千紗の決意
――時は再び小次郎がいなくなった3日後に戻って
「千紗? や~っぱりここにいた。お前が部屋から姿を消したって、今下は大騒ぎになってるぞ」
「…………」
藤原館の奥座敷、その屋根の上で膝を抱え、小さくうずくまった姿で顔を伏せていた千紗。屋根にかかる梯子を登り、秋成が探していた彼女の姿を見つけて声を掛けた。
一瞬だけ顔を上げ、チラリと秋成の方を見るも千紗は再び無言のまま顔を伏せてしまった。
「夜も近付いてきた。ここじゃ冷えるだろ? 部屋へ戻ろう?」
「………」
千紗の無反応に、負けじと秋成も再び呼びかける。
だが千紗は、今度は顔を上げることもせず秋成の呼びかけを無視し続けた。
小次郎との突然の別れを聞かされた後、千紗は「一人になりたい」と忠平やキヨを始め、その場にいた皆を遠ざけた。
もちろん、秋成も例外ではなく、千紗は自身の部屋に御簾を下ろし、秋成さえも近づく事は許さなかった。
焦心しきった千紗が、部屋に閉じこもってどれくらいの刻が過ぎた頃だろうか。千紗に夕餉を運びに来た際、侍女が千紗の不在に気付いた。
昼間の千紗の様子を屋敷の皆が気に掛けていた事もあり、それは直ぐさま騒ぎとなり屋敷中に広まった。
そして今に至るわけだが――
「……千紗? 千~紗! 聞いてるのかお前?」
「…………」
梯子か屋根に移り、千紗の左隣に腰掛けた後も、秋成はずっと千紗の名を呼び掛け続ける。
だが秋成がいくら呼んでも何の反応も示さない千紗。
ずっと抱えた膝に顔を伏せて、顔は見えないが、まるで泣いてしるようだ。
予想通りの千紗の落ち込みよう。
秋成からは思わず溜息が零れた。
そして、もうここには居ない小次郎を思い浮かべながら、千紗には聞こえない程の小さな声で義兄に対する愚痴を呟いた。
「だから千紗に何も告げずに行くのはやめてくれって言ったんですよ、義兄上。こんなに落ち込んでるこいつを、俺がどうやって励ませって言うんだ、まったく……恨みますよ義兄上」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる秋成。
その時ふと、千紗の手に一枚の紙切れが握られている事に秋成は気付いた。
「……千紗、それは? その手の中の……」
思わず疑問を言葉にしてみると、俯いたまま、全く反応を示さなかった千紗がゆっくりと顔を上げ、握りしめた“それ”に視線を落としながら、初めてポツリと答えを返してくれた。
「…………小次郎からの文じゃ。枕元に……置いてあった」
「兄上からの?」
千紗の口から出た思わぬ言葉に、秋成は驚きに目を見開き、一瞬表情を強張らせた。
そして、手にしていたものをそっと左の袖に忍ばせた。
「あ、義兄上は何て?」
「謝っておる。側にいられなくてすまないと。それから……」
「それから?」
「いつか戻ってくるからと。妾に相応しい男になって戻ってくるから……待っていて欲しいと」
「………」
『待っていて欲しい。』小次郎が千紗へと残した言葉を聞かされて、何故か秋成は胸が締め付けられるような、そんな不思議な感覚に襲われた。
だが、一瞬襲われた不思議な感覚に疑問を覚えながらも、今度は千紗の方から問い掛けられた言葉に、抱いたはずの疑問もすっと何処かへ吹き飛んで行く。
「それより秋成、お主はよく妾の居場所が分かったな」
「そ、そりゃ~お前には前科があるからな」
「前科? そう……だったか?」
「おいおい、覚えてないのか?ほら、義兄上が遣非違使になったばかりの頃、義兄上の気を引こうと今みたいに家出騒動を起こした事があったじゃないか。その時もこうして同じ場所、普段使われていないこの奥座敷の屋根上で――」
「夕日を眺めておった。そう言えば、そんな事もあったな。妾は本当に……何も変わっておらぬのだなぁ」
一瞬見せた千紗の笑顔。
顔を上げ夕日に向けられ照らされたその笑顔が、秋成の目にはどこか寂しそうに映って見えた。
「……千紗?」
胸騒ぎから彼女の名を呼ぶ。
だが千紗は、秋成の胸騒ぎなど気付かない様子で構わず
話を続けた。
「秋成は、知っておったか? 小次郎が遣非違使になった理由を。役職にこだわっていた訳を」
「……あぁ」
秋成も知ったのは、つい最近の事だったのだけれど、そこには敢えて触れずに秋成は肯定の意を示した。
「そうか。妾だけが知らずに、あやつを困らせておったのだな。己の幼さが誠情けない」
「…………千紗」
