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ウィザード・プロンプト ~落ちこぼれ少年は、漢字で魔法の常識を覆す~  作者: 早野 茂
第二部《家庭βテストと予期せぬ障害編》

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第10話「効率の証明」

朝の冷気は土壁の隙間から容赦なく忍び込んでくる。

吐く息は白く濁り、手足の先からじんわりと感覚を奪っていくような、布団から出るのにも勇気がいる厳しい季節だ。

村の多くの家々では、この寒さの中で湿った薪に火をつけるために、顔を真っ赤にして魔力を絞り出す苦労の時間が始まっているはずだった。

だがアキル家の台所には静かだが確かな活気と温もりがあった。


母のリーナは慣れた手つきでかまど脇の小さな木箱を開け、縁がギザギザに切り取られた羊皮紙を取り出す。

そして昨夜のうちにセットしておいた薪の間に慎重に置き、指先で軽くなぞるように微弱な魔力を流し込んだ。

チリッ、ポンッ。

小気味良い音と共に一瞬にしてかまどの中に力強い炎が立ち上がった。

煙にむせながら何度もやり直すことも、無理に魔力を絞り出して疲労に顔を青ざめさせることもない。

数分後には鍋のお湯が沸き、根菜と干し肉をじっくりと煮込む温かいスープの匂いが部屋を満たし始める。


アキルが考案した文字の形と触覚による識別。

そして用途ごとの置き場所の固定。

これらの工夫は、アキル家の朝の風景をすっかり変えてしまった。

家族はもうどの紙を使えばいいかと迷うこともなく、まだ夜が明けきらない暗がりの中でも手探りで正しい符を取り出し、当たり前のように魔法を使いこなしている。

アキル自身も毎晩寝る前に机に向かい、翌日消費されるであろう分の符を丁寧に書き上げ、台所や風呂場などのそれぞれの箱に書き溜めておくことを日課としていた。


数日間にわたる激しい吹雪が、ようやく収まった翌朝のことだった。

吹雪の間、外に出られなかったため家族は家の中で暖を取るためにかまどで『火』の符を、温かいスープを絶やさないために『育』の符を、そして冷え切った体を温める風呂の湯を保つために『温』の符を、普段の倍近いペースで消費していた。

いつものように誰よりも早く起きたリーナは、身震いしながら冷え切った台所へ向かいかまど脇の木箱に手を入れた。


「……あれ?」

指先が空を掻いた。

箱の中には、いつもなら必ずあるはずのチクチクとした縁の感触がない。

何度探っても指に触れるのは木の底板だけだった。

羊皮紙に書かれた『火』の符は、数回魔力を通して使うと文字の線が熱で焼けて掠れ、魔法の効力を失ってしまう消耗品だった。

そのため限界が来た符はそのまま薪と一緒にくべて燃やしてしまうことにしている。

吹雪の間の異常な消費量にアキルの毎晩の用意が追いつかず、ついに新しい『火』の符のストックが切れてしまったのだ。

「困ったわね……」

リーナは、ひんやりと冷たいかまどを前にして立ち尽くした。

今からアキルの部屋へ行き、彼を起こして新しく書いてもらえばいい。

だが昨夜も遅くまで符の制作と新しい文字の検証に没頭し、机に突っ伏すようにして眠っていた息子の寝顔を思い出すと、どうしても叩き起こす気にはなれなかった。

(……私でも、書けるかしら)

