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彼女が母親に「彼氏に車くらい買ってもらえば」と言われたそうです。どうやら結婚後は母親と妹も一緒に暮らすようです

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/21

「車くらい買ってもらえば、だって」


 千尋は笑いながら、僕の前にスマートフォンを置いた。

 画面には白い軽自動車が映っていた。横へ指を滑らせると、今度は水色になる。新車の見積もり額を見て、僕は飲みかけのお茶をテーブルへ戻した。


「誰が?」

「お母さん。昨日、車ほしいなって話してたら、優介くんに買ってもらえばって」

「……僕が、千尋に?」

「うん。中古でもいいんじゃないって」


 それなら安いでしょう、と付け加えた。

 僕の部屋のこたつには、千尋の持ってきたみかんが載っている。さっきまで二人でテレビを見ていた。十二月の日曜日で、窓の外はもう暗かった。


「いや、買わないよ」


 千尋の指が止まった。


「本気で頼んでるわけじゃないよ」

「そっか」

「でも、あったら便利だよね。優介、毎回迎えに来なくてよくなるし」


 僕はみかんの皮を持ったまま、画面を見た。

 彼女の通勤に車があれば便利だろうとは思う。雨の日にバスを待つのは大変だとも聞いていた。けれど、彼女が免許を取ったのは僕と知り合う何年も前で、僕が車を買ってあげる話をしたことはなかった。


「車までは、出せないよ」

「だから、今すぐじゃなくて。お母さんがそう言ったって話」


 千尋はスマートフォンを引き寄せた。

 僕も、もう一言何か言えばよかった。それなのに、彼女の口元が下がったのを見て、みかん食べる、と聞いてしまった。


 付き合って七か月が過ぎていた。

 榎本千尋も、僕、野崎優介も二十六歳。二人とも春に誕生日を迎えたばかりの頃に知り合った。彼女は家から通える店でパートをしていて、僕は会社勤めをしながら、一人暮らしをしていた。

 僕の貯金の額を、千尋は知らない。

 千尋のお母さんにいたっては、その時点ではまだ、会ったことすらなかった。


     *


 春に、カメラの初心者向け講座へ行った。

 買ったばかりのカメラを持て余していたからで、正直、説明書を読むより人に聞いたほうが早いと思っただけだった。

 屋外で写真を撮る実習の途中、千尋が僕の横へ来た。


「すみません。それ、私のと同じですよね」


 僕のカメラを指してから、自分のものを持ち上げた。


「背景だけぼかしたいんですけど、何回やっても全部ぼけるんです」

「僕もです」

「えっ」

「たぶん、いま撮ったやつ、木にも人にも合ってない」


 画面を見せると、彼女は声を立てて笑った。自分の写真も見せてきた。どれも、さっき僕らが渡ってきた橋らしきものが写っていた。


「これは何ですか」

「花です」

「花」

「橋の手前にあった……」


 二人で講師を呼んだ。

 結局、使うモードとピントの合わせ方を教わっただけで、それなりの写真が撮れた。千尋は白い花の写真を何度も見返していた。


「ちゃんと花になった」


 その言い方が面白くて、僕も笑った。

 講座が終わったあと、駅の近くでお茶を飲んだ。一時間のつもりが三時間になった。彼女は僕のつまらない失敗談にも笑い、自分の失敗も少し大げさに話した。

 別れ際、連絡先を交換した。


 翌週は二人で川沿いを歩いた。

 五月になる前に、僕から付き合ってほしいと言った。千尋はしばらく僕を見て、それから、うん、と二回頷いた。

 なぜ二回なのかと聞くと、最初のはびっくりした分、と答えた。


 最初の頃のことは、今でも悪い思い出になっていない。

 車に乗ると、彼女は毎回シートベルトを引っ張ってから、今日は何聴く、と聞いた。道を間違えても、こっちも見てみたかったと言ってくれた。僕が疲れていると、目的の店へ着く前でも、もう近くでご飯にしようよ、と提案した。

 写真を撮っている間は意外と無口だった。こっそり横顔を撮ったら、気づいてわざと変な顔をした。


「今の消して。次はちゃんとする」


 ちゃんとした写真より、先の一枚のほうが好きだった。


 食事代は、たいてい僕が払った。

 千尋が財布を出せば、じゃあ次にお茶をお願い、と言った。収入も僕のほうが多かったし、行きたい店を決めるのも僕が多かった。そのぐらいは出したかった。

 払うたびにお礼を言われたい、と考えていたわけでもない。

 ただ、千尋は店の外で僕の服の袖をつまんで、ありがとう、おいしかったね、と言った。それを聞けば、次はどこへ連れていこうかと思った。


 六月の終わり、僕が風邪をひいたときには、玄関の外に袋が置かれていた。

 飲み物とレトルトのおかゆ。あと、千尋の字で書かれた紙が一枚。


『連絡すると起こしそうだから帰ります。起きたら冷蔵庫に入れてね』


 その日は、熱があったので長く運転できないと伝えていた。

 彼女はバスを乗り継いで来たらしい。駅から僕の部屋までは歩けば二十分ほどかかる。それでまた帰ったのだと思うと、寝ぼけたまま何度も袋の中を見た。

 電話すると、もう家だよ、と言った。


「何か作れたらよかったんだけど。うつしたら悪いし」

「それ、僕の台詞じゃない?」

「あ、そうか」


 電話の向こうで、彼女が笑った。

 僕は彼女が好きだった。あとになって何を聞かれても、そこだけは嘘をつかずに答えられる。


 夏頃から、連絡が増えた。

 おはようの次に、今日は何時まで。昼休みに、何食べた。午後には、忙しい?