「あやつには背負っているものがあったと言うのに、京に取られるだのと自分勝手な我が儘で散々あやつを振り回してしまった。なんと子供だった事か。それなのにあやつは、こんな妾を見捨てずに妾の我が儘に付き合い続けてくれていたのだな。國に帰る事になっても、こうしてまだ我が儘に付き合おうとしてくれる。それを嬉しく思う半面……その優しさについ甘えてしまいそうになる自分を情けないと思った」
「…………」
寂しそうに語る千紗に、秋成は何と言葉を返すのが正解なのか分からなくて、言葉に詰まった。
だが、相変わらず秋成の戸惑いになど、構う事なく千紗は言葉を続けた。
「覚えておるか? 市へ行く道中、おぬしに問うた言葉を」
突然の千紗からの問いかけ。
一瞬何の事を聞かれているのかピンと来なかった秋成は、ゆっくりと記憶を手繰り寄せて行く。
そして、思い当たる一つの言葉を思い出した。
「どうして人は……変わってしまうのか?」
秋成が導き出した答えに千紗は小さく頷く。
「今ならば、その答えが分かる気がする。人は皆、それぞれに背負う物があって、進むべき道がある。目指す物が違うのだから、変化が生じるのは当たり前。どんなに居心地がよくても、変わらずにいる事など……出来るはずもなかったのだ」
千紗の口から紡がれる千紗なりの考え。
だが秋成には、千紗が導き出した答えの意味を理解する事は出来ても、納得する事は出来そうになかった。
そう語る千紗の顔が、あまりにも寂しそうに見えたから。
「周りが変わろうとして行く中で、いつまでも目を反らし続けているわけには行かないのだと、妾自身も変わらなければ行けないと言う事にやっと気付いた。妾だけがいつまでも子供のまま、周りを振り回して、足手まといとなっているのは嫌じゃ!」
胸の内を吐き出しながら、千紗の手紙へと落とされていた視線が突然秋成へと向けられた。
千紗の真剣な眼差しが、真っ直ぐに秋成を捉える。
「だから決めたぞ。妾は裳着をする。これ以上小次郎に置いていかれぬよう、妾も大人になりたい」
「っ!」
「次に小次郎と再会した時、呆れられないよう立派な人間になっていなくては! それに久しぶりに会った時、大人の女に成長した妾の姿に驚く奴の顔を見ると言うのも一興。子供だなんだと、散々馬鹿にした事を後悔させてやるのじゃ!」
突然の千紗の宣言に、秋成は驚きに目を見開く。
彼を驚かせておきながら当の本人は、先程までの真剣な顔から一変、悪戯を思いついた幼子のように笑っていた。
だがその笑顔は、今までの千紗のものとは明らかに違っている。
秋成にはそう感じてならなかった。
「お前は、本当にそれで良いのか?」
「あぁ」
「お前今、無理して笑っているだろう? 本当にそれで……いいのか?」
「…………」
「そんなに急いで大人になろうとしなくても良いんじゃないか? 無理に物事を納得しようとしなくても……お前は、お前のままで良いんだ。義兄上だって、嫌々お前の我が儘に付き合ってた訳じゃない。本心からお前の側にいたいと願ったから」
「秋成っ……」
突然の千紗の宣言を受け入れられず、秋成は必死に千紗を説得する為の言葉を並べた。必死なのかどんどんと早口になっていく秋成の言葉を遮って、千紗が彼の名を口にする。
だがそれさえも遮って秋成はこう続けた。
「お前は心のどこかではまだ願っているんじゃないのか? 変わらずにいる事を!」
「っ………」
秋成の言葉は、千紗の核心をついていたのか千紗の目は大きく見開かれ、一瞬切なげに瞳が揺れる。
迷いを見せた千紗の気を、何とか変えられないかと秋成は必死な説得を続ける。
「俺はあると思う。変わらないもの。お前が信じたいと言うのなら俺はっ――」
「良いのだ、秋成。もう、決めたのだ。妾は大人になると……決めたのだ」
だが、秋成の必死の説得も虚しく、千紗は再び秋成の言葉を遮り、自身をも納得させるかのようにそう口にした。
彼女の瞳にはもう、先程までの戸惑いはなかった。
真っ直ぐに揺るがない瞳を秋成に向けるている。
千紗の覚悟を固めたその瞳が秋成の中、国へ帰ると告げた小次郎のものと重なる。
あぁ、千紗もまた小次郎と同様に、己の本当の気持ちを犠牲にして、生まれながらに定められた道を歩く覚悟を決めたのだと、秋成は悟った。
きっともうこの決意は揺るがない。
「………そっか。分かった。もう、何も言わない」
諦めたように秋成は千紗から視線外すと、そのままゆっくりと暮れゆく夕空を見上げた。
そして旅立つ前、小次郎に言われた言葉を思い返しながら、千紗に語って聞かせた。
