彼女が母親に「彼氏に車くらい買ってもらえば」と言われたそうです。どうやら結婚後は母親と妹も一緒に暮らすようです
「車くらい買ってもらえば、だって」
千尋は笑いながら、僕の前にスマートフォンを置いた。
画面には白い軽自動車が映っていた。横へ指を滑らせると、今度は水色になる。新車の見積もり額を見て、僕は飲みかけのお茶をテーブルへ戻した。
「誰が?」
「お母さん。昨日、車ほしいなって話してたら、優介くんに買ってもらえばって」
「……僕が、千尋に?」
「うん。中古でもいいんじゃないって」
それなら安いでしょう、と付け加えた。
僕の部屋のこたつには、千尋の持ってきたみかんが載っている。さっきまで二人でテレビを見ていた。十二月の日曜日で、窓の外はもう暗かった。
「いや、買わないよ」
千尋の指が止まった。
「本気で頼んでるわけじゃないよ」
「そっか」
「でも、あったら便利だよね。優介、毎回迎えに来なくてよくなるし」
僕はみかんの皮を持ったまま、画面を見た。
彼女の通勤に車があれば便利だろうとは思う。雨の日にバスを待つのは大変だとも聞いていた。けれど、彼女が免許を取ったのは僕と知り合う何年も前で、僕が車を買ってあげる話をしたことはなかった。
「車までは、出せないよ」
「だから、今すぐじゃなくて。お母さんがそう言ったって話」
千尋はスマートフォンを引き寄せた。
僕も、もう一言何か言えばよかった。それなのに、彼女の口元が下がったのを見て、みかん食べる、と聞いてしまった。
付き合って七か月が過ぎていた。
榎本千尋も、僕、野崎優介も二十六歳。二人とも春に誕生日を迎えたばかりの頃に知り合った。彼女は家から通える店でパートをしていて、僕は会社勤めをしながら、一人暮らしをしていた。
僕の貯金の額を、千尋は知らない。
千尋のお母さんにいたっては、その時点ではまだ、会ったことすらなかった。
*
春に、カメラの初心者向け講座へ行った。
買ったばかりのカメラを持て余していたからで、正直、説明書を読むより人に聞いたほうが早いと思っただけだった。
屋外で写真を撮る実習の途中、千尋が僕の横へ来た。
「すみません。それ、私のと同じですよね」
僕のカメラを指してから、自分のものを持ち上げた。
「背景だけぼかしたいんですけど、何回やっても全部ぼけるんです」
「僕もです」
「えっ」
「たぶん、いま撮ったやつ、木にも人にも合ってない」
画面を見せると、彼女は声を立てて笑った。自分の写真も見せてきた。どれも、さっき僕らが渡ってきた橋らしきものが写っていた。
「これは何ですか」
「花です」
「花」
「橋の手前にあった……」
二人で講師を呼んだ。
結局、使うモードとピントの合わせ方を教わっただけで、それなりの写真が撮れた。千尋は白い花の写真を何度も見返していた。
「ちゃんと花になった」
その言い方が面白くて、僕も笑った。
講座が終わったあと、駅の近くでお茶を飲んだ。一時間のつもりが三時間になった。彼女は僕のつまらない失敗談にも笑い、自分の失敗も少し大げさに話した。
別れ際、連絡先を交換した。
翌週は二人で川沿いを歩いた。
五月になる前に、僕から付き合ってほしいと言った。千尋はしばらく僕を見て、それから、うん、と二回頷いた。
なぜ二回なのかと聞くと、最初のはびっくりした分、と答えた。
最初の頃のことは、今でも悪い思い出になっていない。
車に乗ると、彼女は毎回シートベルトを引っ張ってから、今日は何聴く、と聞いた。道を間違えても、こっちも見てみたかったと言ってくれた。僕が疲れていると、目的の店へ着く前でも、もう近くでご飯にしようよ、と提案した。
写真を撮っている間は意外と無口だった。こっそり横顔を撮ったら、気づいてわざと変な顔をした。
「今の消して。次はちゃんとする」
ちゃんとした写真より、先の一枚のほうが好きだった。
食事代は、たいてい僕が払った。
千尋が財布を出せば、じゃあ次にお茶をお願い、と言った。収入も僕のほうが多かったし、行きたい店を決めるのも僕が多かった。そのぐらいは出したかった。
払うたびにお礼を言われたい、と考えていたわけでもない。
ただ、千尋は店の外で僕の服の袖をつまんで、ありがとう、おいしかったね、と言った。それを聞けば、次はどこへ連れていこうかと思った。
六月の終わり、僕が風邪をひいたときには、玄関の外に袋が置かれていた。
飲み物とレトルトのおかゆ。あと、千尋の字で書かれた紙が一枚。
『連絡すると起こしそうだから帰ります。起きたら冷蔵庫に入れてね』
その日は、熱があったので長く運転できないと伝えていた。
彼女はバスを乗り継いで来たらしい。駅から僕の部屋までは歩けば二十分ほどかかる。それでまた帰ったのだと思うと、寝ぼけたまま何度も袋の中を見た。
電話すると、もう家だよ、と言った。
「何か作れたらよかったんだけど。うつしたら悪いし」
「それ、僕の台詞じゃない?」
「あ、そうか」
電話の向こうで、彼女が笑った。
僕は彼女が好きだった。あとになって何を聞かれても、そこだけは嘘をつかずに答えられる。
夏頃から、連絡が増えた。
おはようの次に、今日は何時まで。昼休みに、何食べた。午後には、忙しい?
