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ウィザード・プロンプト ~落ちこぼれ少年は、漢字で魔法の常識を覆す~  作者: 早野 茂
第二部《家庭βテストと予期せぬ障害編》

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第9話「共有の広がり」

まだ夜明け前の薄暗い台所で、アキルは小さなランプの明かりを頼りに、数枚の羊皮紙と小刀を前にして一人黙り込んでいた。

吐く息は白く濁り指先はかじかんでいる。

足元から這い上がってくるような底冷えのする冬の冷気が小屋を満たしているが、アキルは寒さを感じるどころか、額にじっとりと冷や汗をかいていた。


昨夕、弟のトールが風呂場で引き起こしかけた事故の恐怖がまだ胸の奥にべったりと張り付いている。

木桶の縁まであと数センチ。

ほんの少し自分が気づくのが遅れていれば、トールは煮えたぎる熱湯を全身に浴びていた。

原因は明らかだ。

魔法の才能を持たない家族にとって、アキルが丹精込めて書いた『火』も『温』も、ただの「似たような黒い線の模様」でしかないのだ。


前世の記憶が静かに蘇る。

システムエンジニアとして働いていた頃、現場の人間が新しいシステムの操作を間違えて重大なトラブルを起こすたび、「使う側が不注意だ」と吐き捨てる同僚がいた。

だがアキラはそうは思わなかった。

人が疲労困憊している時、焦っている時、あるいは薄暗い場所で直感的に操作して間違えるのなら、それは人間が悪いのではない。

間違えやすい形にしてしまった設計デザインが悪いのだ。

「誰もが文字を読めるわけじゃない。見えなくても絶対に間違えない形を与えなければ、それは本当の技術とは呼べない」


アキルは小刀を手に取り、束になった羊皮紙の端切れに向き合った。

まず、かまどで激しい炎を生み出す『火』の符。

アキルは文字の書かれた羊皮紙の縁を、小刀でギザギザの山形に切り落としていった。

指先でなぞると、鋭く尖った角がチクチクと皮膚を刺す。

危険な炎の熱さを連想させる形だ。

次に、お湯を適温に保つ『温』の符。こちらは四つの角をすべて丸く切り落とし、滑らかな楕円形に整えた。

触れると引っかかりがなく、柔らかいお湯の心地よさが指先に伝わってくる。

最後に、部屋を照らす『明』の符は、きれいな真ん丸の形に切り抜いた。暗闇を払う太陽や月の形そのものだ。

さらにアキルは土間へ行き、余っていた木切れを組み合わせて、手のひらサイズの小さな木箱をいくつか作った。


空が白み始め、家族が次々と起きてきた頃には、アキルの準備はすべて整っていた。

「母さん、父さん。ちょっといいかな」

朝食の席につく前、アキルは家族をかまどの前に集めた。

「昨日のトールの事故は、僕がみんなに文字の意味と使い分けをちゃんと共有できていなかったから起きたんだ」

アキルは机の上にそれぞれの符を並べ、真剣な顔で説明を始めた。

「いいかい、『火』は一気に燃え上がるから火起こし用。『育』はゆっくり熱を保つから煮込み用。『温』はじんわりと水全体を温めるからお風呂用。そして『明』は熱を持たずに光だけを放つ。それぞれ違う意味と役割を持ってるんだ」

家族全員がランプの灯りに照らされながら、アキルの真剣な言葉に深く頷いた。

曖昧な奇跡でしかなかった魔法が、明確な意味を持つ道具として家族の間にしっかりと共有されていく。


「でも文字が読めない薄暗がりでも、絶対に見分けられるように工夫をしたんだ。トール、ちょっと来て」

アキルは、昨日の事故のせいで少ししょんぼりとしている弟を手招きした。

トールは申し訳なさそうにうつむきながら近づいてくる。

「目を閉じて、両手を出してみて」

言われた通りに目を閉じたトールの右手に、アキルはギザギザに切った『火』の符を、左手に角を丸くした『温』の符を握らせた。

「トール、指先で紙の端っこを触ってみて。右手の紙はどんな感じがする?」

「えっと……なんか、先がチクチクしてる。尖ってるよ」

「正解。チクチクして危ないのが、かまどの『火』だ。じゃあ、左手は?」

「こっちは、つるつるしてて丸い。全然痛くない」

「そう。つるつるして柔らかいのが、お風呂の『温』。そして、このまん丸い形が部屋を照らす『明』の符だよ。これなら、文字の形がわからなくても、触っただけでどれか絶対にわかるだろう?」