「義兄上がここを去って行った日にな、最後に義兄上に言われた言葉があったんだ。俺は何も縛られるものがなくて羨ましいって。自由で羨ましいって。あの時は、言葉の意味が良く分からなかったんだけど……お前の覚悟を聞いてその言葉の意味が、今何となく分かった気がする」
「?」
「義兄上もお前も、俺とは違って生まれながらに背負っている物があると言う。それがずっと俺にはカッコ良く見えて、憧れていた。けれど、生まれながらに手にしていた立場だったり、定めってものに抗おうとしながらも、抗いきれずにもがいてるお前や義兄上の姿を見ていたら、義兄上の言う通り俺は何も持っていなくて良かったんじゃないかと思った。何も持たない俺だからこそ出来る事がある」
「秋成だら……できること?」
秋成が言わんとしている事が分からず、首を傾げている千紗。
秋成はそんな彼女に再び視線を戻すと、迷いの晴れた顔でニッコリ微笑み言った。
「そう、俺が証明してみせてやるよ。お前が信じたかった“変わらないもの”が、世の中にはきっとあるって事を」
「……どう……やって?」
「約束したろ? 俺は今と変わらずお前の側でお前を守って行くって。俺とお前の間には変わらない約束がある。時の流れの中で確かに変わってしまうもの、変わらなければいけない事もあるかもしれない。でも、変わらないものだってきっとあるはずだ。お前との約束を守り続ける事で俺が必ずそのことを証明してみせてやるよ」
大人への階段を上る中で、様々な思いを飲み込んで”変わる”決意をした千紗。
彼女の想いを汲みながらも、千紗の側で自分だけは”変わらずに居続ける”と言う覚悟を示した秋成。
彼の強さと優しさに、千紗は目頭が熱くなるのを感じた。
今にも溢れてしまいそうな物を堪えるべく急いで空を見上げた千紗。
「……ありがとう……秋成。ありがとう……」
秋成の着物の袖をギュッと掴みながら、さやさやと心地よく吹く風に消されそうなくらいの小さな小さな声で、千紗は感謝の言葉を口にした。
主からの言われ慣れぬ言葉に、照れ臭さを覚えながらも秋成は、笑みを深くして微笑んだ。
だが秋成のこの決意が、後に彼の足枷となり、彼を苦しめるものになるだろう事を彼はまだ知らない。
自分の気持ちに、気付いていない彼には――
「ところで秋成、お主の袖の……この何やら細く硬い物体は何だ?」
「えっ?!」
千紗の気分も落ち着いて、事態は無事終息を迎えるかと思われた矢先、千紗から投げかけられた突然の質問に秋成の声は裏返る。
「お主何だその声は? 怪しいなぁ。ここに何を隠しておる?」
「ああああ怪しくなんてない! べべべ別に何でもない。何も隠してなんてない!」
秋成の明らかな動揺に、千紗は呆れながら言った。
「相変わらずお主は、嘘が下手じゃな。目が泳いでおるぞ」
「………」
「ほら、何を隠しておるのじゃ。 早う見せろ」
「嫌だ! こんなの、見せるようなものじゃ……」
「良いから、見せてみよ!」
「嫌だっ!!」
強い口調で強要する千紗。
秋成の袖に強引に手を突っ込んで奪おうとするも、秋成は必死に抵抗して千紗の侵入を拒む。
「主に口答えする気か? これは命令ぞ! 良いから見せてみよ!!」
「い~や~だ~~~!!」
平行線な争いに、二人は互いに睨み会う。
すると不意に千紗が「あっ!」と大きな声を上げて、赤く染まる空を指差した。
その声と動作に、「えっ?」と短く声を上げて秋成は、ついつい千紗の指し示す方へと視線を向けてしまう。
その時生まれた一瞬の隙をついて、千紗は秋成が必死に隠していたある物を奪取する事に成功した。
「ああぁ~~~~!」
秋成の絶叫が辺りに木霊する。
秋成が必死に隠していたもの。
それは、銀色に光る一本の棒。
長さは千紗の手のひら程だろうか。
先は尖っており、反対側の先端には夕日の光を浴びながら黄金に輝く、琥珀玉が取り付けられている。
これは――
「簪? 何故簪を隠す必要が?」
確かに予想外のものではあったが、何も隠すほどの恥ずかしい代物でもない。なのに何故秋成が、あんなにも必死になって隠そうとしたのか、千紗は首を傾げた。
「そ、それは……旅立つ前に兄上から預かった物で……」
不思議がる千紗に、たどたどしく、歯切れ悪く説明する秋成。
右へ左へ、上へ下へ、秋成の視線はふよふよと忙しく泳ぎまわっている。
「…………小次郎が、妾にこれを?」
「あ、あぁ」
秋成の動揺に気付いていないのが、小次郎からの贈り物だと言う簪に千紗はじっと視線を落とした。
と、次第にうつむいたまま小刻みに肩を震わせ始める。
泣いている、のだろうか?