 最初は、気にかけてもらえているのが嬉しかった。

 仕事で携帯を見られず、夕方まで返せなかった日、着信が四件あった。


「事故かと思った」


 電話をかけ直すと、千尋の声が鼻にかかっていた。


「朝、会社に着いたって送っただろ」

「そのあと何かあったのかもしれないし」

「仕事中は返せないことあるよ」

「スタンプだけでもいいのに」


 そんなに心配したのかと思って、謝った。

 それからは昼休みの終わりに一度、夕方にも一度、短い連絡を入れるようになった。難しいことではなかった。

 でも、そのうち夕方の連絡が遅れた理由まで聞かれるようになった。


 修平と飲みに行くと話したときには、電話が長くなった。


「土曜、会えないの?」

「夜だけだよ。昼は空いてる」

「私、土曜に休み取ったんだけど」

「それ、聞いてないよ」

「いつも会ってるから」


 片岡修平とは学生の頃からの付き合いだった。月に一度会うかどうかで、その約束も前から決めていた。

 昼間は一緒にいようと言ったが、千尋は、いい、と答えた。よくないときの声だった。


「じゃあ、六時には帰るようにするから」

「飲みに行くの、六時からじゃないの?」

「……そうだけど」


 結局、修平へ電話して、開始を早めてもらった。

 夕方の五時半に席を立つ僕に、修平はグラスを持ったまま言った。


「お前、電車の終わる時間、間違えてない?」

「ちょっと、彼女が」

「来月でいいから、次は最後までいろよ。俺、一人で二軒目行くの嫌だぞ」


 笑ってごまかした。

 駅へ向かう途中で千尋に電話すると、機嫌は戻っていた。早く会いたい、と言われて、僕も早足になった。

 修平には今度、一杯おごろう。それで済むと思っていた。


     *


 十月に、千尋の欲しがっていた靴を一緒に見に行った。

 彼女が自分で買い、帰りに僕のお茶代も出した。小さなことだけれど、忘れていない。

 その次の週だった。


「お母さんに怒られた」


 夕飯を食べていたら、千尋が言った。


「何を?」

「この前、私がカフェで出したって話したら。男の人に払わせないと駄目だって」

「駄目って」

「そういうものだよって。女の人にお金出させる人だと、あとが大変だって」


 僕は箸を止めた。

 千尋の皿には、僕が作った生姜焼きが半分残っていた。彼女は玉ねぎを一つ食べてから、少し慌てて言った。


「優介がどうとかじゃないよ。お母さんの時代は、そうだったんだって」

「別に、出してもらって助かった、とかは思ってないけど」

「分かってる」

「千尋がお茶おごってくれたの、嬉しかったよ」


 彼女は箸の先で玉ねぎを押した。


「うん。でも、私もそんなにお金ないし」

「毎回出してほしいとは言ってないよ」


 少し黙ってから、彼女は、おいしいね、と言った。

 僕も、よかった、と返した。

 それきりになった。


 その夜、帰りの車で、彼女は僕の左手を握った。信号が青になる前に離して、来週もご飯作って、と頼んだ。

 僕は、何がいい、と聞いた。

 ちゃんと話せば、たぶん大丈夫だろう。そんなふうに思っていたが、ちゃんと話すのはいつも次の機会だった。


 十一月に、仕事が立て込んで二週続けて日曜の予定を短くした。

 一度目は仕方ないと言ってくれた。

 二度目には、僕の部屋で泣いた。


「仕事って言われたら、何も言えない」

「だから、来週は丸一日」

「来週も何かあるかもしれないじゃん」


 僕は彼女の隣へ座った。

 抱き寄せると肩を預けてきたので、そのまましばらく背中を撫でた。予定していた資料作りは夜へ回した。

 彼女が帰ってから、日付が変わるまで仕事をした。

 翌朝の電話で、眠そうだね、と言われた。


「昨日、遅かったから」

「先に言ってくれたらよかったのに」


 言ったよ、という言葉が喉まで出た。

 でも、昨日は最後に笑ってくれたのだった。

 また泣かせたくなくて、うん、と答えた。


 そして十二月、こたつで車の写真を見せられた。

 買わないと言った僕に、千尋は本気ではないと答えた。みかんを一つ渡すと、受け取って食べた。

 そのあと、彼女はこんなことも言った。