最初は、気にかけてもらえているのが嬉しかった。
仕事で携帯を見られず、夕方まで返せなかった日、着信が四件あった。
「事故かと思った」
電話をかけ直すと、千尋の声が鼻にかかっていた。
「朝、会社に着いたって送っただろ」
「そのあと何かあったのかもしれないし」
「仕事中は返せないことあるよ」
「スタンプだけでもいいのに」
そんなに心配したのかと思って、謝った。
それからは昼休みの終わりに一度、夕方にも一度、短い連絡を入れるようになった。難しいことではなかった。
でも、そのうち夕方の連絡が遅れた理由まで聞かれるようになった。
修平と飲みに行くと話したときには、電話が長くなった。
「土曜、会えないの?」
「夜だけだよ。昼は空いてる」
「私、土曜に休み取ったんだけど」
「それ、聞いてないよ」
「いつも会ってるから」
片岡修平とは学生の頃からの付き合いだった。月に一度会うかどうかで、その約束も前から決めていた。
昼間は一緒にいようと言ったが、千尋は、いい、と答えた。よくないときの声だった。
「じゃあ、六時には帰るようにするから」
「飲みに行くの、六時からじゃないの?」
「……そうだけど」
結局、修平へ電話して、開始を早めてもらった。
夕方の五時半に席を立つ僕に、修平はグラスを持ったまま言った。
「お前、電車の終わる時間、間違えてない?」
「ちょっと、彼女が」
「来月でいいから、次は最後までいろよ。俺、一人で二軒目行くの嫌だぞ」
笑ってごまかした。
駅へ向かう途中で千尋に電話すると、機嫌は戻っていた。早く会いたい、と言われて、僕も早足になった。
修平には今度、一杯おごろう。それで済むと思っていた。
*
十月に、千尋の欲しがっていた靴を一緒に見に行った。
彼女が自分で買い、帰りに僕のお茶代も出した。小さなことだけれど、忘れていない。
その次の週だった。
「お母さんに怒られた」
夕飯を食べていたら、千尋が言った。
「何を?」
「この前、私がカフェで出したって話したら。男の人に払わせないと駄目だって」
「駄目って」
「そういうものだよって。女の人にお金出させる人だと、あとが大変だって」
僕は箸を止めた。
千尋の皿には、僕が作った生姜焼きが半分残っていた。彼女は玉ねぎを一つ食べてから、少し慌てて言った。
「優介がどうとかじゃないよ。お母さんの時代は、そうだったんだって」
「別に、出してもらって助かった、とかは思ってないけど」
「分かってる」
「千尋がお茶おごってくれたの、嬉しかったよ」
彼女は箸の先で玉ねぎを押した。
「うん。でも、私もそんなにお金ないし」
「毎回出してほしいとは言ってないよ」
少し黙ってから、彼女は、おいしいね、と言った。
僕も、よかった、と返した。
それきりになった。
その夜、帰りの車で、彼女は僕の左手を握った。信号が青になる前に離して、来週もご飯作って、と頼んだ。
僕は、何がいい、と聞いた。
ちゃんと話せば、たぶん大丈夫だろう。そんなふうに思っていたが、ちゃんと話すのはいつも次の機会だった。
十一月に、仕事が立て込んで二週続けて日曜の予定を短くした。
一度目は仕方ないと言ってくれた。
二度目には、僕の部屋で泣いた。
「仕事って言われたら、何も言えない」
「だから、来週は丸一日」
「来週も何かあるかもしれないじゃん」
僕は彼女の隣へ座った。
抱き寄せると肩を預けてきたので、そのまましばらく背中を撫でた。予定していた資料作りは夜へ回した。
彼女が帰ってから、日付が変わるまで仕事をした。
翌朝の電話で、眠そうだね、と言われた。
「昨日、遅かったから」
「先に言ってくれたらよかったのに」
言ったよ、という言葉が喉まで出た。
でも、昨日は最後に笑ってくれたのだった。
また泣かせたくなくて、うん、と答えた。
そして十二月、こたつで車の写真を見せられた。
買わないと言った僕に、千尋は本気ではないと答えた。みかんを一つ渡すと、受け取って食べた。
そのあと、彼女はこんなことも言った。
「結婚したら、車は一台だと足りないよね」
「そうかな。住む場所によるんじゃない?」
「お母さんも使うし」
皮をまとめていた手が止まった。
「お母さん?」
「うん。うちの車、もう古いから」
どういう話なのかと思ったが、千尋はテレビのほうを向いた。お笑い番組で、僕の知らない芸人が転んでいた。
少し待ってから、僕は聞いた。
「結婚の話、お母さんとしてるの?」
「たまに。優介ってどんな人、って聞かれるから。今度会ってよ」
付き合っている相手の親に会う。