千紗は俯いたまま、大事そうにそっとそれを胸に抱いた。
「………」
そんな千紗の姿に、秋成はほっと胸をなで下ろした。
と同時に、何故かチクリと胸が痛むのを感じた。
何故胸が痛むのか? 秋成には理由など分からなかったが、吐いてしまった嘘を後悔する気持ちが湧き上がっていた。
そう、小次郎からの贈り物。それは嘘が下手な秋成がついた小さな嘘。千紗を励ましたかった秋成なりの精一杯の優しさだったのだ。
千紗が胸に抱えるその簪は、秋成が千紗の為にと買った物。
あの日――市へ出かけたあの日、千紗が物欲しそうに見ていた物。
千紗の元を離れて、秋成が態々買いに戻り、手に入れた物。
そして、盗賊に誘われてしまった千紗を奪い返そうと一人乗り込んだ際に、刀を振り回すヒナから身を呈して秋成が守った物。
小次郎がいなくなって、落ち込む千紗を励まそうと秋成は最初から小次郎からの贈り物だと偽って渡すつもりでここに持ってきていた。
だが小次郎が最後に千紗へ手紙を残していたとなると、わざわざ嘘を吐いてまで渡す意味はなくなったわけで……だから咄嗟に秋成は隠したのだが、結局は小次郎からの贈り物だと嘘を吐いて渡すこととなってしまった。
そして秋成がついた嘘の結果、秋成が思っていた以上に千紗は喜んでくれている。
本当ならば喜ぶべき結果のはずなのに、その事実が秋成の心を複雑にさせる。
もし小次郎からではなく、自分からだと言って渡したら……千紗はこんなにも喜んでくれただろうか?
「ありがとう。大事にする」
「あぁ。良かったな……」
嬉しそうに感謝の言葉を口にする千紗に、秋成はふと沸いてくる寂しさをぐっと押し殺しながら、小さな声でそう返した。
「あ~~~~千紗姫様っ! やっと見つけました! どうしてそのような危険な所に?! 危ないですから、早く降りて来て下さい!!」
ふとその時、秋成の言葉をかき消すように、突然下から女性による甲高い大きな叫び声が聞こえて来る。
「おぉ、キヨ~」
声の主の名を、負けじと大きな声で叫びながら千紗は彼女に向かってぶんぶんと元気に手を振った。
キヨの叫び声を聞き付けたのか、ぞくぞくと屋敷の者達が集まって来る。
「姫様……何と危ない所に!?」
「早く降りてきてくださいませ。忠平様も心配しておりますよ」
「すまぬすまぬ。今降りるから」
口々に千紗を心配する声に大きな声で返しながら、千紗は屋根の上にゆっくと立ち上がった。
「おぉっ、と」
「危ないっ!」
立ち上がった瞬間、体勢を崩して屋根瓦ごと足を滑らせかけた千紗。
慌てて立ち上がった秋成が千紗を抱き抱える。
「ふぅ。危なかったのう」
「……こ……んの馬鹿野郎、何やってんだお前は! こんな所から落ちたら死ぬぞ?!」
「なっ、馬鹿とは何じゃ! 主に向かって無礼であろう!! ちょっと足を滑らせただけ、そんなに怒ることもなかろうが」
「ちょっと足を滑らせただけって、そもそもな、女のくせにこんな所に上ってる事自体が危険なんだよ! 怒られても仕方ないことをしてるお前が全部悪いんだ!」
屋根上でギャイギャイといつものように喧嘩を始めた二人。
もうすっかり元気に戻った千紗の姿に皆が皆、安堵の溜息を吐いていた。
そして安堵しながら皆が二人の幼稚な喧嘩に笑わっていた。
喧嘩に夢中になっている当の本人達は、笑われている事になんて全く気付いていないのだろうが――
こうして今回も、千紗の家出騒動は秋成の活躍によって無事に解決を迎えたのである。