リーナは土間の隅に置かれていた予備の羊皮紙の端切れと、かまどから取り出した小さな消し炭を手に取った。

アキルが『火』の文字を書く時の筆順や形は、横で何度も見て知っている。

左の点、右の点、真ん中から左への力強い払い、そして右への払いだ。


リーナは羊皮紙を食卓に置き、消し炭を握った。

しかしいざ自分で書こうとすると思いのほか難しいことに気づく。

朝の厳しい底冷えのせいで指先がひどくかじかんでおり、炭を持つ手が微かに震えてしまうのだ。

「ええと、左に点……右に点……」

なんとか書き上げた文字は、アキルが書く均整のとれた美しい『火』とは程遠かった。

右の払いが極端に短く途切れ、全体的に左へ大きく傾いた、いびつで弱々しい形になってしまった。


「でも、形は合ってるはずだから……」

リーナはその羊皮紙をかまどの薪の間にそっと置き、祈るような気持ちで魔力を流し込んだ。

チリッ、と微かな音が鳴る。

だがいつものような力強い炎は上がらなかった。

ぼすっ、とくぐもった嫌な音がしたかと思うと、羊皮紙の上の黒い線から、炎ではなく大量の白い煙が濛々と噴き出し始めたのだ。


「けほっ、こほっ!」

リーナは目に染みる煙に慌てて後ろへ退き、激しく咳き込んだ。

薪に火が燃え移る気配はなく、ただ不完全燃焼の嫌な匂いと煙が台所に充満していく。


「母さん!?どうしたの!」

その騒ぎと煙の匂いに驚いて寝室からアキルが飛び出してきた。

「ご、ごめんなさい、アキル。火の符が切れてたから、自分で書いてみたんだけど……火がつかなくて、煙ばかり……」

涙目で咳き込む母を見てアキルは急いで窓を開け放ち、煙を外へ逃がした。

そしてかまどの中に残された、リーナが書いた『火』の符を拾い上げた。文字の線は黒く焦げているが、発火には至っていない。


「……なるほど、そういうことか」

アキルは文字のいびつな形を見て、すぐに原因を悟った。

「母さんが悪いんじゃないよ。この字、右の払いが短くて、線が細いでしょ。右の払いが短いせいで、熱がうまく立ち上がらず、火になる前に逃げてしまったんだ」


アキルは自分の机へ向かい、引き出しの奥にしまってあった予備の『火』の符を持ってきた。

アキルが暖かく落ち着いた環境で書いた、寸分の狂いもない美しいバランスの文字だ。

アキルはそれをかまどに置き、リーナにうなずいてみせた。

「もう一度、これに魔力を流してみて」


リーナが言われた通りにその綺麗な符をなぞると、ポンッ!と快い音が響き、あっという間にかまどの中に勢いよく温かい炎が咲き誇った。

先ほどのくすぶりが嘘のような、完璧な発火だった。

パチパチと小気味良く燃える炎が、冷え切った台所をオレンジ色に染め上げていく。


「すごい……やっぱり、アキルの書いた符じゃないと駄目なのね」

リーナはほっと胸を撫で下ろしながらも、少し申し訳なさそうに言った。

「私には、魔法の才能も、綺麗な文字を書く才能もないみたい」


「違うよ、母さん」

アキルは首を横に振り、かまどの火の温もりを感じながら真剣な顔で母を見た。

「才能の問題じゃないんだ。問題なのは『いつ、どんな状況で書くか』ということなんだよ」


前世の記憶が蘇る。

トラブルが起きた現場で慌ててプログラムを直そうとすると、焦りから必ず別のバグを生んだ。

完璧な形は、安全で落ち着いた環境で作ってから現場に持ち込むべきなのだ。

「その場で必要になった時に慌てて書こうとすると、どうしても焦りが出る。今日みたいに厳しい寒さで手が震えている時なら、なおさら文字の形が揺れてしまう。形が揺れれば、当然、魔法の働きもブレて不安定になってしまうんだ」

アキルは、自分がいつも書き溜めている符の束を思い浮かべるように言った。

「だから僕が夜の間に暖かくて落ち着ける環境で綺麗な形をたくさん作っておく。みんなは箱から、完成している符を取り出して使うだけにする。そうすれば……」


「そうすれば……誰が、どんなに焦っていても、いつもと同じように火がつく」

リーナが、ハッとしたようにアキルの言葉を継いだ。

「その場で魔法を作るんじゃなくて、あらかじめ作られた魔法を、ただ使うだけ。だから、私みたいに不器用でも、失敗しないで済むのね」


「その通りだよ」

アキルは力強く頷いた。

「文字の意味を理解して使い分けることも大事だけど、それ以上にあらかじめ整えられた符を取り出して使うというやり方が、魔法を誰にでも使える安全な道具にしてくれるんだ」


かまどから立ち昇るオレンジ色の炎が、リーナの優しげな顔を赤々と照らしていた。

彼女は微笑み、アキルの頭を撫でた。

「ありがとう、アキル。あなたが考えてくれたやり方が、どれだけ私たちを助けてくれているか、今日ではっきりわかったわ」


窓の外ではまだ厳しい冬の景色が広がっている。

だがアキル家の台所には、かまどの中で勢いよく燃える炎の音と、鍋から漂う温かいスープの匂いが満ちていた。

昨日と同じように決められた場所から符を取り出し、昨日と同じように火をつける。

誰もが迷わずに行えるその当たり前の繰り返しの中で、かまどの火は今日も家族の笑顔を赤々と照らし、小さな小屋を暖かく包み込んでいる。




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