第7話 ジフバの影送り①
桃色のササのような葉が、なだらかな丘を覆っている。時折見える古ぼけた小屋は、人の気配はない。
キュラキュラキュラキュラ。ピラちゃんの歩行音に驚いたのか、桃色の平野にいた鳥たちが一斉に羽ばたいた。道はない。ディミトラさんの背丈ほどもあるササの中を、ひたすらピラちゃんで押し通っているところだ。ガサガサガサと葉の擦れる音が鬱陶しい。
むせかえるような夏草の香りのなか、僕たちは、緑色の刺繡の入った灰色の布に向き合っていた。
「これは?」
ディミトラさんが、右向きのカタツムリのような刺繍模様を指差す。
「……なんでしたっけ?」
「『ディ』ですよ、『ディ』」
これが『ディ』。ディ、ディ、ディ……必死に記憶する。
「これとこれでなんと読みます?」
「ええっと……『ミ』?」
「正解です……これとこれは?」
「……『ト』?」
「正解です……じゃあ次はこれとk」
「『ラ』」
即答する僕にディミトラさんは、がばりと顔を上げた。
「すごいじゃないですか! 指し示す前に答えましたよ!」
ディミトラさんは僕のことを相当な馬鹿だと思っているのかもしれない。これでも一応東京の大学を卒業しているのだが。
ディミトラさんは腰を伸ばして、両腕を上げながらうぅんと唸る。
「どうにも弱りましたねぇ。会話の語彙力が人並み以上なので、てっきり商会文字も読めるものだと勘違いしていました」
僕もそう思っていた。
ピラちゃんに乗って移動中に、ぼうっと外を眺めている僕を気にしてか、ディミトラさんが本を貸してくれたのだ。それが、まるで読めなかった。
目の前の刺繍を指でなぞる。適当な走り書きに見える、目の前の図形がこの世界の文字らしい。五匹ぐらい同じカタツムリが這っているようにしか見えないのだが、これで「デァ」「ディ」「デゥ」「デェ」「デォ」の発音になるとのことだ。
「『デァ』は、今となっては『デァデァタロス』ぐらいしか使われないので、覚えなくていいですよ」
なんだそれ。ケンタウロス的な、化け物かなにかだろうか。
聞いてみると「ホジョイ地方で、舌の位置を意識して居心地が悪くなる現象をデァデァタロスと言うんです」と教えてもらった。聞かなきゃよかった。今、ものすごく居心地が悪い。
僕はため息をついた。基本の音節すら危ういのに、知らない単語がばんばん出てこられたらお手上げだ。東京の大学を卒業しても、語学力は日本国内専用でしかないのだ。異国の言語なんて、習得できるとは思えない。
「文字が読めないと、やっぱりまずいですかね?」
「文字が読めない人間なんて、いっぱいいますよ。言葉が通じるなら、普通に生活していく分には問題ないんですがね」
ディミトラさんはとんがり帽子をかぶりなおす。
「しかしトキオの古書館の本が読めないってことですからねぇ……『読み人』をつければいいんですが、あれは文字単価で金銭を要求してくるから、高くつくんですよね。阿漕な商売ですよ、まったく」
おかしな話だ。どうしてディミトラさんの口から、『阿漕』なんて単語が出てくるのだろう。強欲に金品を欲することを『阿漕』と表現できるのは、日本語をある程度習得している者の特権のはずだ。異世界に転移する不思議パワーついでに、言語変換能力をつけてくれているのだろうか。それなら、文字も読めるようにしてくれればよかったのに。
黙り込んでしまった僕を気遣ってか、ディミトラさんは文字版布を丸めていく。
「まあ、のんびり覚えていけばいいですよ。トキオまでは果てしない距離ですし」
「それよりも」と丸めた文字布を突き付けてきた。
「それよりも目先の金銭を稼ぐことを考えるんですよ。せっかくいい魔法を使えるんですから、どんどん売り出していかないと。前にいた世界では写真でどうやって稼いでいたんですか?」
説明がむずかしい。僕はフリーのカメラマンだった。山登りが趣味だから、アウトドア雑誌関連の撮影が多かった。外部のスタジオを借りてキャンプ用品の物撮りをやったり、編集者さんについていって山のルポ記事の撮影を担当したり。むろん、それだけでは食べていけないので、学校行事や結婚式の撮影も請け負っていた。
