり、忠平の妹である隠子は楽しげに笑っていた。
帝への無礼に始まり、皇太后の登場、更には思いがけず聞かされた帝の暴露話に、野次馬に集まっていた者達もげっそりと疲れきった顔を見せ始め、そろそろ宴もお開きかと、一人楽しげな順子がその場を終息へと向かせる。
「さて、皆様もすっかり酔いが覚めた様子。宴も今日はお開きかしらね。では寛明、私達はそろそろ帰りましょうか。千紗姫、今日は久しぶりに会え嬉しかったは。是非また会いましょうね」
「は、はぁ……」
ひらひらと千紗に向けて手を振り、帝と二人その場を去って行く隠子のおおらかさに圧倒されながら、千紗は見えなくなるまで、まるで嵐のようだった親子二人を見送った。
帝と隠子の退散に、疲れ切った様子の他の客人達も一人、また一人と藤原の屋敷を後にして行く。
こうして千紗の裳着の儀式は、大騒動の末に幕を閉じた。
小次郎の旅立ちをきっかけに、平穏だったはずの千紗と秋成の暮らしに少しずつ変化をもたらし、そして3人の国をも巻き込んだ運命の歯車は、ゆっくり、ゆっくりと動き出して行くのである――