「結婚したら、車は一台だと足りないよね」

「そうかな。住む場所によるんじゃない?」

「お母さんも使うし」


 皮をまとめていた手が止まった。


「お母さん?」

「うん。うちの車、もう古いから」


 どういう話なのかと思ったが、千尋はテレビのほうを向いた。お笑い番組で、僕の知らない芸人が転んでいた。

 少し待ってから、僕は聞いた。


「結婚の話、お母さんとしてるの?」

「たまに。優介ってどんな人、って聞かれるから。今度会ってよ」


 付き合っている相手の親に会う。

 それ自体はおかしなことでもないし、僕も、この先ずっと付き合うなら挨拶ぐらいはと思っていた。

 じゃあ年が明けてから、と約束した。

 みかんの皮は、彼女の分も僕がまとめて捨てた。


     *


 一月の半ば、千尋の家へ行った。

 玄関で迎えてくれたお母さんは、僕の持ってきた菓子折りを受け取ると、寒かったでしょう、とすぐ部屋へ通した。

 榎本佳代さん。五十二歳だと、道中で千尋に聞いていた。

 居間の隅に洗濯物の籠があり、壁には家族三人で写った写真が何枚か飾ってあった。


「いつも送ってもらって、悪いわね」

「いえ。僕も会いたいので」

「あら」


 佳代さんは千尋を見て笑った。

 食卓には煮物と唐揚げがあった。唐揚げは千尋の好物だった。佳代さんは娘の皿へ二つ取り分けてから、僕にも勧めた。


「お仕事、忙しいの?」

「時期によります。今月は少し落ち着いています」

「よかった。千尋、この前は寂しがってたから」

「お母さん、それはいいから」


 千尋が照れたように笑った。

 僕もつられて笑ったが、箸を持つ手には力が入った。


 妹の弥生さんは、僕らが食べ始めて少ししてから帰ってきた。

 仕事だったそうだ。玄関から顔を出して挨拶すると、いったん部屋へ引っ込み、着替えて戻ってきた。


「お邪魔してます」

「こちらこそ、遅くなってすみません」


 初対面同士で変な挨拶になり、二人で少し笑った。

 佳代さんは弥生さんの分の皿を出し、娘の湯飲みには少しだけ冷ましたお茶を注いだ。そういうところを見ていると、千尋が家を大事に思うのも分かった。

 僕の家でも、母は父の湯飲みにだけ濃いお茶を入れる。

 長く一緒に暮らした人たちの食卓なのだと思った。


 仕事のこと、カメラのこと、近くにできた店のこと。

 話は普通に続いた。佳代さんは、僕の食べる速さに合わせて、ご飯のおかわりを聞いてくれた。

 途中までは、少し緊張したけれど来てよかったと思っていた。


「優介くんは、今の部屋、広いの?」


 食後に佳代さんが聞いた。


「一人用なので。そんなに広くないです」

「じゃあ、結婚したら引っ越しね」


 隣の千尋が、そうだね、と答えた。

 結婚の具体的な約束はしていない。けれど、いずれはと話したことはあったから、僕は曖昧に頷いた。


「三部屋はいるよね」


 千尋が言った。


「一部屋は寝るところにして、もう一部屋は」

「弥生の部屋でしょう。私は小さくていいから」


 佳代さんが、ごく普通の声で続けた。

 弥生さんが、お茶から顔を上げた。

 僕は千尋を見た。


「四人で住むってこと?」

「うん」


 彼女は頷いた。

 少しも迷わなかった。


「前に言わなかった?」

「聞いてないと思う」

「お母さんも一緒って話、しなかったっけ」

「車を使うって話は聞いたけど」

「ああ。それ」


 千尋は、そこで話したつもりだったらしい。

 僕は膝の上で両手を重ねた。佳代さんが菓子の箱を開けている。包装紙の擦れる音がした。


「いきなり家を買うのは難しいでしょうから、最初は借りて。場所は、ここからあまり離れないほうがいいわね。私も弥生も仕事があるし」


 佳代さんが言った。


「まだ、二人でも住む場所の話はしていないので」

「そうね。でも、早めに考えておかないとね」


 僕のほうへ菓子が差し出された。

 受け取ると、話が済んでしまいそうだった。


「お母さんたちも引っ越すというのは、千尋と決めていたんですか」


 佳代さんの手が止まった。


「だって、家族ですもの」

「はい」