それ自体はおかしなことでもないし、僕も、この先ずっと付き合うなら挨拶ぐらいはと思っていた。
じゃあ年が明けてから、と約束した。
みかんの皮は、彼女の分も僕がまとめて捨てた。
*
一月の半ば、千尋の家へ行った。
玄関で迎えてくれたお母さんは、僕の持ってきた菓子折りを受け取ると、寒かったでしょう、とすぐ部屋へ通した。
榎本佳代さん。五十二歳だと、道中で千尋に聞いていた。
居間の隅に洗濯物の籠があり、壁には家族三人で写った写真が何枚か飾ってあった。
「いつも送ってもらって、悪いわね」
「いえ。僕も会いたいので」
「あら」
佳代さんは千尋を見て笑った。
食卓には煮物と唐揚げがあった。唐揚げは千尋の好物だった。佳代さんは娘の皿へ二つ取り分けてから、僕にも勧めた。
「お仕事、忙しいの?」
「時期によります。今月は少し落ち着いています」
「よかった。千尋、この前は寂しがってたから」
「お母さん、それはいいから」
千尋が照れたように笑った。
僕もつられて笑ったが、箸を持つ手には力が入った。
妹の弥生さんは、僕らが食べ始めて少ししてから帰ってきた。
仕事だったそうだ。玄関から顔を出して挨拶すると、いったん部屋へ引っ込み、着替えて戻ってきた。
「お邪魔してます」
「こちらこそ、遅くなってすみません」
初対面同士で変な挨拶になり、二人で少し笑った。
佳代さんは弥生さんの分の皿を出し、娘の湯飲みには少しだけ冷ましたお茶を注いだ。そういうところを見ていると、千尋が家を大事に思うのも分かった。
僕の家でも、母は父の湯飲みにだけ濃いお茶を入れる。
長く一緒に暮らした人たちの食卓なのだと思った。
仕事のこと、カメラのこと、近くにできた店のこと。
話は普通に続いた。佳代さんは、僕の食べる速さに合わせて、ご飯のおかわりを聞いてくれた。
途中までは、少し緊張したけれど来てよかったと思っていた。
「優介くんは、今の部屋、広いの?」
食後に佳代さんが聞いた。
「一人用なので。そんなに広くないです」
「じゃあ、結婚したら引っ越しね」
隣の千尋が、そうだね、と答えた。
結婚の具体的な約束はしていない。けれど、いずれはと話したことはあったから、僕は曖昧に頷いた。
「三部屋はいるよね」
千尋が言った。
「一部屋は寝るところにして、もう一部屋は」
「弥生の部屋でしょう。私は小さくていいから」
佳代さんが、ごく普通の声で続けた。
弥生さんが、お茶から顔を上げた。
僕は千尋を見た。
「四人で住むってこと?」
「うん」
彼女は頷いた。
少しも迷わなかった。
「前に言わなかった?」
「聞いてないと思う」
「お母さんも一緒って話、しなかったっけ」
「車を使うって話は聞いたけど」
「ああ。それ」
千尋は、そこで話したつもりだったらしい。
僕は膝の上で両手を重ねた。佳代さんが菓子の箱を開けている。包装紙の擦れる音がした。
「いきなり家を買うのは難しいでしょうから、最初は借りて。場所は、ここからあまり離れないほうがいいわね。私も弥生も仕事があるし」
佳代さんが言った。
「まだ、二人でも住む場所の話はしていないので」
「そうね。でも、早めに考えておかないとね」
僕のほうへ菓子が差し出された。
受け取ると、話が済んでしまいそうだった。
「お母さんたちも引っ越すというのは、千尋と決めていたんですか」
佳代さんの手が止まった。
「だって、家族ですもの」
「はい」
「結婚したら、この子だけ別のところへ行って、はい、おしまいっていうわけにはいかないでしょう」
その言い方に、僕は困った。
会わなくなる話など、誰もしていない。
「僕は、まず二人で暮らすのかなと」
千尋が、僕のほうへ体を向けた。
「お母さんと弥生は?」
「今の家に」
「三人でいたのに?」
彼女は本当に不思議そうだった。
佳代さんが、少しゆっくりと口を開いた。
「男の人には分からないかもしれないけど、私たちはずっと三人でやってきたから。急に一人抜けるのは、心細いのよ」
弥生さんが菓子の袋をいじった。
「私、まだ引っ越すかどうか、考えてないけど」
「近いうちに結婚する予定もないでしょう」
「そういうことじゃなくて」
千尋が妹を見て、弥生は今の仕事続ければいいよ、と言った。
弥生さんは口を閉じた。
弥生さんの部屋まで決まっている。
僕は千尋と家具を見に行ったこともなかった。
家賃のことを聞くと、佳代さんは、もちろん私たちも出すわよ、と言った。
「全部優介くんにっていうわけじゃないの。生活費はみんなでね。ただ、契約とか、まとまったところは、やっぱり男の人にしっかりしてもらわないと」
