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ウィザード・プロンプト ~落ちこぼれ少年は、漢字で魔法の常識を覆す~  作者: 早野 茂
第三部《町から学院へ・最初の死闘編》

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第15話「条件分岐の防壁」

冬の冷たい朝。

アキル家の土間には、いつものようにかまどから立ち昇る温かいスープの匂いが漂っていた。

昨夜アキルが『守』と『結』の文字を組み合わせて発動させた防衛術式は家全体をまるで見えない鋼の毛布で包み込んだかのような絶対的な安心感をもたらしていた。

外の冷気すら入り込まない水底のような静寂の中で、家族は久しぶりに泥棒の影に怯えることなく熟睡することができた。


だがその平穏は、朝食を終えた父のゴルドが日課の薪割りに向かおうとした瞬間にあっさりと崩れ去ることになった。


「ん……?なんだ、凍りついてるのか?」

玄関の重い木戸の取っ手を握ったゴルドが、不思議そうに声を上げた。

彼のごつごつした太い腕に筋肉が隆起し、力任せに戸を引くが、扉はピクリとも動かない。

「父さん、どうしたの?」

「いや、戸が開かないんだ。立て付けが悪くなったのか……ふんっ!」

ゴルドが足を踏ん張り、全体重をかけて引っ張っても、木戸はまるで分厚い岩の壁と完全に一体化してしまったかのように、微動だにしない。

軋む音すら鳴らないのだ。

それを見ていたアキルの背筋に、冷たい汗がツーッと伝った。


(しまった……!)

アキルは慌てて駆け寄り、扉の裏側に貼ってあった『守』の符と、部屋の四隅に置いた『結』の符を急いで外した。

プツン、と見えない糸が切れるような微かな音が響き、家を包んでいた重厚な気配がスッと霧散する。

「父さん、もう一度開けてみて」

ゴルドが訝しげに取っ手を引くと、今度はキィ、とあっけなく扉が開いた。

冷たい冬の朝の空気が、土間に流れ込んでくる。


「アキル、今のはお前の魔法のせいか?」

「……うん。ごめん」

アキルは手の中の符を見つめながら、悔しげに唇を噛み締めた。

「『守』という字は、外からの力だけじゃなく、内側からの力に対しても『現状を固定して動かさない』という働きをしてしまうんだ。だから、外から泥棒が入れない代わりに……僕たちも外に出られない」

「なるほど、道理でびくともしないわけだ。しかし、これじゃあ薪を取りに行くこともできないな」

母のリーナも困惑したように首を傾げた。

「川へ洗濯にも行けないわね。いくら家で水が汲める仕掛けがあるといっても、村の洗い場に全然顔を出さないのは不自然だし……。夜、寝る前だけ魔法をかけて、朝になったら符を外すようにする?それとも、家族だけが通れる『印の紙』みたいなものをみんなで持ち歩くかしら」


「だめだ。それじゃあ意味がない」

アキルは即座に否定した。

泥棒が夜に来るとは限らないし、紙の鍵を持たせれば出かける時に忘れたり、落として家に入れなくなったりする。

最悪、泥棒にその紙を奪われたら終わりだ。

「人間がいちいち気をつけなきゃいけない道具」は、絶対にいつか失敗する。


(ただ外からの脅威を弾くだけの強固すぎる壁は、自分たちを閉じ込めるだけの牢獄だ。安全すぎて使い物にならない欠陥品にすぎない)

厳しい現実に直面し、アキルの技術者としての魂に火がついた。

「中からの力には開き、外からの悪意ある力には閉じる。そして、帰ってきた味方は通す。そういう『状況によって働きを変える壁』を作らなきゃいけない」

「働きを変える魔法……?しかし、鍵も持たずにどうやって家族を見分けるんだ?」

ゴルドが呆れたように言うが、アキルの目はすでに新しい術式の構造を組み上げることに没頭していた。

「落とさなくて、奪われないもの。……『声』を鍵にするんだ」


アキルは土間にしゃがみ込み、新しい羊皮紙を切り出して二つの文字を書き殴った。

『界』と『護』。


「みんな、聞いてほしい」

アキルは二枚の符を手に持ち、家族に説明を始めた。

「ただ固くするだけの『守』に加えて、この字を使うんだ。まず、この『界』。上の部分は四角く区切られた畑のような土地を表していて、下の部分はそこへ明確な境界線を引くという意味の形なんだ。これを扉の枠に貼ることで、空間に明確な『内』と『外』の区切りを作る」

アキルは玄関の木枠の上下左右に、『界』の符を貼り付けた。

「次に、この『護』という字。左側の『言葉』と、右側の鳥を手にして祈る形が合わさって、祈りの言葉で災いから身を守るという意味になるんだ。これを扉の取っ手に巻き付ける」

アキルは振り返り、家族の顔を見回した。

「この文字の持つ『言葉』と『守る』という意味を利用して、家族の『声』を扉に覚えさせるんだ。外から帰ってきた時、扉の前で自分の名前を言えば、この字が家族の声を祈りの言葉だと認識して、優先して通してくれる」