「結婚したら、この子だけ別のところへ行って、はい、おしまいっていうわけにはいかないでしょう」


 その言い方に、僕は困った。

 会わなくなる話など、誰もしていない。


「僕は、まず二人で暮らすのかなと」


 千尋が、僕のほうへ体を向けた。


「お母さんと弥生は?」

「今の家に」

「三人でいたのに?」


 彼女は本当に不思議そうだった。

 佳代さんが、少しゆっくりと口を開いた。


「男の人には分からないかもしれないけど、私たちはずっと三人でやってきたから。急に一人抜けるのは、心細いのよ」


 弥生さんが菓子の袋をいじった。


「私、まだ引っ越すかどうか、考えてないけど」

「近いうちに結婚する予定もないでしょう」

「そういうことじゃなくて」


 千尋が妹を見て、弥生は今の仕事続ければいいよ、と言った。

 弥生さんは口を閉じた。


 弥生さんの部屋まで決まっている。

 僕は千尋と家具を見に行ったこともなかった。


 家賃のことを聞くと、佳代さんは、もちろん私たちも出すわよ、と言った。


「全部優介くんにっていうわけじゃないの。生活費はみんなでね。ただ、契約とか、まとまったところは、やっぱり男の人にしっかりしてもらわないと」

「僕の収入で、借りられる家も変わりますし」

「千尋から、ちゃんとお勤めしてるって聞いてるから」


 勤め先を褒められたのか、心配しすぎと言われたのか、分からなかった。

 誰がいくら出すかも決まらないまま、四人で住む家の契約を引き受ける気にはなれなかった。二人暮らしだって、何にいくら使うか相談しながら始めるものだと思っていた。


「今日は、一度持ち帰って考えてもいいですか」


 ようやく、それだけ言った。

 佳代さんは目を瞬かせてから、ええ、もちろん、と答えた。

 千尋は、僕の手元を見ていた。


 帰りに玄関まで送ってきた千尋へ、僕は聞いた。


「僕の親と一緒に住むって言ったら、どうする?」

「優介のお父さんもお母さんも、二人で暮らしてるじゃん」

「今はね」

「うちは違うから」


 靴紐を結び直す必要もないのに、僕はしゃがんだ。


「違うのは分かるけど。僕、四人で暮らしたいか聞かれてないよ」

「だから、今日話したんじゃない」


 僕は立ち上がった。

 廊下の奥から、佳代さんが、忘れ物ない、と声をかけた。千尋は、ないよ、と返した。


「今度、二人で話そう」


 彼女にそう言って、帰った。

 車の助手席には、残った唐揚げを入れた容器があった。

 信号で止まるたび、そちらへ目がいった。


     *


「なんで付き合ったんだよ」


 事情を話すと、修平はそう言った。

 僕はラーメンの上の海苔を箸で押した。


「最初からこの話されてたわけじゃないし」

「そりゃそうか」

「普通に、一緒にいて楽しかったんだよ」


 修平は、分かった、と頷いた。それから自分の丼へ胡椒を振った。振りすぎたらしく、少し顔をしかめた。


「で、四人で住みたいの?」

「いや」

「そこは即答なんだな」

「嫌いな人たちとか、そういうんじゃなくて。まだ一回会っただけだし」

「うん」

「二人で住むつもりだったんだよ、僕は」


 口にしてみると、本当にそれだけだった。

 結婚するなら、二人分の食器を選んで、休みの日には二人で寝坊する。子どもができたら、またそのとき考える。

 そういうものを勝手に想像していた。千尋も同じだとは、一度も確かめずに。


「親を大事にするのは、いいと思うんだけど」

「それはそうだろ」

「一人で育ててきたから、心配なのも分かるし」

「お母さん、今、働いてるんだよな。妹さんも」

「うん」

「だったら、明日から何もかもお前がやらないと困るって話ではないよな」


 僕は頷いた。

 修平は水を飲んだ。


「お前、会うたびに、彼女が心配するから早く帰るって言うだろ」

「そんな毎回じゃ」

「前回も、その前も」


 覚えていたらしい。

 謝ると、そういうことじゃない、と手を振った。


「結婚したら、帰る先もそこになるんだぞ。俺との飲み会だけじゃなくて、お前が休みたい日とか、残業したい日とか。今より会う時間が長くなるから解決するのか、増えるのか、そこまで考えろよ」