「要はその画面に映っている絵を、本や紙に移す魔法が必要だってことですよね?」
「紙にプリントすることはできるんですよ」
僕はカメラバッグから、携帯型の写真プリンタを取り出した。片手に収まるほどのサイズだが、カメラとUSBコードで接続することで手ハガキサイズの写真をプリントアウトすることができる。カメラメーカーの新作ということで使用感のテストをしてくれとメーカー担当者から無理やり持たされていたのだ。
「こんなものはスマホの写真をプリントするときに使うのであって、我々プロのカメラマンが利用することはないですよ」と伝えていたのだが、謝ります。利用するタイミングがありました。
ただ、とても大きな問題がある。
「フォトペーパーが手元に三十枚しかないんです」
このプリンタはインクが不要な代わりに、色が紙自体に埋め込まれている専用のフォトペーパーが必要なのだ。その紙が手元に三十枚しかない。あっという間に紙切れになってしまう。
ディミトラさんは興味深そうに小型プリンタを眺めた後、「試しにやってみてくださいよ」と言ってきた。
「いやでもこの紙は貴重なんですよ」
「紙の問題なら、解決する手段が思い当たります。五枚ほど残しておけば大丈夫ですから、一枚プリントしてみてください」
この世界で専用のフォトペーパーが手に入るとは思えないのだが。言われたとおりに紙をセットして、プリントしてみる。
ウィーンと音を立てて、ゆっくりと出てきた紙に写っているのは、ニットーの丘の上で遠くを眺めているディミトラさんの後ろ姿だ。緑の草葉が揺れて、帽子を押さえている光景だ。風を感じられていいなと思ったのでこっそり撮っていたのだ。
ディミトラさんは顔を伏せて、写真をじっと眺めている。
「適当に撮ったやつなんで、ちょっとアレですけど」
ディミトラさんが黙っているので、口が勝手に言い訳を始める。
「プリンタも、ちゃんとした奴ならもっときれいな色が出るんですよ。光の加減とかも、ちょっとアレだし」
さっきからアレってなんなんだ。自分でもわからないまま、弁解を連ねる。
次の言葉を紡ぐ前に、ディミトラさんが顔を上げた。
「いいじゃないですか。コレ、もらってもいいですか?」
僕が頷いたちょうどその時。
ピラちゃんがキューイと声を上げた。ガタンと大きく揺れてから動きを止める。
「あらら、どうしたんです? ピラちゃん、ご飯は今朝がた食べたでしょうに」
ディミトラさんは写真を腰につけた小袋に仕舞って、ピラちゃんの頭によじ登った。
僕は後方に積まれたユバネの種穂を二束脇に抱えて、ピラちゃんから飛び降りた。ピラちゃんは頭部からユバネというススキに似た植物を食べさせることで稼働するのだ。もっきゅもっきゅと食べる姿は可愛らしい。なかなかに愛着がわいてきている。
前方に回り込むと、ディミトラさんがササやぶの中でしゃがみこんでいた。その前になにか古ぼけた布が見える。
「ご飯じゃないんですか?」
ディミトラさんは答えない。しゃがみこんだまま、何事かつぶやいている。
僕はもっと前に回り込もうとササをかき分けようとして、片足を上げたまま固まった。
ディミトラさんの前には、古ぼけた布があった。
服だ。よく見るとそれは服で、その下にあるのは、白い骨だった。
祈りを終えたディミトラさんが、頭蓋骨の下に埋まっていた木製のプレートを持ち上げた。土を払って、文字を読んでいる。
「……なんて書いてあるんですか?」
「『ウトゥラ公国 東南地区 マルタのオオザ』……名札です」
ウトゥラ公国。これから向かおうとしている国のはずだ。ディミトラさんは木製の名札の裏側を見て、しばらく静止した。
「……どうしたんです?」
ディミトラさんは、僕に差し出してきた。受け取った名札の裏には、爪でひっかいたような跡があった。確かに文字だ。読めはしない。ただ悲痛に刻まれた跡であることはわかる。なんと書いてあるのだろう——。
「『愛しの娘。どうか幸せに。城の外へ出てくれるな』」
ディミトラさんはそうつぶやいて、白骨遺体を愁いに満ちた表情で見下ろした。
「あなた、『影送り』にされたんですね」