「なるほど、声なら持ち歩かなくてもいいし、なくす心配もないな!」

「そういうこと。だから、みんな、この取っ手に巻いた『護』の符に向かって、順番に自分の名前を言ってくれるかな。それが鍵として登録されるから」

「ああ、わかった。……俺だ、ゴルドだ」

父が重い声で名乗ると、取っ手の符が一瞬だけ淡く光り、声の波長を記憶した。

「私はリーナよ」

「ミナだよ!」

「僕はトール!」

家族が次々と自分の名前を符に吹き込み、その度に小さな光が明滅して確かな認識を示す。

最後にアキルが符に向かい、少し低く落ち着いた声を意識して言った。

「……アキルだ」

すると、すかさずミナがくすくすと笑って突っ込んだ。

「もう、お兄ちゃん、恰好付けすぎ!」

「えっ、そ、そうか?」

照れ隠しに頭を掻くアキルを見て、ゴルドとリーナも声を上げて笑った。

魔法の失敗による重苦しい緊張感がふっと緩み、冷え切った土間に温かい家族の団らんが戻る。


「よ、よし!これでみんなの声が『祈りの言葉』として刻まれた。最後に、この『結』の字を使って、バラバラの文字を一つの『文章』として繋ぎ合わせるんだ」

アキルは気を取り直して部屋の中心に立ち、深く深呼吸をして魔力を放った。

「繋がれ!」


チリリリリッ!

静電気の弾ける音が鳴り、四隅の『結』から放たれた光の糸が、壁や床を這って玄関へと殺到する。

光の糸は、枠に貼られた『界』、扉の『守』、そして取っ手の『護』を次々と貫き、複雑な幾何学模様を描きながら一つに融合していった。

バラバラだった文字の意味が繋がり、「内と外を区切り、家族の声を認識して護り、それ以外の力は防ぐ」という、一つの長くて強固な『文章』になった瞬間だった。


アキルは額の汗を拭い、ゴルドに向き直った。

「父さん。一回外に出た後、無言のまま思いっきり扉を開けようとしてみて」

ゴルドは力強く頷き、一度外に出ると扉を閉めた。


直後、ガタガタッ!と取っ手を外から激しく揺さぶる音に続き、ガンッ!と小屋全体を震わせるような重い衝撃音が響いた。

ゴルドが扉を強引に押し破ろうと、外から全体重を乗せてぶつかっているのだ。

しかし扉は金属の壁のように反発し、一ミリたりとも開かない。

「よし!家族の声を持たない外からの力は完全に弾いてる!」

「腕の骨が折れるかと思ったぞ。まるで城門だな……」


外から驚愕するゴルドの声が聞こえる。

「お父さん、今度は『俺だ、ゴルドだ』ってさっき登録した声をかけてから開けてみてよ」

アキルに言われ、外のゴルドが自分の名前を名乗る。

すると次の瞬間、強張っていた扉の空気が、まるで主人の声におとなしく従う犬のようにフッと柔らかく緩んだ。

キィ……と、ゴルドの手によって外からあっさりと扉が開けられた。

「おおっ……!開くぞ!名前を言うだけで、外からでも普通に開けられる!」


「じゃあミナ、今度は中から取っ手に触って開けてみて」

ミナがおそるおそる扉に近づき、取っ手を手前に引く。扉はなんの抵抗もなく軽やかに開いた。

「中から外へ出る時は、声を出さなくても『界』が内側からの動きだと判断して通してくれるんだ」

「すごいわ、アキル!これなら私たち家族は手ぶらで出入りできるのに、泥棒は絶対に入ってこれないのね!」

リーナが歓声を上げ、ミナとトールと手を取り合って喜んだ。


アキルは深く息を吐き出し確かな達成感を噛み締めていた。

これでもう、ただ固いだけの牢獄ではない。

家族の生活と豊かさを維持したまま、外の悪意だけを完全に締め出すことができる。

だがアキルの心の中の警鐘は、まだ鳴り止んではいなかった。

術式は完成した。

しかし本当のテストはこれからなのだ。

アキルは念のため、家族全員に十分な予備の符を詰めた『赤い袋』を配り首から下げるように言った。

「基本は手に持った札で差し替えていくけど、もし暗闇で落としたり、パニックになって分からなくなったら、この緊急用の袋から出して使って。中には何種類も入っているけど、焦らなくていい。みんなで工夫したあの形を触れば、見えなくても絶対に正しい札が選べるはずだから」

その日の夜。

空には月の光すらなく、底知れぬ暗闇が村全体を覆い尽くしていた。

アキル家の小屋は、すべての明かりを落とし、深い静寂に包まれている。

家族は奥の部屋で固まって息を潜め、アキルだけが土間の暗がりの中で、じっと玄関の扉を見つめていた。


ザクッ、ザクッ……。


風の音に紛れて、外の雪を踏みしめる複数の足音が、確実に小屋へと近づいてくる。

(……来た)

足音は玄関の前でピタリと止まった。

扉の向こう側に、腹をすかせた獣のようなどす黒く冷酷な悪意がへばりついているのを、アキルは肌で感じ取っていた。


「おい、この家だ。毎日いい匂いの煙を上げてたのは」

「鍵はかかってるか?まあいい、手こずるようなら斧でぶち破れ。皆殺しにして、金と食い物を全部いただくぞ」

外からくぐもった、這いずるような男たちの声が聞こえる。

チャキ、と鈍く刃物を抜く金属音が、凍てつく夜の空気に響いた。


アキルは恐怖で震えそうになる膝を必死に押さえつけながら、暗闇の中で鋭く目を細めた。

(来るなら来い。僕の編み上げた『文章』が、お前たちの理不尽な暴力を絶対に許しはしない)


静寂の頂点で、扉の取っ手が外からゆっくりと捻られた。


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