 汁を吸って崩れた海苔を、麺に絡めて口へ運んだ。


「千尋には、いいところもあるんだよ」

「あるだろうな。なかったら、お前も付き合わないだろ」


 否定されなくて、少しだけ息がつけた。


「俺は、そのお母さんにも彼女にも会ったことないから、お前の話しか知らないけど」


 修平はそう前置きして、少し声を落とした。


「正直、お前がそこと結婚したら、遊びに誘いにくくはなる」

「何、それ」

「いや、だって。お前を誘うたびに向こうで揉めるなら、俺も気を遣うじゃん。家に遊びに行っていいって言われても、何話せばいいんだよ」

「僕の心配じゃないのかよ」

「心配もしてるよ。してるけど、俺も無傷でずっといい友達やってられるかは分かんねえよ」


 笑おうとして、あまり笑えなかった。

 修平は僕の顔を見て、箸を置いた。


「別れろって言われたいなら、言うけど」

「……そういうわけじゃない」

「だったら、本人に言えよ。俺には嫌だってすぐ言えたんだから」


 丼の中には麺が少し残っていた。

 早く食べないと伸びる、と修平が言った。言われなくても、もう伸びていた。


 次に千尋と会ったとき、僕は、まず二人で暮らしたいと伝えた。

 僕の部屋だった。お茶を出す前に話を始めた。先にご飯を作ると、またあと回しにしそうだった。


「お母さんの家の近くに住むとか、そういうのは考えたい。会いに行くのもいいし」

「何かあったら、どうするの?」

「何かって?」

「夜、急に具合悪くなったりしたら」

「近くなら行けるよ。僕の親だって、今は離れて暮らしてる」


 千尋は黙った。

 僕は続きを急がないよう、膝の上で指を組んだ。


「あと、車は買わない。もし必要なら、自分で買える金額を考えて。見に行くのは一緒に行くけど」

「だから、あれは本気じゃないって」

「分かってる。ただ、僕が払う話を、僕がいないところで決めないでほしい」

「決めてないよ」


 彼女の声が大きくなった。


「買ってって言った? 優介が買うって決まってるなんて、一回も言ってないじゃん」

「うん。言ってない」

「だったら、そんな怒らなくても」


 怒っていないと言おうとして、やめた。

 多少は怒っていた。


「車だけじゃないんだ。家のことも。僕が嫌だと言ったら、どうなるのか分からなくて」

「家族と住むのがそんなに嫌なの?」

「最初から一緒に住むのは、僕は嫌だ」


 千尋は目を伏せた。

 僕はそこで言葉を足したくなった。嫌というのは言いすぎた、時期による、ずっとではないかもしれない。

 どれも、今の彼女を泣かせずに済む言葉だった。

 でも、四人暮らしを望んでいないことは変わらなかった。


「お母さんに、何て言えばいいの」

「僕も話すよ」

「優介が嫌がってるって?」

「そうだよ」


 彼女は僕を見た。

 目の縁が赤くなっていた。


「私、どっちにもいい顔できない」


 僕は、そうだね、と答えた。

 その日は泣かれても、四人で住むとは言わなかった。


 二月に入ってから、もう一度、佳代さんと会った。

 千尋も一緒に、外でお茶を飲んだ。

 佳代さんは僕が二人暮らしを望んでいることを、すでに聞いていた。


「千尋から聞いたけど。そんなに、他人と暮らすのが苦手なの?」

「そうですね。慣れてないのもあります。でも、まず千尋と暮らしてみたいと思っていて」

「この子と暮らすのはいいけど、私たちは駄目なのね」


 責めるような声ではなかった。

 だから、かえって返しにくかった。


「今は、そうです」


 僕が答えると、佳代さんはカップへ目を落とした。


「私は、娘たちに苦労させたくないだけなのよ。女だけでいろいろやるのは、大変なこともあったから」

「はい」

「ちゃんと頼れる人ができたなら、私も安心できると思って」


 千尋が母親の肘に触れた。

 僕は店員が運んできた水を、飲まずに持った。


「頼ってもらうことが、嫌なんじゃないです」

「ええ」

「ただ、何ができるかは、その都度、僕にも聞いてほしいです。できないこともあるので」


 佳代さんは、こちらを見た。


「それは、もちろん」


 話が通じたのかもしれないと、一瞬思った。

 でも、そのすぐあとに続いた。


「それでも、この子が困ってたら、何とかしてあげたいとは思うでしょう?」


 千尋は僕の返事を待っていた。

 僕は持ち上げかけた水を置いた。


「できることは。でも、一緒に暮らすのは、今は引き受けられません」


 佳代さんの口元が固くなった。

 そのあと、近くの賃貸の話もした。僕の収入と千尋の収入で、いくらまでの家なら借りられるか。千尋が家に入れているお金も聞き、別に暮らしてからも続けたいなら、それを含めて考えようと言った。