トールは恐る恐る目を開け、自分の両手に握られた違う形の符をまじまじと見つめた。

「本当だ……!形が違う!これなら僕、暗いところでも絶対に間違えないよ!」

「ああ。昨日は大きな声を出してごめんな。トールが悪いんじゃない、僕がわかりにくい物を作ったせいだったんだ」

アキルがしゃがみ込んで頭を撫でると、トールの顔にパッと明るい笑顔が戻った。

妹のミナも「私も触りたい!」と身を乗り出し、チクチクとつるつるの感触を確かめては無邪気にはしゃいでいる。


「それに、もう一つあるんだ」

アキルはかまどのすぐ横の柱に、先ほど余った木材で作った小さな木箱を一つ打ち付けた。

そして、ギザギザに縁取られた『火』と『育』の符を数枚その中に入れた。

「ここには、台所で使う『火』と『育』の符だけを入れておく。お風呂の符は裏庭の木桶のそばに、明かりの符は居間の壁に置く。使う場所に必要な用途の符をあらかじめ『最適配置デプロイ』しておく仕組みにすれば、混ざって迷うことはないからね」

「なるほどね」

リーナが感心したように頷いた。

「これなら、まだ薄暗い朝でも、他の符と間違えることがないわ」

父のゴルドも、腕を組みながら深く息を吐き出した。

「文字の意味を使い分け、子供でも間違えない形にして、置き場所まで整理する。大した職人だ」


それからの数週間で、アキルの家は劇的な変化を遂げた。

符はその場で慌てて書くのではなく、アキルが夜のうちに精神を集中して最もバランスよく書き上げたものを量産し、各場所の木箱にストックしておくルールにした。文字の骨格が常に完璧に整っているため、生み出される魔法の効果も一切ブレることがない。

家族全員が文字の意味と効力を正しく共有したことで、家事は驚くほど効率化され、手伝いの幅も広がった。


母のリーナは、かまど横の箱からギザギザの符を取り出し、触って確認し、ただなぞるだけ。それだけで毎朝、確実に勢いよく炎が立ち上がり、温かいスープがすぐに食卓に並ぶ。

夕方になれば、父のゴルドが帰る前に、トールが裏庭の箱からつるつるの符を取り出して木桶に貼り付ける。ゴルドが泥まみれで帰宅する頃には、いつでもたっぷりの温かいお湯が彼を待っている。

夜になれば、ミナが居間の箱から真ん丸の符を取り出して壁に貼る。油の嫌な臭いもしない、月のように澄んだ光が部屋の隅々まで明るく照らし出す。


魔法の才能が全くないはずの家族全員が、まるで当たり前のことのように、日々の暮らしの中で自然に魔法の道具を使いこなしていく。

誰もが文字の意味を理解し、役割を持ち、互いに助け合って生活を回している。

その穏やかな光景を見つめながらアキルは深く息を吐き出した。

前世の孤独なオフィスでどれほど願っても手に入らなかった、誰かと理解し合い、繋がり合う確かな手応えが、今ここにはあった。


やがて冬の容赦のない季節風が村を覆い尽くし、地面には真っ白な雪が降り積もり始めた。

村の他の家々では、凍える手で湿った薪に火をつけるために、毎朝大人たちが顔を真っ赤にして魔力を絞り出し、ひどい苦労をしている。

多くの村人たちが、隙間風の入る暗い小屋の中で、小さな火を囲んで身を寄せ合い、寒さにじっと耐えていた。


しかしアキルの家の窓からは、雪を溶かすほどに明るく温かい光が毎晩のように漏れ出していた。

煙突からはコトコトと煮込まれる肉や根菜の甘い匂いを含んだ煙が、絶え間なく空へと立ち昇っている。

家族の笑い声と、確かな熱気が満ちるその小さな小屋。

才能のない少年が生み出した文字の共有は、冬枯れの貧しい村の中で隠しようのない異質な温もりと豊かさとして際立ち始めていた。


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