「僕の収入で、借りられる家も変わりますし」
「千尋から、ちゃんとお勤めしてるって聞いてるから」
勤め先を褒められたのか、心配しすぎと言われたのか、分からなかった。
誰がいくら出すかも決まらないまま、四人で住む家の契約を引き受ける気にはなれなかった。二人暮らしだって、何にいくら使うか相談しながら始めるものだと思っていた。
「今日は、一度持ち帰って考えてもいいですか」
ようやく、それだけ言った。
佳代さんは目を瞬かせてから、ええ、もちろん、と答えた。
千尋は、僕の手元を見ていた。
帰りに玄関まで送ってきた千尋へ、僕は聞いた。
「僕の親と一緒に住むって言ったら、どうする?」
「優介のお父さんもお母さんも、二人で暮らしてるじゃん」
「今はね」
「うちは違うから」
靴紐を結び直す必要もないのに、僕はしゃがんだ。
「違うのは分かるけど。僕、四人で暮らしたいか聞かれてないよ」
「だから、今日話したんじゃない」
僕は立ち上がった。
廊下の奥から、佳代さんが、忘れ物ない、と声をかけた。千尋は、ないよ、と返した。
「今度、二人で話そう」
彼女にそう言って、帰った。
車の助手席には、残った唐揚げを入れた容器があった。
信号で止まるたび、そちらへ目がいった。
*
「なんで付き合ったんだよ」
事情を話すと、修平はそう言った。
僕はラーメンの上の海苔を箸で押した。
「最初からこの話されてたわけじゃないし」
「そりゃそうか」
「普通に、一緒にいて楽しかったんだよ」
修平は、分かった、と頷いた。それから自分の丼へ胡椒を振った。振りすぎたらしく、少し顔をしかめた。
「で、四人で住みたいの?」
「いや」
「そこは即答なんだな」
「嫌いな人たちとか、そういうんじゃなくて。まだ一回会っただけだし」
「うん」
「二人で住むつもりだったんだよ、僕は」
口にしてみると、本当にそれだけだった。
結婚するなら、二人分の食器を選んで、休みの日には二人で寝坊する。子どもができたら、またそのとき考える。
そういうものを勝手に想像していた。千尋も同じだとは、一度も確かめずに。
「親を大事にするのは、いいと思うんだけど」
「それはそうだろ」
「一人で育ててきたから、心配なのも分かるし」
「お母さん、今、働いてるんだよな。妹さんも」
「うん」
「だったら、明日から何もかもお前がやらないと困るって話ではないよな」
僕は頷いた。
修平は水を飲んだ。
「お前、会うたびに、彼女が心配するから早く帰るって言うだろ」
「そんな毎回じゃ」
「前回も、その前も」
覚えていたらしい。
謝ると、そういうことじゃない、と手を振った。
「結婚したら、帰る先もそこになるんだぞ。俺との飲み会だけじゃなくて、お前が休みたい日とか、残業したい日とか。今より会う時間が長くなるから解決するのか、増えるのか、そこまで考えろよ」
汁を吸って崩れた海苔を、麺に絡めて口へ運んだ。
「千尋には、いいところもあるんだよ」
「あるだろうな。なかったら、お前も付き合わないだろ」
否定されなくて、少しだけ息がつけた。
「俺は、そのお母さんにも彼女にも会ったことないから、お前の話しか知らないけど」
修平はそう前置きして、少し声を落とした。
「正直、お前がそこと結婚したら、遊びに誘いにくくはなる」
「何、それ」
「いや、だって。お前を誘うたびに向こうで揉めるなら、俺も気を遣うじゃん。家に遊びに行っていいって言われても、何話せばいいんだよ」
「僕の心配じゃないのかよ」
「心配もしてるよ。してるけど、俺も無傷でずっといい友達やってられるかは分かんねえよ」
笑おうとして、あまり笑えなかった。
修平は僕の顔を見て、箸を置いた。
「別れろって言われたいなら、言うけど」
「……そういうわけじゃない」
「だったら、本人に言えよ。俺には嫌だってすぐ言えたんだから」
丼の中には麺が少し残っていた。
早く食べないと伸びる、と修平が言った。言われなくても、もう伸びていた。
次に千尋と会ったとき、僕は、まず二人で暮らしたいと伝えた。
僕の部屋だった。お茶を出す前に話を始めた。先にご飯を作ると、またあと回しにしそうだった。
「お母さんの家の近くに住むとか、そういうのは考えたい。会いに行くのもいいし」
「何かあったら、どうするの?」
「何かって?」
「夜、急に具合悪くなったりしたら」
「近くなら行けるよ。僕の親だって、今は離れて暮らしてる」
千尋は黙った。
僕は続きを急がないよう、膝の上で指を組んだ。
「あと、車は買わない。もし必要なら、自分で買える金額を考えて。見に行くのは一緒に行くけど」