 佳代さんは金額には口を挟まなかった。ただ、僕が仕事に行っている間、この子が一人で寂しい思いをするなら同じことだと言った。

 隣で千尋が頷いた。

 僕と二人で住んでも、彼女は一人で残されるのだろうか。

 帰り道、そのことばかり考えていた。


 連絡の頻度についても、何度か相談した。

 仕事中は返せない。修平と会う日は、終わってから連絡する。予定がない休日に、一人で過ごしたいこともある。

 千尋は一つずつ頷いた。


「分かった。気をつける」


 実際、しばらくは着信が減った。

 その代わり、夜に電話をすると、ずっと待ってた、と言われた。


「連絡していいか分からなくて。迷惑なんでしょ」

「迷惑とは言ってないよ」

「でも、しないでって」

「仕事中は、って話」


 僕も、同じ説明を繰り返すうちに声が硬くなった。

 すると彼女は謝った。謝りながら泣いた。

 僕はまた、そこまで悪いことを言ったのだろうかと考えた。


 ある土曜日、僕の部屋に置いてあった彼女のマグカップを洗った。

 白い地に、青い小さな花がついている。二人で買ったものだった。

 僕の分は灰色で、千尋が、そっちは優介っぽい、と選んだ。

 布巾で拭きながら、これを返すことになるかもしれないと思った。

 そのまま棚へ戻して、僕は台所に立っていた。

 千尋の好きなところを思い出すのは簡単だった。別れたくない理由も、いくつも言えた。

 けれど、彼女とどんな家に住みたいかは、もう考えられなかった。


 三月の初め、千尋に別れたいと伝えた。

 駅の近くの喫茶店だった。先に、大事な話があると連絡していたので、彼女は席へ着くなり僕の顔を見た。


「お母さんのこと?」

「それもあるけど、それだけじゃない」

「もう、お母さんに言わないから」


 僕は、そういうことではない、と首を振った。


「二人で住みたいって話をしただろ。千尋は、お母さんと弥生さんも一緒がいいんだよね」

「……今すぐ結婚するわけじゃないじゃん」

「うん。でも、僕はこの先を考えて付き合いたかった」

「私だってそうだよ」


 彼女は声を落とした。

 周りの席を気にしたのだと思う。その様子を見て、僕も前かがみになった。


「千尋が家族と離れたくないのは分かった。でも、僕は一緒に住めない。連絡のことも、予定のことも、どっちかが我慢してばっかりになってる」

「私、変えるって言ったよ」

「待ってるのもしんどいだろ」

「待てる。優介がいいなら待つ」


 その言葉を聞くのがつらかった。

 僕が受け入れるか、彼女が我慢するか。

 何度話しても、その二つの間を往復していた。


「僕も、もう疲れてしまった」


 千尋は黙った。

 テーブルの下で、彼女の膝が一度動いた。バッグを抱え直したのかもしれない。


「好きじゃなくなったの?」


 僕はすぐに答えられなかった。

 彼女が好きな気持ちは、まだ残っていた。だからといって、それを口にしたらどうなるかぐらいは分かった。


「付き合い続けるのは、やめたい」


 千尋の目から涙が落ちた。

 彼女は慌てて指で拭ったが、次の涙がすぐ落ちた。バッグからハンカチを出そうとして、財布まで取り出してしまった。

 僕は手を伸ばしかけて止めた。


「やだ」


 小さな声だった。


「やだよ。私、優介と別れたくない」


 そのあとは、何を言っても泣いた。

 僕が話す途中で頷くこともあった。それからまた、別れるのは嫌だと言った。

 僕は、今日は帰ろう、と言った。


「もう一回、話して」

「うん」

「ちゃんと考えて」


 僕はそこで、分かった、と答えた。

 帰りの電車で、自分が何を了承したのか考えた。

 千尋には、考え直すと聞こえただろう。

 僕は次の駅で降りたくなった。降りたところで何も変わらないので、座ったまま、鞄の持ち手を握っていた。


 その夜、千尋から何通も連絡が来た。

 謝る文。会いたいという文。僕の好きなところを、一つずつ書いた文。

 風邪のときの袋を思い出した。川沿いで撮った写真も、僕の携帯にはまだ残っていた。

 返信欄に、少し時間を置こう、と打った。

 それを消した。


『今日、分かったって答えたけど、考え直すという意味ではありません。曖昧な返事をしてごめん。来週、もう一度話します。でも、別れる気持ちは変わらないです』


 送ったあと、携帯を伏せた。

 すぐに裏返してしまった。

 既読がついて、しばらく何も来なかった。


 約束した日、僕は彼女のマグカップと、置いてあった服を袋に入れた。

 千尋も、僕の貸していた本を持ってきた。カバーの角が、以前よりきれいになっていた。めくれていたところを貼り直してくれたらしい。


「一か月だけ、離れるとかじゃ駄目?」


 席へ着いてから、彼女は聞いた。


「ごめん。そういう約束はできない」

「お母さんと住まなくてもいいって言ったら?」


 僕は彼女を見た。

 先週から、その言葉を何度か想像していた。聞けたら安心するのか、もう遅いと思うのか、自分でも分からなかった。

 実際に聞くと、安心よりも、心配になった。


「本当に、二人で暮らしたいと思った?」


 千尋は答えなかった。


「優介がいなくなるよりは、いい」


 僕は本の入った袋を膝へ載せた。


「それで一緒に住んだら、たぶん、今度は千尋がつらいよ」

「私がいいって言ってるのに」

「僕が、続けられない」


 彼女の顔が歪んだ。

 また、泣かせてしまったと思った。

