第5話 荒野の死神②
「馬鹿馬鹿しい。死神なんているわけないでしょうに」
ハケスさんの一行と別れた後、今ほど聞いた話をディミトラさんに話すと、失笑された。むっとする。だって魔女はいるじゃないか。
「実際に商人さんが何人もなくなっていると聞きましたよ。青い石を死神に奪われたんだって……そもそも青い石って持ち運びできるものなんですか?」
「青い石を砕くか、あるいはほんの少し削ったものですね。親指ほどのサイズがあれば、数週間加護を受けられるんですよ。魔法使いではない、外交官や商人はネックレスにして首につけるのが通例です。当然、外でその欠片をなくすと、命を落とすことになりますがね」
ハケスさんがずっとローブで体を纏っていたのは、青い石のネックレスを隠すためだったのだろうか。
「じゃあ偶然、この谷間で旅人たちが一斉に青い石をなくしたって言うんですか?」
ディミトラさんは、ハケスさんからもらった赤い実をぽんと上に投げた。落ちてきた実を掴む。話しながら、その動作を何度か繰り返した。
「短期間とはいえ、たかが十数人がなくなっただけだとノートスは言っていましたよ。死体のそばから石がなくなっていたから奇妙な話が出てきただけで、死因は気候のせいだろうと言っていました」
「気候?」
「我々は迂回するので通りませんがね、この先に砂漠があるんですよ。水がない状態で砂漠を彷徨って、影に入った気の緩みでみな死んでしまったのではないかと。真実は存外そんなもんですよ」
そこまで言って赤い実にかじりついた。なかなか口元から実が離れない。少し繊維質なようだ。ディミトラさんの小さい口では嚙み切るのさえ大変そうだ。
「でも、旅人のなかには死ぬ間際に『青い石を奪われた』ってうわ言をつぶやいた人もいたって。なんでも空をも覆うほどのローブを着た死神が目の前にいたって……」
「極端に暑いか、極端に寒いと、人はそういう幻を見るんだそうですよ。——少々青臭いですねぇ、この実は——石がなくなったのは死体泥棒でしょう。旅人が自分の卑しさを隠すために、そういった噂を流すことはよくあります」
熱中症とか、低体温症とか、そういうものだろうか。山小屋だと思って近づいてみたらただの枯れ木だったという幻覚を、ちょうどこの世界に来る直前の雪山で経験していた。なので、幻覚の恐ろしさは、体が覚えていた。
「砂漠の空はノートスの庭です。彼が言っていましたよ。『この地に死神がいるとすれば、死体をついばむオオバラスだけだ』と」
噛みつくことに疲れた様子で、三分の一ほどかじりとった実を、僕に放り投げてきた。
「それよりもミタカ、予定変更です。この岩の迷路の一角に、小さなオアシスがあるそうですよ。今日はそこで一泊しましょう。この乾いた空気のなかで、ピラちゃんに無理させたくないですし。ねぇ、ピラちゃん?」
ピラちゃんがキューイと返事をした。僕も大きく頷いた。
たどり着いたオアシスは、地下水があふれ出した池ができた小さな広場だった。ちょうど上部が丸く空いていて、日の光が差し込んでいた。道すがらに見たつくしの化け物が、どぎついピンクの花を咲かせていた。きれいな水で、美しい景色だ。見通しの悪い森で過ごすよりずっといい。
僕は、面倒くさがるディミトラさんを引き連れて、天然の回廊で写真を撮った。「今日の調理はミタカがやるんですよ」と不平不満を顔に出すディミトラさんだったが、おだてるとノリノリで空を飛んでくれた。
おだて方がわかってきた。ディミトラさんは、容姿を褒められるより、飛行技術を褒められるほうがうれしいようだ。
*
ごんごん、と後頭部を叩かれた。この世界に来たときと同じように、だ。
またディミトラさんに突っつかれているのだろうか。僕は寝返りを打って薄く目を開けた。
少し離れた場所に、石囲みのなかで燃える火があった。その脇にはオアシスの水たまりで濡らしてしまった僕の靴が乾かしてある。奥にはディミトラさんが眠っているテントが見えた。
がさり。ツエルトの擦れる音がして、胸元まで下げられた。そうだ、風もないし雨も降らなさそうだったので、ツエルトを張らずに掛け布団代わりにしていたのだ。
僕はツエルトを肩まで引っ張り上げた。目を閉じて、また寝返りを打った。
じゃり。
大地を踏みしめる音がした。
誰かいる?