「だから、あれは本気じゃないって」
「分かってる。ただ、僕が払う話を、僕がいないところで決めないでほしい」
「決めてないよ」
彼女の声が大きくなった。
「買ってって言った? 優介が買うって決まってるなんて、一回も言ってないじゃん」
「うん。言ってない」
「だったら、そんな怒らなくても」
怒っていないと言おうとして、やめた。
多少は怒っていた。
「車だけじゃないんだ。家のことも。僕が嫌だと言ったら、どうなるのか分からなくて」
「家族と住むのがそんなに嫌なの?」
「最初から一緒に住むのは、僕は嫌だ」
千尋は目を伏せた。
僕はそこで言葉を足したくなった。嫌というのは言いすぎた、時期による、ずっとではないかもしれない。
どれも、今の彼女を泣かせずに済む言葉だった。
でも、四人暮らしを望んでいないことは変わらなかった。
「お母さんに、何て言えばいいの」
「僕も話すよ」
「優介が嫌がってるって?」
「そうだよ」
彼女は僕を見た。
目の縁が赤くなっていた。
「私、どっちにもいい顔できない」
僕は、そうだね、と答えた。
その日は泣かれても、四人で住むとは言わなかった。
二月に入ってから、もう一度、佳代さんと会った。
千尋も一緒に、外でお茶を飲んだ。
佳代さんは僕が二人暮らしを望んでいることを、すでに聞いていた。
「千尋から聞いたけど。そんなに、他人と暮らすのが苦手なの?」
「そうですね。慣れてないのもあります。でも、まず千尋と暮らしてみたいと思っていて」
「この子と暮らすのはいいけど、私たちは駄目なのね」
責めるような声ではなかった。
だから、かえって返しにくかった。
「今は、そうです」
僕が答えると、佳代さんはカップへ目を落とした。
「私は、娘たちに苦労させたくないだけなのよ。女だけでいろいろやるのは、大変なこともあったから」
「はい」
「ちゃんと頼れる人ができたなら、私も安心できると思って」
千尋が母親の肘に触れた。
僕は店員が運んできた水を、飲まずに持った。
「頼ってもらうことが、嫌なんじゃないです」
「ええ」
「ただ、何ができるかは、その都度、僕にも聞いてほしいです。できないこともあるので」
佳代さんは、こちらを見た。
「それは、もちろん」
話が通じたのかもしれないと、一瞬思った。
でも、そのすぐあとに続いた。
「それでも、この子が困ってたら、何とかしてあげたいとは思うでしょう?」
千尋は僕の返事を待っていた。
僕は持ち上げかけた水を置いた。
「できることは。でも、一緒に暮らすのは、今は引き受けられません」
佳代さんの口元が固くなった。
そのあと、近くの賃貸の話もした。僕の収入と千尋の収入で、いくらまでの家なら借りられるか。千尋が家に入れているお金も聞き、別に暮らしてからも続けたいなら、それを含めて考えようと言った。
佳代さんは金額には口を挟まなかった。ただ、僕が仕事に行っている間、この子が一人で寂しい思いをするなら同じことだと言った。
隣で千尋が頷いた。
僕と二人で住んでも、彼女は一人で残されるのだろうか。
帰り道、そのことばかり考えていた。
連絡の頻度についても、何度か相談した。
仕事中は返せない。修平と会う日は、終わってから連絡する。予定がない休日に、一人で過ごしたいこともある。
千尋は一つずつ頷いた。
「分かった。気をつける」
実際、しばらくは着信が減った。
その代わり、夜に電話をすると、ずっと待ってた、と言われた。
「連絡していいか分からなくて。迷惑なんでしょ」
「迷惑とは言ってないよ」
「でも、しないでって」
「仕事中は、って話」
僕も、同じ説明を繰り返すうちに声が硬くなった。
すると彼女は謝った。謝りながら泣いた。
僕はまた、そこまで悪いことを言ったのだろうかと考えた。
ある土曜日、僕の部屋に置いてあった彼女のマグカップを洗った。
白い地に、青い小さな花がついている。二人で買ったものだった。
僕の分は灰色で、千尋が、そっちは優介っぽい、と選んだ。
布巾で拭きながら、これを返すことになるかもしれないと思った。
そのまま棚へ戻して、僕は台所に立っていた。
千尋の好きなところを思い出すのは簡単だった。別れたくない理由も、いくつも言えた。
けれど、彼女とどんな家に住みたいかは、もう考えられなかった。
三月の初め、千尋に別れたいと伝えた。
駅の近くの喫茶店だった。先に、大事な話があると連絡していたので、彼女は席へ着くなり僕の顔を見た。
「お母さんのこと?」
「それもあるけど、それだけじゃない」