 けれど、どう言えば悲しませずに済むかを考えるのは、もうやめた。どの言い方を選んでも、別れたいと言われれば悲しい。

 僕だって、言われる側なら、きっとこんなふうには話せない。


「今まで楽しかったことまで、なかったことにしたいんじゃない。でも、これからも付き合うとは言えない」


 彼女は何度も首を振った。

 ハンカチを握って、どうして、と聞いた。

 僕は同じ理由をもう一度話した。彼女の母親の悪口は言わなかったし、車の金額を持ち出すこともしなかった。

 自分が何を引き受けられず、もう続けるつもりがないのかを、言い直した。


 店を出た頃には、外の雨が上がっていた。

 千尋は僕が渡した紙袋を胸の前で持っていた。


「連絡も、しちゃ駄目?」

「しばらく、連絡は取らないようにしたい」

「しばらくって、いつまで」


 僕は口を閉じた。

 まだ、こういう言い方をしてしまう。


「ごめん。いつか戻るとか、そういう意味じゃない。これで、交際は終わりにしたい」


 千尋は目を伏せた。

 僕は駅まで送ろうかと聞きそうになって、やめた。

 彼女は自分で改札へ向かった。青い花のカップの入った袋が、足元で小さく揺れていた。


 その後も数日、連絡は来た。

 僕は、一度だけ同じ返事をして、それ以上は応じなかった。通知を切った夜、何度も携帯を触った。

 もう連絡が来なくなってからも、しばらくその癖は残った。


 千尋がその後どうしているのか、僕は知らない。

 共通の知り合いもほとんどいない。母親や妹のことを、誰かに聞こうとは思わなかった。

 部屋には灰色のカップだけが残った。

 最初の一週間は、それを使う気になれなかった。二週目に、棚の奥から出して洗った。

 お茶を入れ、窓の外を見ながら飲んだ。

 帰る時間を気にせず修平と会ったのは、その次の土曜だった。


     *


「で、今日は何時まで大丈夫なんだっけ」


 八年後も、修平は同じことを聞く。

 僕は時計を見た。午後三時を少し回っていた。


「四時半には出る。夕飯作らないと」


 修平は椅子の背へ体を預けた。

 今日は彼がうちへ遊びに来ていた。三歳の娘は、妻と近所の公園へ出かけている。僕らは居間で、ぬるくなったコーヒーを飲んでいた。


「家にいるんだから、出なくていいだろ」

「買い物。ひき肉ないんだよ」

「結局、お前が作るんだな」

「だいたいね」


 僕も修平も三十四歳になっていた。

 妻も同い年で、結婚して四年になる。田辺理恵という、今はもちろん野崎だが、知り合った頃の名字を、修平はたまにまだ使う。

 僕の仕事は数年前から在宅が中心になった。朝から部屋で働いて、昼に洗濯物を取り込み、夕方に保育園へ迎えに行く。

 会社へ通う理恵より時間は調整しやすいが、それと、暇であることは違う。


 先月も、娘の通院を僕に任せたあとで、理恵が美容院を予約していたと分かって、揉めた。

 仕事を抜けた僕は、帰ってから昼飯も食べずに続きをしていた。


「休みなら、連れていけたんじゃないの」

「前から予約してたの」

「僕だって、前から仕事だったよ」


 理恵は、そうだった、と言って黙った。

 その場で全部が片づいたわけではない。翌日には普通に、娘の着替えどこだっけ、と聞かれて、引き出しぐらい開けてくれと思った。

 次の通院は理恵が行った。夕方の予約に仕事が重なると分かり、自分の休みに変更できるか病院へ電話したのも彼女だった。

 ようやく一回、という気持ちと、行ってくれて助かったという気持ちが、僕の中では両方あった。


「飯以外は?」


 修平が聞いた。


「洗濯と、風呂掃除と。保育園の用意も、僕のほうが多い」

「理恵さんは?」

「片づけるって言って、いったん別の場所に置く」

「それは片づけか?」

「僕もそう思ってる」


 笑ってから、二人でソファの端を見た。

 そこには、畳みかけの洗濯物が載っていた。理恵が朝、今やるから、と運んだものだった。

 僕は手を伸ばしかけて、コーヒーを飲んだ。


「金遣いは、ちゃんとしてるんだけどね」

「そこは大事だな」

「僕が新しいパソコン買うって言ったときも、仕事で使うなら安いので妥協しないほうがいいって。自分の靴は、直して履いてるくせに」


 修平は、お前は靴買ってやったの、と聞いた。

 僕が頷くと、だろうな、と笑った。


 理恵と知り合ったのは、別れて二年ほど経ってからだった。

 知人に誘われた小さな写真展で、受付を手伝っていた。人の名前をよく覚え、初めて来た僕にも、こちらの人も写真を撮るんですよ、と誰かを紹介した。

 僕は知らない人の輪へ入るのが得意ではない。理恵が隣にいると、話し始めるところまで困らなかった。

 帰りに、重い箱を動かすのを手伝ってと言われた。

 ついでに椅子も、もう一箱もとなって、結局最後まで残った。

 夕飯に誘ったのは僕だった。


 二度目に会った日、彼女は行きたがっていた店を自分で断った。


「今月、もう使えるお金ない。ごめん、来月でもいい?」

「僕が出すよ」

「出してくれるなら喜ぶけど、毎回そうだと、私が行ける店分かんなくなる」


 それで、その日は安い餃子を食べた。

 理恵は、これはこれで好き、と言って、僕の皿から一つ持っていった。僕が見ると、あとで一つあげる、と言った。

 本当に返ってきた一つは、少し焦げていた。


 付き合い始めてから一度、引っ越しの手伝いを断ったことがある。

 どうしても外せない仕事が入っていた。申し訳なさもあって、夜中なら行けるけど、と言うと、理恵は首を振った。


