第11話「裏表の符」
「わたし、今日も一発で火をつけるからね!」
朝食の準備をする母・リーナの横で、ミナが自慢げに胸を張る。
危険な火を扱う魔法は幼い子供だけで行うことは禁止されており、必ず大人が見守る中で注意して行うという約束になっていた。
「ええ、お願いね。ミナが手伝ってくれるから、母さん大助かりよ」
リーナが優しく見守る中、ミナは嬉しそうにかまどへ向かった。
かまどの脇に打ち付けられた木箱から、ミナは小さな手で一枚の符を取り出す。
指先にチクチクと触れるギザギザの縁。
間違いなく『火』の符だ。
だがその羊皮紙の端切れは、触っただけではどちらが表でどちらが裏なのかまでは区別がつかない。
アキルの安全設計は、あくまで「符の種類を取り違えない」という点に留まっており、表裏の区別までは未対策だったのだ。
ミナはそれを薪の間に平らに置き、目を閉じて指先から小さな魔力を流し込もうとした。
「あ、待って」
その時足元で丸まっていた飼い猫が、ミナの足首にすり寄ってきた。
ミナはくすぐったさに「ひゃっ」と声を上げ、手元を滑らせてしまった。
ポロリと落ちた符を慌てて拾い上げ、薪の間に置き直す。
まだ夜明け前の薄暗い台所では、黒い炭で書かれた文字の面がどちらかまではよく見えない。
(早く火をつけて、母さんに褒めてもらわなきゃ)
焦ったミナは紙の裏表が逆になってしまったことにも気づかないまま、再び指先を符に向けて魔力を流し込んだ。
チリッ……。
いつもの静電気が弾けるような音がした。
しかしその直後に続くはずの「ポンッ」という小気味良い破裂音が鳴らない。
代わりに聞こえてきたのは、ブスブスッ、ヂリリリリッ!という、何かが無理やり圧縮されて軋むような不気味な不協和音だった。
「え……?」
ミナが目を開けた瞬間、かまどの中から異様な熱風が顔に吹き付けた。
本来なら文字の書かれた上面から立ち昇るはずの炎が、裏返しのまま発動したことで『下』に向かって猛烈な勢いで噴射されたのだ。
ゴオォォォッ!
まるで巨大な獣が熱い息を吐き出したかのような轟音とともに、限界まで凝縮された火柱がかまどの底に激突する。
行き場を失った熱風と炎が、底に溜まっていた大量の灰を猛烈な勢いで巻き上げながら、かまどの口から外に向かって爆発するように溢れ出した。
「きゃあああっ!」
ミナは悲鳴を上げて尻餅をついた。
熱い灰と煙が猛烈な勢いで台所に充満していく。
「ミナ!」
土間で農具の手入れをしていた父のゴルドと、奥の部屋から飛び出してきたアキルが同時に叫んだ。
アキルは煙の中をためらうことなく飛び込み、かまどの前でへたり込んでいるミナを抱き寄せて後ろへ引きずった。
それと同時に、ゴルドが近くにあった水桶を掴み、かまどの中へ勢いよくぶちまける。
ジュワァァァァッ!
大量の水蒸気が上がり、暴れ狂っていた炎がシューッと甲高い音を立ててくすぶりながら、ようやく消火された。
台所は真っ白な煙と灰に包まれ、家族全員が激しく咳き込んだ。
「けほっ、こほっ……!ミナ、怪我はないか!?」
アキルが煤まみれになった妹の顔を覗き込む。
ミナは恐怖でガタガタと震えながら、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「うわぁぁん!お兄ちゃん、ごめんなさい!わたし、ちゃんとギザギザの紙を使ったのに、火が……火が、下に向かってどかんって……!」
「大丈夫だ泣かないでいい。火傷してないならそれでいいんだ」
アキルはミナの背中をさすりながら、かまどの中へ視線を向けた。
ずぶ濡れになった薪の間に、半分黒く焦げた羊皮紙がへばりついている。
アキルは木の枝でそれを拾い上げ、水で煤を洗い流した。
ギザギザに縁取られた紙の中央には、確かに『火』の文字が書かれている。
アキル自身が昨夜、丁寧に書き上げた完璧なバランスの文字だ。
しかし、アキルはその紙の「裏側」を見て、ハッと息を呑んだ。
「……裏表が、逆だ」
「裏表?」
ゴルドが顔をしかめて聞き返す。
リーナも不安そうにアキルを見つめた。
アキルは土間にしゃがみ込み、拾い上げた符を家族に見えるように置いた。
「文字の面が下を向いている。ミナ、紙を落とした時に、拾い上げて裏返しのまま魔力を流したね?」
ミナはしゃくりあげながら、小さく頷いた。
「う、うん……ギザギザの紙だったから火の魔法だって思って……でも、暗くてどっちが表かわからなくて……」
「ミナは悪くない。僕が、一番大事なことをみんなに伝えていなかったんだ」
アキルは消し炭を手に取り、土間に大きく『火』の文字を書いた。
「火の符は、文字が書かれている面から炎が噴き出す仕組みになっている。だから平らに置けば、上に向かって炎が立ち昇る」
アキルは言葉を切り、符を裏返して土に置いた。
「でも、紙が裏返しになれば、炎は下へ向かって噴き出す形に変わる」
その説明を聞き、ゴルドとリーナは青ざめた顔を見合わせた。
「ただの印じゃないのか……」
ゴルドが信じられないというように呟く。
「ああ。面が違えば、まったく別の危ない術になるんだ」
アキルは真剣な眼差しで家族を見渡した。
「火が下に向かっただけで済んだのは、まだ運が良かったかもしれない」
アキルの言葉にミナの肩がぴくりと跳ねた。
「もし、ミナがこの紙をかまどに置く時、いい加減に入れて紙が手前に傾いていたらどうなっていたと思う?火の出る面がかまどの口を向いた状態で発動していれば、炎は手前側、ミナの顔に向かって直に噴き出していたはずだ。大火傷どころじゃ済まなかった」
「顔に……」
リーナが口元を両手で覆った。
もしミナの顔に炎が直撃していたら……想像するだけで背筋が凍るような光景だった。