「もう、お母さんに言わないから」
僕は、そういうことではない、と首を振った。
「二人で住みたいって話をしただろ。千尋は、お母さんと弥生さんも一緒がいいんだよね」
「……今すぐ結婚するわけじゃないじゃん」
「うん。でも、僕はこの先を考えて付き合いたかった」
「私だってそうだよ」
彼女は声を落とした。
周りの席を気にしたのだと思う。その様子を見て、僕も前かがみになった。
「千尋が家族と離れたくないのは分かった。でも、僕は一緒に住めない。連絡のことも、予定のことも、どっちかが我慢してばっかりになってる」
「私、変えるって言ったよ」
「待ってるのもしんどいだろ」
「待てる。優介がいいなら待つ」
その言葉を聞くのがつらかった。
僕が受け入れるか、彼女が我慢するか。
何度話しても、その二つの間を往復していた。
「僕も、もう疲れてしまった」
千尋は黙った。
テーブルの下で、彼女の膝が一度動いた。バッグを抱え直したのかもしれない。
「好きじゃなくなったの?」
僕はすぐに答えられなかった。
彼女が好きな気持ちは、まだ残っていた。だからといって、それを口にしたらどうなるかぐらいは分かった。
「付き合い続けるのは、やめたい」
千尋の目から涙が落ちた。
彼女は慌てて指で拭ったが、次の涙がすぐ落ちた。バッグからハンカチを出そうとして、財布まで取り出してしまった。
僕は手を伸ばしかけて止めた。
「やだ」
小さな声だった。
「やだよ。私、優介と別れたくない」
そのあとは、何を言っても泣いた。
僕が話す途中で頷くこともあった。それからまた、別れるのは嫌だと言った。
僕は、今日は帰ろう、と言った。
「もう一回、話して」
「うん」
「ちゃんと考えて」
僕はそこで、分かった、と答えた。
帰りの電車で、自分が何を了承したのか考えた。
千尋には、考え直すと聞こえただろう。
僕は次の駅で降りたくなった。降りたところで何も変わらないので、座ったまま、鞄の持ち手を握っていた。
その夜、千尋から何通も連絡が来た。
謝る文。会いたいという文。僕の好きなところを、一つずつ書いた文。
風邪のときの袋を思い出した。川沿いで撮った写真も、僕の携帯にはまだ残っていた。
返信欄に、少し時間を置こう、と打った。
それを消した。
『今日、分かったって答えたけど、考え直すという意味ではありません。曖昧な返事をしてごめん。来週、もう一度話します。でも、別れる気持ちは変わらないです』
送ったあと、携帯を伏せた。
すぐに裏返してしまった。
既読がついて、しばらく何も来なかった。
約束した日、僕は彼女のマグカップと、置いてあった服を袋に入れた。
千尋も、僕の貸していた本を持ってきた。カバーの角が、以前よりきれいになっていた。めくれていたところを貼り直してくれたらしい。
「一か月だけ、離れるとかじゃ駄目?」
席へ着いてから、彼女は聞いた。
「ごめん。そういう約束はできない」
「お母さんと住まなくてもいいって言ったら?」
僕は彼女を見た。
先週から、その言葉を何度か想像していた。聞けたら安心するのか、もう遅いと思うのか、自分でも分からなかった。
実際に聞くと、安心よりも、心配になった。
「本当に、二人で暮らしたいと思った?」
千尋は答えなかった。
「優介がいなくなるよりは、いい」
僕は本の入った袋を膝へ載せた。
「それで一緒に住んだら、たぶん、今度は千尋がつらいよ」
「私がいいって言ってるのに」
「僕が、続けられない」
彼女の顔が歪んだ。
また、泣かせてしまったと思った。
けれど、どう言えば悲しませずに済むかを考えるのは、もうやめた。どの言い方を選んでも、別れたいと言われれば悲しい。
僕だって、言われる側なら、きっとこんなふうには話せない。
「今まで楽しかったことまで、なかったことにしたいんじゃない。でも、これからも付き合うとは言えない」
彼女は何度も首を振った。
ハンカチを握って、どうして、と聞いた。
僕は同じ理由をもう一度話した。彼女の母親の悪口は言わなかったし、車の金額を持ち出すこともしなかった。
自分が何を引き受けられず、もう続けるつもりがないのかを、言い直した。
店を出た頃には、外の雨が上がっていた。
千尋は僕が渡した紙袋を胸の前で持っていた。
「連絡も、しちゃ駄目?」
「しばらく、連絡は取らないようにしたい」
「しばらくって、いつまで」
僕は口を閉じた。
まだ、こういう言い方をしてしまう。
「ごめん。いつか戻るとか、そういう意味じゃない。これで、交際は終わりにしたい」
千尋は目を伏せた。