「夜中に棚運んで、下の人に怒られるの、私なんだけど」


 少し考えてから、業者に頼むわ、と言った。

 翌週、僕が遊びに行くと、段ボールの大半はまだ積まれていた。業者を頼んだお金は惜しんでいなかったが、箱を開けるのは面倒らしかった。

 その日、僕は本棚を整理した。

 理恵は隣で、本に挟まっていた古い映画の半券を見つけて、話し始めた。片づけは進まなかったが、僕はあまり嫌ではなかった。


「今、何を思い出してる?」


 修平に聞かれ、僕はカップを置いた。


「いや。結婚する前から、片づけは苦手だったなって」


 引っ越しの翌週に行って、本棚を整理した話をすると、修平は呆れた顔をした。


「最初から分かってたんじゃん」

「ここまでとは思わなかった」


 修平が笑った。

 そのあと、少しだけ真面目な顔になった。


「前のときは、駄目だって思っても言えなかっただろ」

「まあね」

「今は?」

「言ってる。昨日も、僕の仕事机に物置くなって言った」

「それは聞いてくれるの」


 僕は廊下の向こうの仕事部屋を見た。


「机からはなくなった」

「どこ行った」

「廊下」


 修平は声を出して笑った。

 僕も笑ったが、廊下の袋は本当に邪魔なので、帰ってきたら片づけてもらうつもりだった。


 理恵は、僕が断ると残念そうにはする。面倒なことを僕へ回そうともする。言えばいつでも快く引き受ける、という人ではない。

 それでも、僕が修平と出かけると言って、じゃあ私は娘と何しよう、と予定を考える。僕の両親が来れば、僕が台所に逃げ込んでいる間も居間でずっと話している。

 父の話をあんなに長く聞ける人がいるとは、結婚するまで知らなかった。

 僕のほうが助けられていることもある。

 その日の洗い物が減るわけではないけれど。


「優介さ」


 修平が、空になったカップを置いた。


「結局、頼ってくる人が好きなんだろ」

「そんなことないと思うけど」

「引っ越しの手伝い行って、棚の整理までして帰ったんだろ」

「それは、そのとき暇だったから」

「俺が頼んだら?」

「業者に頼めよ」


 修平は黙って僕を見た。

 僕も黙った。


「……分かった。少しは、そうかもしれない」

「少しかなあ」


 玄関で鍵の音がした。

 娘が、ただいま、と叫ぶ。その声に重なって、理恵が、砂そこではたかないで、と言った。

 僕は立ち上がった。


「おかえり」

「ただいま。あ、修平くん、まだいた。これ食べる?」


 理恵が小さな紙袋を差し出した。

 公園の帰りにパン屋へ寄ったらしい。娘の好きな丸パンと、僕の好きなくるみパンが入っていた。


「割引になってた。今日中だけど」

「僕、ひき肉買いに行くけど、ほかにいるものある?」

「あ、夕飯、ハンバーグにしてくれる?」

「そのつもり。あと、廊下の袋」


 理恵は、あ、と言って廊下を見た。


「ごめん。忘れてた」

「それ、昨日も聞いた」

「今やる。今度こそ」


 修平が後ろで咳をした。たぶん、笑ったのをごまかした。

 理恵は袋を寝室へ運び、戻ってきて娘に、先に手を洗おう、と声をかけた。


 買い物へは修平が付き合ってくれた。

 玄関を出るところで、娘が自分も行くと言い出したが、僕は今日は留守番、と言った。娘は不満そうだった。理恵が、パンのお皿出して、と頼むと、そちらへ走っていった。

 修平は靴を履きながら、小さく頷いた。


「何?」

「いや。ハンバーグ、俺の分もある?」

「ひき肉、多めに買うか」


 夕方、僕は玉ねぎを刻み、フライパンを温めた。

 娘は台所の入口から、何をしているのか何度も聞いた。理恵が居間で答えていたが、そのうち分からなくなったらしく、自分で見てきて、と言った。


「いや、ちょっと。今、火使ってるから」

「あ、ごめん。こっちでお皿並べよう」


 娘の足音が離れていった。

 焼き始めたハンバーグを返すと、一つだけ崩れた。

 僕が余計な声を出したので、修平が覗きに来た。


「それ、俺のでいいよ」

「人の家でまで気を遣うなよ」

「じゃあ、きれいなのくれ」


 理恵も台所へ来て、崩れた一つを見た。


「それ、味見にしよう。半分ちょうだい」

「まだ中、生かもしれない」


 彼女が伸ばした箸を、僕は手首に触れて止めた。

 蓋をして、もう少し待つ。洗い物は流しに溜まっているし、洗濯物もまだ畳まれていない。


「食べたら、そこの洗い物お願い」

「うん。鍋は水つけといて」


 理恵が皿を取った。

 蓋を外すと、湯気が顔にかかった。ハンバーグを一つずつ切って、真ん中まで火が通っているのを確かめた。

 修平が娘の椅子を引き、娘は大人と同じ大きさのものを欲しがった。

 僕は一番小さいハンバーグを娘の皿へ載せた。大きいのがいいと言われて、隣にくるみパンをひと切れ置いた。

 それで納得したらしい。

 理恵が横から、ソースここでいい、と聞いた。

 僕は頷いて、空いた皿を一枚、彼女の前へずらした。


~完~

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絶妙な匙加減。AIなのかわからないですが、現実的にあり得そうな別れとその後の生活。彼女が悪いわけじゃない。彼氏が悪いわけじゃない。(男視点だから偏りはありますが) 妻になった女ももちろん完璧じゃない。…
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