悪寒が体を走り抜けた。刺激しないように、ゆっくりと瞳を開ける。
目の前には、焚き火に照らされて橙色に輝く岩壁があった。
その橙をかき消すように、三メートルは超えようかという巨大な影があった。影はなにかを讃えるように、ローブに包まれた両腕を広げていた。
影が、焚き火の炎に揺らいでいる。
心臓の鼓動が高鳴る。
影は、こちらの様子を伺うように、かすかに頭をもたげている。
目を閉じて、深く息を吸い込んで、吐いた。
心臓の鼓動は高まったままだ。
もう一度深く息を吸い込んで、体を起こして振り返った。
寝る前と同じ、静寂のオアシスだった。相変わらずテントは寝静まっていて、ピラちゃんは入り口の脇で岩のように動かない。ぱちっぱちっと炭木が内側から焼かれる音だけが聞こえてきた。
僕は目を瞬かせた。
気のせいだったのか? 疑問に思いながら、また焚き火に背を向けて寝転がろうとする。
目の前に黒い影があった。
キャハハハハハハハッ!
女性の甲高い笑い声がオアシス内に反響した。同時に風が吹き荒れた。僕は体を丸めて縮こまった。なすすべもない。悲鳴を上げることすらできず、ツエルトを頭の上までかぶった。
怯える僕をからかうように、キャハハハッと嬌声がオアシスにはずみ、やがて夜闇に消えていった。
*
「どうにも嘘くさいですねぇ」
丸い天窓から、まだ星がかすかに確認できる早朝。顔を洗ってようやく会話できるようになったディミトラさんは、開口一番そう発言した。起床直後なのでいつものローブを脱いで、ワンピース型の薄着姿となっていた。寝巻なのか下着なのかもわからない。白く細い手足がパシャパシャと水に濡らされる。
「あなたの話を聞いていると、まるで死神が出たと言わんばかりではないですか」
「だからそう言っているんです」
ディミトラさんは手拭いで体を拭きながら、口を尖らせた。
「あのですね、ミタカ。このオアシス唯一の出入り口である、あそこの穴道には感電魔法を敷いてあるんです。なんであれ、あそこを通ったら朝まで痺れて動けないですよ」
ディミトラさんがいう入り口は、昨日見たままの光景だ。ピラちゃんは岩のように押し黙り、なにかが通った痕跡はない。
でも、そんなことは大した問題ではない。だって死神なんだから。
「死神なんですから、それに入り口からは来ないですよ。きっと空から舞い降りてくるんです」
ディミトラさんは付き合いきれないといった様子で首を横に振ってから、ローブを干している物干し紐のほうへと歩いていく。僕は朝食用の干し肉を二人分手に持ったまま、ディミトラさんの後ろをついていく。
ローブに手をなぞらせて、乾き具合を確認するディミトラさんの背中に言葉を続けた。
「それに魔法が効かないかもしれないじゃないですか」
なんたって死神なんだから。
振り返ることもなく、呆れた笑いで返された。
「なんですか、それ。なんでもありじゃないですか」
「ディミトラさんはあの笑い声を聞いてないから、そんなに余裕なんですよ。本当に不気味だったんですから。女の人が狂ったような、甲高い叫び笑い」
ローブに袖を通していたディミトラさんの動きが止まった。
「そもそもあの時すぐにディミトラさんが起きてくれればよかったのに。テントをゆすってもまるで起きてこないから——」
「ミタカ」
静止するような声に、口を閉じる。
ディミトラさんは水場のほうへ戻って、天を仰いだ。丸く切り取られた青空は、今日も雲一つない。
それから昨晩僕が寝ていた寝袋のもとへと移動した。なにかを探すように地面を注視している。
「……死神は、風を起こして消えたんでしたっけ?」
「ええ。ツエルトが吹き飛ばされるほどの」
「三メートル以上の——その表現はよくわかりませんが、とにかく大きな影が両手を広げていたと」
「はい。こう、腕の下に垂れたような影があったんで、ローブを着ていたと——」
そこまで言って、脳内に電流が走った。
空から舞い降りた。ローブを着た影。
青い石を狙う存在。
まさか、死神の正体は——。
「わかりましたよ! 魔女の仕業ですね! 魔女が死神のふりをして、商人たちを襲っていた——」
「まったくの見当違いなので黙っててください」
「あ、はい」
すみません、とか細く付け加えた。ディミトラさんは無言でゆっくりと周囲を徘徊し始めた。付いて回っても仕方がないので、粛々と朝食の準備を進めることにした。
青葉をみじん切りにし終わったところで、ディミトラさんのほうを見ると、こちらに背を向けて突っ立っていた。何かを手に取って、考え事をしているようだ。
「ディミトラさん?」
呼びかけに対して、手に取っていた物を腰袋にしまった。そして誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
「……ノートスめ。確かに嘘は言っていないですが」
ディミトラさんは枯れ木にかけていたとんがり帽子を手に取った。頭にかぶって、続けて杖を手に取った。
「ミタカ。朝ごはんは後にしましょう。少し向かいたい場所があります」