僕は駅まで送ろうかと聞きそうになって、やめた。
彼女は自分で改札へ向かった。青い花のカップの入った袋が、足元で小さく揺れていた。
その後も数日、連絡は来た。
僕は、一度だけ同じ返事をして、それ以上は応じなかった。通知を切った夜、何度も携帯を触った。
もう連絡が来なくなってからも、しばらくその癖は残った。
千尋がその後どうしているのか、僕は知らない。
共通の知り合いもほとんどいない。母親や妹のことを、誰かに聞こうとは思わなかった。
部屋には灰色のカップだけが残った。
最初の一週間は、それを使う気になれなかった。二週目に、棚の奥から出して洗った。
お茶を入れ、窓の外を見ながら飲んだ。
帰る時間を気にせず修平と会ったのは、その次の土曜だった。
*
「で、今日は何時まで大丈夫なんだっけ」
八年後も、修平は同じことを聞く。
僕は時計を見た。午後三時を少し回っていた。
「四時半には出る。夕飯作らないと」
修平は椅子の背へ体を預けた。
今日は彼がうちへ遊びに来ていた。三歳の娘は、妻と近所の公園へ出かけている。僕らは居間で、ぬるくなったコーヒーを飲んでいた。
「家にいるんだから、出なくていいだろ」
「買い物。ひき肉ないんだよ」
「結局、お前が作るんだな」
「だいたいね」
僕も修平も三十四歳になっていた。
妻も同い年で、結婚して四年になる。田辺理恵という、今はもちろん野崎だが、知り合った頃の名字を、修平はたまにまだ使う。
僕の仕事は数年前から在宅が中心になった。朝から部屋で働いて、昼に洗濯物を取り込み、夕方に保育園へ迎えに行く。
会社へ通う理恵より時間は調整しやすいが、それと、暇であることは違う。
先月も、娘の通院を僕に任せたあとで、理恵が美容院を予約していたと分かって、揉めた。
仕事を抜けた僕は、帰ってから昼飯も食べずに続きをしていた。
「休みなら、連れていけたんじゃないの」
「前から予約してたの」
「僕だって、前から仕事だったよ」
理恵は、そうだった、と言って黙った。
その場で全部が片づいたわけではない。翌日には普通に、娘の着替えどこだっけ、と聞かれて、引き出しぐらい開けてくれと思った。
次の通院は理恵が行った。夕方の予約に仕事が重なると分かり、自分の休みに変更できるか病院へ電話したのも彼女だった。
ようやく一回、という気持ちと、行ってくれて助かったという気持ちが、僕の中では両方あった。
「飯以外は?」
修平が聞いた。
「洗濯と、風呂掃除と。保育園の用意も、僕のほうが多い」
「理恵さんは?」
「片づけるって言って、いったん別の場所に置く」
「それは片づけか?」
「僕もそう思ってる」
笑ってから、二人でソファの端を見た。
そこには、畳みかけの洗濯物が載っていた。理恵が朝、今やるから、と運んだものだった。
僕は手を伸ばしかけて、コーヒーを飲んだ。
「金遣いは、ちゃんとしてるんだけどね」
「そこは大事だな」
「僕が新しいパソコン買うって言ったときも、仕事で使うなら安いので妥協しないほうがいいって。自分の靴は、直して履いてるくせに」
修平は、お前は靴買ってやったの、と聞いた。
僕が頷くと、だろうな、と笑った。
理恵と知り合ったのは、別れて二年ほど経ってからだった。
知人に誘われた小さな写真展で、受付を手伝っていた。人の名前をよく覚え、初めて来た僕にも、こちらの人も写真を撮るんですよ、と誰かを紹介した。
僕は知らない人の輪へ入るのが得意ではない。理恵が隣にいると、話し始めるところまで困らなかった。
帰りに、重い箱を動かすのを手伝ってと言われた。
ついでに椅子も、もう一箱もとなって、結局最後まで残った。
夕飯に誘ったのは僕だった。
二度目に会った日、彼女は行きたがっていた店を自分で断った。
「今月、もう使えるお金ない。ごめん、来月でもいい?」
「僕が出すよ」
「出してくれるなら喜ぶけど、毎回そうだと、私が行ける店分かんなくなる」
それで、その日は安い餃子を食べた。
理恵は、これはこれで好き、と言って、僕の皿から一つ持っていった。僕が見ると、あとで一つあげる、と言った。
本当に返ってきた一つは、少し焦げていた。
付き合い始めてから一度、引っ越しの手伝いを断ったことがある。
どうしても外せない仕事が入っていた。申し訳なさもあって、夜中なら行けるけど、と言うと、理恵は首を振った。
「夜中に棚運んで、下の人に怒られるの、私なんだけど」
少し考えてから、業者に頼むわ、と言った。
翌週、僕が遊びに行くと、段ボールの大半はまだ積まれていた。業者を頼んだお金は惜しんでいなかったが、箱を開けるのは面倒らしかった。
その日、僕は本棚を整理した。
理恵は隣で、本に挟まっていた古い映画の半券を見つけて、話し始めた。片づけは進まなかったが、僕はあまり嫌ではなかった。
「今、何を思い出してる?」
修平に聞かれ、僕はカップを置いた。
「いや。結婚する前から、片づけは苦手だったなって」
引っ越しの翌週に行って、本棚を整理した話をすると、修平は呆れた顔をした。
「最初から分かってたんじゃん」
「ここまでとは思わなかった」
修平が笑った。
そのあと、少しだけ真面目な顔になった。
「前のときは、駄目だって思っても言えなかっただろ」
「まあね」
「今は?」
「言ってる。昨日も、僕の仕事机に物置くなって言った」
「それは聞いてくれるの」
僕は廊下の向こうの仕事部屋を見た。
「机からはなくなった」
「どこ行った」
「廊下」
修平は声を出して笑った。
僕も笑ったが、廊下の袋は本当に邪魔なので、帰ってきたら片づけてもらうつもりだった。
理恵は、僕が断ると残念そうにはする。面倒なことを僕へ回そうともする。言えばいつでも快く引き受ける、という人ではない。
それでも、僕が修平と出かけると言って、じゃあ私は娘と何しよう、と予定を考える。僕の両親が来れば、僕が台所に逃げ込んでいる間も居間でずっと話している。
父の話をあんなに長く聞ける人がいるとは、結婚するまで知らなかった。
僕のほうが助けられていることもある。
その日の洗い物が減るわけではないけれど。
「優介さ」
修平が、空になったカップを置いた。
「結局、頼ってくる人が好きなんだろ」
「そんなことないと思うけど」
「引っ越しの手伝い行って、棚の整理までして帰ったんだろ」
「それは、そのとき暇だったから」
「俺が頼んだら?」
「業者に頼めよ」
修平は黙って僕を見た。
僕も黙った。
「……分かった。少しは、そうかもしれない」
「少しかなあ」
玄関で鍵の音がした。
娘が、ただいま、と叫ぶ。その声に重なって、理恵が、砂そこではたかないで、と言った。
僕は立ち上がった。
「おかえり」
「ただいま。あ、修平くん、まだいた。これ食べる?」
理恵が小さな紙袋を差し出した。
公園の帰りにパン屋へ寄ったらしい。娘の好きな丸パンと、僕の好きなくるみパンが入っていた。
「割引になってた。今日中だけど」
「僕、ひき肉買いに行くけど、ほかにいるものある?」
「あ、夕飯、ハンバーグにしてくれる?」
「そのつもり。あと、廊下の袋」
理恵は、あ、と言って廊下を見た。
「ごめん。忘れてた」
「それ、昨日も聞いた」
「今やる。今度こそ」
修平が後ろで咳をした。たぶん、笑ったのをごまかした。
理恵は袋を寝室へ運び、戻ってきて娘に、先に手を洗おう、と声をかけた。
買い物へは修平が付き合ってくれた。
玄関を出るところで、娘が自分も行くと言い出したが、僕は今日は留守番、と言った。娘は不満そうだった。理恵が、パンのお皿出して、と頼むと、そちらへ走っていった。
修平は靴を履きながら、小さく頷いた。
「何?」
「いや。ハンバーグ、俺の分もある?」
「ひき肉、多めに買うか」
夕方、僕は玉ねぎを刻み、フライパンを温めた。
娘は台所の入口から、何をしているのか何度も聞いた。理恵が居間で答えていたが、そのうち分からなくなったらしく、自分で見てきて、と言った。
「いや、ちょっと。今、火使ってるから」
「あ、ごめん。こっちでお皿並べよう」
娘の足音が離れていった。
焼き始めたハンバーグを返すと、一つだけ崩れた。
僕が余計な声を出したので、修平が覗きに来た。
「それ、俺のでいいよ」
「人の家でまで気を遣うなよ」
「じゃあ、きれいなのくれ」
理恵も台所へ来て、崩れた一つを見た。
「それ、味見にしよう。半分ちょうだい」
「まだ中、生かもしれない」
彼女が伸ばした箸を、僕は手首に触れて止めた。
蓋をして、もう少し待つ。洗い物は流しに溜まっているし、洗濯物もまだ畳まれていない。
「食べたら、そこの洗い物お願い」
「うん。鍋は水つけといて」
理恵が皿を取った。
蓋を外すと、湯気が顔にかかった。ハンバーグを一つずつ切って、真ん中まで火が通っているのを確かめた。
修平が娘の椅子を引き、娘は大人と同じ大きさのものを欲しがった。
僕は一番小さいハンバーグを娘の皿へ載せた。大きいのがいいと言われて、隣にくるみパンをひと切れ置いた。
それで納得したらしい。
理恵が横から、ソースここでいい、と聞いた。
僕は頷いて、空いた皿を一枚、彼女の前へずらした。
~完~




